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全盛期-1.穏やかな陽だまりの便利屋

聖女による断罪までのカウントダウンが始まる。まだペットになる前

 

 石畳の路地に、柔らかな朝の光が差し込む。

 小鳥のさえずりと、どこかの家から漂ってくる焼き立てのパンの匂い。そんな平和の象徴を詰め込んだような光景の中を、僕はいつものように歩いていた。


「ルウくん、おはよう! 今日も早いわねぇ」


「おはようございます、おばさん。昨日言ってた隣の家の雨樋、さっき直しといたよ。ゴミが詰まってただけだから、もう大丈夫」


「あら、助かるわ! はい、これお礼の林檎。持っていきなさい」


「わあ、ありがとうございます」


 僕は小柄な体躯を揺らし、清潔感のある白いシャツの袖を捲り上げて、柔和な笑みを浮かべた。

 受け取った林檎を一つ、軽く空中に放って受け止める。その動作に、かつて数万人の命を瞬時に刈り取った「最悪の終焉」としての片鱗など、微塵も感じさせない自信がある。


 今の僕は、この街で一番の「お人好しの便利屋」だ。

 ドブ板さらいから、高い木に登って降りられなくなった猫の救出、さらには壊れた家具の修理まで。何でも安月給で引き受ける、少し気弱で愛想の良い青年。それが、僕がこの数年かけて築き上げてきた完璧な擬態だった。


(……平和だ。なんて、脆くて美しいんだろう)


 かつて、僕の指先は鋼の絹糸で敵をマリオネットのように操り、双極・白狼剣は一振りで軍隊を肉塊に変えてきた。

 夜の帳が下りれば、僕は『白爪』のリーダーとして、444人の「決して逆らってはいけない人リスト」の1人だ。

 その気になれば国家の存亡を指先一つで左右する。

 けれど、こうして陽だまりの中を歩いていると、そんな血生臭い自分はどこか遠い異世界の出来事のようにさえ思える。


「ルウさーん! 井戸のポンプがまた動かなくなっちゃって……」


「今行きますよ! 道具箱を持ってくるから、ちょっと待っててね」


 僕は駆け出す。最高時速400kmを誇るその足の、百分の一の速度も出さずに。

 最高時速400km。この桁違いの物理法則という範疇を超えた数字は、100mを1秒台を切る速度だ。これを聞いたら魔王や勇者ですら震え上がるのは間違いない。この速度だけはどうしても知らせてはいけない上に、誰も知ってはいけないがここだけの情報としよう。

