第2話:飽きた
舞台は一転、現代日本へ。
午前三時の六畳間、液晶の白とキーボードの音だけが生きている。受験に敗れ、匿名の海にしがみつく誠二は、理屈の人間でありながら、赤いボールペンで六芒星を描き、「飽きた」と記す――理性と迷信が交差する一夜のはじまりです。
舞台は変わって、現代日本。
2025年10月6日、田中家の一室。薄暗い六畳に、キーボードの打鍵だけが乾いた雨のように降っていた。液晶の白が青年の頬を照らし、積み上げた参考書と空きカップの影を壁に伸ばす。
画面の向こうでは、匿名の群れが声を張り上げている。
「……はあ、ふざけんな。だからさっきから言ってるだろ、その考えはおかしいって。ソース出せよ、ソースを」
『はい雑魚乙w 情弱は消えろやw ぷぎゃーww』
青年の名は田中誠二、十九歳。額に細い青筋が浮かぶ。
「誰がニートだ。俺、こう見えて超有名大学在学中で、実家は都内タワマンの七十七階で、身長百九十の元モデル起業家ですが?」
もちろん嘘だ。
大学受験に失敗し、いまは「浪人」という仮面を被って、夜の大半を“レスバ”に費やしている。実態としては、紛れもなくニートだった。
『化学語るなよ素人がw』
「素人じゃねえよ。第一、さっきからお前が混同してんのは“強塩基”と“高pH”だ。塩基強度は化学種そのものの性質で、pHは濃度と系の条件に依存する。緩衝溶液にアルカリぶち込んでも直線的に上がらないのはヘンダーソン=ハッセルバルヒで説明つくだろ。式も貼った。再現性のあるデータも。査読通ってる論文もリンクしたよな。読め」
『長文きっつ……あーはいはい勝ち宣言ねw』
「知るか」
ぱたん、とノートパソコンを閉じた音が、やけに大きく響いた。
無音が戻る。さっきまで微かに聞こえていた虫の声も、いまは止んでいる。誠二はそのまま立ち上がり、シーツの皺が目立つベッドに身を投げ出した。
午前三時。部屋の暗さは、彼がこの小さな世界で孤独な点であることを、却ってはっきりさせる。
顔を布団に埋めて深呼吸をする。湿った匂いが鼻腔を満たした。カビと埃の混じった空気は奇妙に落ち着く。自嘲が喉元までせり上がる。
「俺……なんで、こうなった」
くぐもった声が、密な空気に吸い込まれていく。
一年前なら――たぶん、こんなんじゃなかった。大学に受かって、キャンパスで笑って、だれかと並んで歩いて、ちやほやされて……。
そこまで思い描いたところで、胸がきゅっと縮んだ。仰向けになる。天井の薄汚れた白が、見つめ返してこない白であることに、なぜだか救われる。
「もう、涙も出ねえ」
ごしごしと目頭をこすっても、指先は乾いている。かわりに鼻の奥がつんと痛み、すすり上げる音だけが残った。
唐突に、起き上がる。
前髪をかき上げると、整えられていない黒髪が指にからむ。袖口からのぞく手首は驚くほど細く、白い皮膚の下で青い血管が薄く走る。目の下の隈だけが、眠気とは別の疲れを告げていた。
小学生の頃から使っている分厚い学習机。天板の端は鉛筆の跡で黒ずみ、教科書棚には化学の本ばかりが詰まっている。『無機化学』『有機反応機構』『物理化学概論』。付箋は色とりどりで、どれも途中で止まっていた。
引き出しから小さなメモ帳を取り出す。ペン立て代わりの缶から、赤いボールペンを一本。
ひと呼吸置いて、インクを走らせる。
六つの線を、正確に。交わり、重なり、ひとつの星形を作る。
中心に、ひらがな二文字――「飽きた」。
赤が紙ににじみ、わずかに裏へ透けた。
「どこの板で見たんだっけ、これ」
彼は独りごちながら、キャップを雑に閉めた。
“異世界に行く方法”。馬鹿げたスレタイ。
紙に六芒星を書き、真ん中に「飽きた」と赤で記す。枕の下に入れて寝ると、目が覚めたときには――。
信じる根拠は、ない。
化学で学んできたのは、根拠と再現性と、嘘を剥がす手順だった。だからこれは、真逆の行為だ。
それでも、人は、ときどき逆方向へ歩きたくなる。
「……こういうのに、すがりたくなるときだって、あるんだよ」
メモをひらりと裏返し、枕の下へ滑り込ませる。
青白いモニターの光が、蓋を閉じたままのパソコンの縁で細く反射していた。
灯りを消す。闇はすぐに馴染む。布団の重みが背を包み、思考の輪郭が崩れていく。
自分自身への不快を抱えたまま、そして――もしかしたら、という薄い希望を、胸の奥に押し隠したまま。
誠二は、音のない夜に沈んでいった。
第2話は、孤独の質感(光・音・匂い)と、科学と言霊の対比で誠二の輪郭を立てました。
レスバは勝ち負けではなく「居場所の擬似感」を描く装置、六芒星は現実を一歩はみ出す引き金。次回は、その紙切れがもたらす“目覚め”の行き先を描きます。タイトル案は「六芒星の夜明け」。続きもぜひ。




