全盛期-3.執行開始
翌晩。月は厚い雲に隠れ、下界の惨劇を見ることさえ拒んでいるようだった。
ターゲットである悪徳領主の屋敷は、高い城壁と数百人の精鋭兵に守られ、不気味なほどの静寂に包まれている。
だが、その静寂は僕たちが作り出したものだ。
屋敷の広大な屋根の上。漆黒の戦闘服に身を包んだ三人の影が、音もなく着地する。
「リーダー、準備は整っております。私はいつでも『解体』を始められる」
通信石から、ボーンの低く湿った声が届く。
いつもの医師の白衣を脱ぎ捨て、黒いオペ着を纏ったボーンが、暗闇の中で鋭利なメスを弄んでいる。彼の「仕事」は、ターゲットから叫ぶ権利さえ奪う残酷なまでの精密作業だ。
「庭の警備兵は全員、音もなく氷像に変えておいた。……うん、細胞の一つも壊してない。溶ければ元通りさ。死体としてはね」
屋根の反対側から、ニヴェが淡々と報告を上げる。
氷菓子屋としての柔和さは消え、その指先からは絶対零度の魔力糸が伸びている。彼の「凍結」は、逃げる暇さえ与えない。
僕は懐からメモを取り出し、裏社会の情報屋から送られてきた最終データを確認する。
「ターゲットの居室は三階北側。愛人を侍らせて酒を飲んでいる。護衛はおそらく241人か……警備の交代まで、あと三分」
一国の王さえも跪かせる圧倒的な重圧が、僕の体から溢れ出す。
空気が重く、鋭く、物質的な「死」となって周囲を支配する。
「よし。これより執行する。……一人も残すな。だが、無駄な血は流すな。僕たちの足跡は、絶望だけでいい」
この瞬間、僕の中の一人称が「僕」から「俺」へと切り替わった。
俺は腰に下げた『双極・白狼剣』の柄に手をかける。
時速400kmで駆け抜ける白き閃光が、今、放たれようとしていた。
『白爪』による、一方的な蹂躙。
それは戦闘ですらない。
神の宣告よりも確実な、物理的な「因果律の清算」だった。
「行くぞ。……三、二、一――」
影が動いた。
その刹那、屋敷を護っていた数百の命は、自分たちがなぜ死ぬのかを理解することさえ許されなかった。
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重厚なオーク材の扉が、音もなく左右に開く。
そこには、贅を尽くした寝室の奥で、魔力に満ちた大剣を構えた男がいた。この地の領主、バルトロ。かつて勇者パーティーの一員として魔王軍と戦ったと豪語し、その武勇を盾に民を蹂躙し続けてきた男だ。
「貴様、何者だ! 私は国家公認の領主だぞ! この聖剣の輝きが見えんのか!」
バルトロが叫ぶ。大剣から放たれる凄まじい魔圧が空気を震わせ、並の暗殺者ならその威圧感だけで心臓を止められるだろう。
だが、俺にとっては、止まっている標的と何ら変わりはない。
「……そこのお前、私欲のために罪のない人々を殺めておいて、何も思わないのか?」
悪党に最後の慈悲を問うつもりだった。
男の答えは反吐が出るものだった。
「やかましい!私に逆らったバカを葬ったぐらいでなんだというのだ!」
バルトロが咆哮とともに大剣を振り下ろす。床が砕け、衝撃波が部屋を埋め尽くした――はずだった。
最高時速400km。
加速の衝撃で空気が爆ぜる音さえ置き去りにして、俺は男の視界からかき消える。
「なっ……どこへ行った!?」
背後から響く俺の声に、男は獣のような反応で振り向きざまの一撃を放つ。だが、そこにはもう誰もいない。
男が次に感じたのは、絶対的な「死」の予感だった。
俺はすでに、男の喉元にいた。
逆手に持った白銀の二対、『白狼剣』。その切っ先が、男の喉の皮膚をわずかに割っていた。
0.5秒先の未来を確定事項として捉える『狼王の眼』が、男の無様な死に様を脳内に投影する。
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「ま、待て……! 金なら出す! 隠し財産があるんだ、この街を丸ごと買えるほどの額だ! 命だけは、命だけは助けてくれ!」
バルトロの顔から傲慢な色が消え、浅ましい命乞いが部屋に響く。
かつて勇者と共に歩んだとされる誇りなど、どこにもなかった。あるのは、死を前にした剥き出しの生存本能だけだ。
「……断る。お前の金で救われる命より、お前の命で救われる魂が、外で待っている」
山奥で泥にまみれた金貨を差し出した、あの老人の震える手を思い出す。
あの一枚の重みに比べれば、この男が積み上げた黄金など、ただの塵に等しい。
「あ、がっ……!」
閃光。
剣が振られたことすら認識させない、文字通りの神速。
一振りで空間そのものを切り裂く『白狼剣』の軌跡を、人間の動体視力が捉えることは不可能だ。
バルトロの首は、自分が死んだことさえ理解できぬまま床に転がった。
魔王や勇者を一瞥で屠る力を持つ俺にとって、過去の栄光に縋るだけの男など、ただの肉塊に過ぎない。
返り血の一滴さえ、俺の白いコートに触れることは許さなかった。
「……終わりだ」
通信石に、短く告げる。
「リーダー、こちらも完了。屋敷内の警備兵241名、すべて『静止』させたよ」
ニヴェの冷徹な報告が耳に届く。
「撤収だ。指紋一つ、髪の毛一本残すな。ボーン、あとは任せる」
「承知しました、リーダー。彼らの体内に残った魔力の残滓まで、綺麗に『清掃』しておきましょう」
数分後。
悪徳領主の屋敷には、外傷一つない物言わぬ死体だけが残され、俺たちは夜の闇に溶けていった。
明日、この街には「領主が忽然と命を落とした」というニュースが駆け巡るだろう。だが、誰がそれを成したのかを知る者はいない。
僕は走りながら、僕の中の「俺」を眠らせる。
鋭すぎる爪を隠し、冷徹な瞳を和らげ、心拍数を便利屋のそれに調整していく。
すべては、明日またアイリスの前で「お人好しのルウくん」に戻るために。
彼女の作るシチューの匂いを思い出しながら、僕は朝霧の中、愛する「日常」へと帰還した。
まさか、この完璧な任務の裏で、運命が残酷な悪戯を用意しているとも知らずに。