 全力で走れば、この街の平和な景色は一瞬で後ろに流れるだろう。でも、僕はそれをしない。

 僕は、この日常を愛している。

 血で染まった手を隠し、嘘を重ねてでも守りたい「温もり」が、この先にあるから。


-----


 午前中の仕事を一通り終えて、僕はいつものように孤児院へと向かった。

 門をくぐると、裏庭の広場でアイリス姉さんが大きなバスケットを抱えて立っていた。


「あ、ルウくん! ちょうど良かった。今からシーツを干そうと思ってたの」

「手伝うよ、アイリス姉さん。今日は風があるから、すぐ乾きそうだね」


 水色の髪をゆるく巻き、垂れ気味の瞳を細めて微笑む彼女は、今日もおっとりとした聖母のようなオーラを纏っていた。

 僕たちは並んで、真っ白なシーツを紐にかけていく。

 パン、と湿った布を叩く音が心地よく響く。

 アイリス姉さんは僕より二歳年上で、身長も僕とそれほど変わらないけれど、彼女の隣にいると僕はいつも、十年前のあの雪穴で震えていた子供に戻ったような気分になる。


「ねえ、ルウくん」


 ふと、アイリスが手を止めて、シーツの向こう側から僕を見つめた。

 その瞳が、いつもより少しだけ曇っていることに気づき、僕の背筋に冷たいものが走る。


「……どうしたの、姉さん?」

「最近、街の人たちがまた噂にしているでしょう? その……『白爪(ホワイトクロー)』っていう人たちのこと」


 心臓が、跳ねた。

 まるで、鋭いナイフを喉元に突きつけられたような緊張感。

 僕は反射的に「最強の暗殺者」としての顔が出そうになるのを、超人的な精神力で抑え込んだ。

 顔の筋肉を硬直させず、あくまで「無害な便利屋」の困り顔を維持する。


「……ええ、まあ、悪い奴らを掃除してるっていう、都市伝説みたいな人たちですよね。最近、隣国の悪徳貴族が屋敷ごと消されたとか……そんな話を酒場で聞きました。ああいう自警団みたいになれたら僕もあなたを守れるのに」


 僕は努めて平穏な声で返した。実際、その貴族を消したのは僕自身であり、ボーンに「解体」を、ニヴェに「完全凍結」を命じたのも僕だ。証拠は一切残していないはずだ。


 けれど、アイリス姉さんの瞳に宿ったのは、明らかな拒絶の光だった。

 彼女はシーツを握りしめ、ひどく哀しげに、そして峻烈な語気で口を開いた。


「私、あの人たちをどうしても好きになれない。どんな理由があっても、闇に紛れて勝手に人の命を奪うなんて……それは、正義なんかじゃない。最も忌むべき邪悪だもの」


「邪悪」。

 その言葉が、僕の胸を深く抉った。

 どんなに弱者を救うためでも、どんなに腐った根を断つためでも、彼女の世界、つまり表の世界の法において、僕の行いは「絶対悪」に分類される。

 だけど、僕の中の「邪悪」の定義とアイリス姉さんが思う「邪悪」は全くの別問題だ。


「もし私の周りにあんな人たちがいたら……私、絶対に許さない。暴力で世界を変えようとするなんて、命を侮辱しているわ」


 アイリス姉さんの瞳が、ふと水色から深い蒼へと色を変えたように見えた。

 彼女はまだ怒っていない。ただ、深い悲しみを持って「宣告」しているのだ。

 彼女自身の戦闘力はゼロだ。重い荷物を持つのにも苦労するような、華奢な女性。

 それなのに、僕は今、魔王軍の総攻撃を真正面から受けた時以上のプレッシャーに、冷や汗を流していた。

 ――何これ...。


「……そうだね。僕も、怖いと思うよ。そんな人たちが近くにいたら、夜も眠れなくなっちゃうね」


 僕は笑顔の仮面を貼り付けたまま、おどけたように肩をすくめて見せた。

 内側では、心臓が警鐘を鳴らしている。


(危ない……。絶対に知られてはならない。もし、僕がその『白爪』のリーダーだと知られたら、彼女はどんな顔をするだろう。悲しませるだけじゃない、彼女は僕を『存在してはならないもの』として拒絶するだろう)


「そうよね。ごめんね、ルウくん。こんな物騒な話をしちゃって。ルウくんはこんなにお人好しで、優しい人だものね」


 アイリス姉さんはそう言って、いつもの穏やかな笑顔に戻り、僕の頭を優しく撫でた。

 その温もりが、今の僕には何よりも恐ろしく、そして何よりも失いたくない宝物だった。


「さあ、お仕事おしまい! お昼ごはんにしましょうか。今日はルウくんの好きなシチューよ」


「……うん、楽しみだ。手伝うよ」


 僕は返事をして、彼女の後ろを歩き出す。完璧だったはずの隠蔽。誰にも暴けないはずの二重生活だが、この時僕は、初めて「恐怖」というものを真に理解したのかもしれない。剣を向けてくる強敵ではなく、自分を慈しんでくれる、この穏やかな女性の「正義」に。


 ――なんて考えるのは、まだ先でいいかな。いつか認めてくれる日が来る。今はそう思っておこう。


 僕は「便利屋のルウ」としてアイリス姉さんの隣に立ち、考えるのをやめた。


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