放浪-1.無傷の怪物と調律師
日差しが眩しい昼下がりの市場。僕はアイリス姉さんの腕の中に収まり、街の人々に「あら可愛い」「食べちゃいたい」などと軟派な言葉を投げかけられる屈辱に耐えていた。フリルドレスの裾が風に揺れるたび、僕の精神的なヒットポイントは削り取られていく。
そんな時、アイリス姉さんが一人の女性の前で足を止めた。
「ピセアさん! こんにちは。今日も新鮮な薬草をありがとうございます」
「アイリスさん、こんにちは。あら、その子が噂のルウくんですか? ……とっても可愛い、苺のお洋服ね」
ピセアと呼ばれたその女性が、屈み込んで僕の顔を覗き込んだ。
「にゃっ……?(なんだ、この女……?)」
僕の「狼王の眼」が、反射的に彼女を解析しようとした。元・死神として、僕は初対面の相手に対して無意識に「殺るか殺られるか」のシミュレーションを行う癖が抜けていない。
だが、驚くべきことが起きた。
見えない。何も見えないのだ。
彼女の心拍、体温、魔力の流れ、筋肉の緊張――そのすべてが、あまりにも「平坦」すぎる。通常、人間には何かしらの「揺らぎ」があるものだ。殺意、恐怖、あるいは喜び。しかし、目の前のピセアからは、まるで森の奥にある古木や、道端の石ころのような、完璧なまでの「静寂」しか感じられない。
(……ただの一般人、か。アイリス姉さんの知り合いにしては、拍子抜けするほど普通だ)
僕は一度立てた毛を寝かせ、喉を鳴らした。彼女の手が僕の頭を撫でる。その感触は驚くほど穏やかで、僕の脳裏を埋め尽くしていた「かつての殺戮の記憶」さえも、春の霧のようにうっすらとぼやかしていく。
しかし、僕はこの時、まだ気づいていなかった。
市場の喧騒、荷馬車の音、人々の話し声――彼女を中心とした半径数メートルにおいて、すべての事象が不自然なほど「調和」していることに。彼女の周囲では、僕の魔力吸収すら発動しない。なぜなら、吸収すべき魔力そのものが、彼女の存在によって「ただの空気」へと変換・調律されてしまっているからだ。
「ルウくん、いい子ね。今度、森の美味しい果物を持っていくわ」
ピセアは微笑み、去っていった。
(……フン、平和ボケした女だ。僕がかつて4万人以上を手にかけた死神だとも知らずに)
僕は彼女の背中を見送りながら、自嘲気味に鼻を鳴らした。だが、僕の野生の直感の片隅で、小さな警告音が鳴り続けていた。あの女は「無害」なのではない。「有害なもの」そのものを、この世から消し去ってしまう「何か」なのではないか――。
その答えを知ることになるのは、もう少し先の話だ。
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隣国の国境付近、深く険しい山中。
昨晩、この場所で一軍に匹敵する私兵団が文字通り「肥料」に変えられたことなど、今の二人を見れば誰も信じないだろう。
「ふんッ! ……よっと!」
凄まじい地響きと共に、樹齢数百年はあろうかという古木が持ち上げられた。
フォルトは上半身裸になり、その鋼のような筋肉を躍動させている。彼の「表の顔」は腕利きの林業屋だ。普通の木こりが数人がかりで数日かける作業を、彼はわずか数分で、しかも素手で行う。
「アスト、こいつを市場に流せば、今月の酒代には十分だろ? 良い具合に乾燥してやがる」
「ああ、質のいいトウヒだ。楽器職人が喜びそうだよ。……フォルト、少し左に寄せろ。影の形が悪い」
アストは木陰に座り込み、手際よく愛弓の弦を張り替えていた。彼の指先は繊細で、昨晩、数キロ先から正確に眉間を射抜いていた時と同じ、冷徹なまでの正確さで作業を進めていく。
「戦いも仕事も無傷で済む。俺たちらしくていいじゃないか」
アストが涼しい顔で答える。彼らにとって、数万人を殺害してきた過去も、今日稼ぐ酒代のための労働も、同じ「日常」の延長線上にあった。
「全くだ。ルウの野郎みたいに小難しく考える必要はねぇ。悪を斬り、木を切り、酒を飲む。これ以上の幸せがあるかよ」
フォルトは豪快に笑い、担ぎ上げた巨木を軽々と地面に置いた。
彼らは自信に満ちていた。
自分たちは誰にも縛られない。法も、王も、魔王ですら自分たちを捕らえることはできない。
「翠影双翼」という名の伝説は、今この瞬間も、自由な風のように大陸を駆け抜けているのだ。
「さて、仕事が終わったらあの薬草農家の姉ちゃんのところに寄るか。あそこの特製茶は疲れが取れるからな」
「……ああ。ピセアさんか。あそこは居心地がいい」
深い森の静寂の中、木漏れ日が地面に斑模様を描いている。切り倒された巨木の上で、フォルトは水筒の水を一気に煽り、拭った汗を地面に飛ばした。
「そういえばフォルト、聞いたか?」
アストが愛弓の調子を確かめながら、どこか楽しげに、それでいて侮蔑を隠そうともせずに切り出した。
「巷で流れている馬鹿げた噂だ。全世界444人リスト……例の『最悪の終焉』ルウと、『轟く赤雷』ティルが、たった二人の女に完敗して、今はペットとして飼われているらしいぜ」
「……あ?」
フォルトは一瞬、何を言われたのか理解できず、間抜けな声を漏らした。数秒後、その意味が脳に届くと、彼は腹の底から突き上げるような爆笑を漏らした。
「ハッ! 笑わせんなよ! あの野心と暴力の塊みたいな連中が、女の膝の上で喉でも鳴らしてるってか? どんな冗談だ、そりゃあ」
フォルトは傍らの斧を掴むと、近くの切り株に力任せに突き立てた。ドォン、という重い衝撃音が森に響き渡る。
「あのルウは時速400kmで動く化け物だ。ティルに至っては、城壁を素手で粉砕する。そんな連中を無力化できる女がいるとすれば、そいつは人間じゃねえ。神か魔王の類だろ」
「だが、噂の出所はあちこちにある。ルウはピンクのフリルドレスを着せられたマンチカンに、ティルは震えるチワワに作り替えられたとな」
アストは冷笑を浮かべ、細い指先で弓の弦を弾いた。
「牙を抜かれた猛獣ほど惨めなもんじゃねえ。リストの面汚しもいいところだ。自分より弱い相手に背中を見せるからそうなるんだ。……俺たちなら、そんな隙は見せねえよ」
「当たり前だ。俺たちの獲物は森、そして不浄な連中だけだ」
フォルトは立ち上がり、隆起した筋肉を誇示するように肩を回した。
「女の顔色を伺って生きるなんて、死んでも御免だぜ。俺たちは自由だ。この大陸のどこへ行こうと、俺たちを縛れる鎖なんてこの世には存在しねぇんだからな」
二人の怪物は、自分たちが最も高潔で、最も無敵であると信じて疑わなかった。かつての同胞たちが陥った「日常」という名の地獄。それが自分たちのすぐ背後まで忍び寄っていることに、彼らはまだ、一ミリも気づいていなかった。
最強の二人は、まだ知らない。
自分たちが慕っている「おっとりした薬草農家」こそが、自分たちの誇り高き牙を抜き、猛者たちを「もふもふ」へと作り替える、運命の調律師であることを。
二人の怪物は、鼻歌混じりに森を下りていく。その先に、可愛らしい「籠」が用意されていることなど、夢にも思わずに。




