プロローグ-2.白き狼の遠吠え
僕は、彼女の枕元に、雪の中から見つけ出した一輪の小さな冬の花を置いた。
「……ありがとう、アイリス姉さん。僕は行かなきゃ...」
それは、僕が「ルウ」という一人の人間として発した、最後の言葉だった。
修行の日々を語るには、「地獄」という言葉ですら生温かった。
アイリスにすべての目的を隠した僕を突き動かしていたのは、ただ一つの純粋な飢餓感だ。あの日、雪穴の中で感じた圧倒的な無力感。それを塗りつぶすための、絶対的な「力」への渇き。
僕は世界各地の暗殺ギルドへ単身で乗り込んだ。門を叩き、教えを請うのではない。
「ここの一番強い奴を出せ。勝ったら技術を全部置いていけ」
そう告げて、立ち塞がる門下生を皆殺しにし、奥義書を血で濡らしながら奪い去る。砂漠の暗殺教団では毒への耐性と不可視の歩法を盗み、東方の侍の里では空間を断つ太刀筋を、極北の魔術師塔では魔力を直接喰らう禁忌の術をその身に刻んだ。
魔境に棲む幻想種の獣を素手で引き裂き、その肉を喰らって細胞の一つひとつを再構築した。
気づけば、僕は時速400kmという、もはや生物の限界を超えた領域で戦場を駆けていた。
そして、14歳になった僕の背後には、僕と同じく世界に絶望し、理不尽に全てを奪われた11人の「怪物」たちが集っていた。
「いいか、勘違いするな。僕たちは英雄になんてなれないし、なるつもりもない」
月明かりの下、銀色に輝く双極・白狼剣を構え、僕は集った仲間たちに言い放った。
「僕たちはただの英雄じゃない。光の届かない場所でゴミを掃除する死神だ。法が裁けぬ悪を、僕たちが根絶やしにする。……たとえ、世界すべてを敵に回してもだ」
それが、チーム『白爪』の結成だった。
医師でありながら骨と神経だけを抜き取るボーン。街一つを静止させる凍結のニヴェ。あらゆる防具を溶かすアルム。
僕を含めた12人の死神が動くたび、圧政に耽る腐敗貴族は枕元で首を失い、数万の魔王軍は一夜にして物言わぬ肉塊へと変えられた。
各国の諜報機関は、僕を「最悪の終焉」と呼び、その遭遇を人類の終わりとして定義した。
累計殺害人数は3万を超えた。僕が通った後には、歴史そのものが断絶する。
『白爪』の名は、世界の権力者たちが最も忌み嫌い、そして夜も眠れぬほどに恐れる「絶望の牙」の代名詞となったのだ。
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――そして、13年後の現在。
凄惨な殺戮の宴から一夜明け、僕の視界にあるのは、血飛沫ではなく柔らかな朝の陽光だった。
「あ、ルウくん! ちょうど良かった、ここの棚、ちょっと直してくれる?」
エプロン姿で、困ったように眉を下げて僕を呼ぶ声。
かつて魔王軍幹部の首を一瞬で撥ね、空間さえも切り裂いたその右手で、僕は今、一本の古びたトンカチを握っていた。
「はーい、今行きますよ、アイリス姉さん」
僕は愛想の良い笑顔を浮かべ、ひょいと脚立に登る。
本物のアサシンだと感じさせない小柄な体躯。少年のような幼さが残る顔立ち。どこにでもいる、少し気弱でお人好しな「便利屋のルウ」。それが今の僕の表の顔だ。
僕たち12人は裏の世界で「絶対に逆らってはいけない444人」に君臨し、国家の外交方針さえも変えさせる「最悪の終焉」の面影は、微塵も残っていない。
「もう、ルウくんは本当にお人好しなんだから。孤児院の仕事まで安月給で手伝ってくれて……。あんまり無理しちゃダメだよ?」
「へへ、アイリス姉さんに褒められるのが一番の報酬ですから。それに、子供たちの笑顔を見てると、なんだか僕まで救われる気がするんだ」
それは、嘘偽りのない本音だった。
彼女が運営するこの孤児院は、僕にとって唯一の「聖域」だ。
かつて僕を救い、名前も告げずに去った僕を、数年後に再会した際も変わらぬ温かさで受け入れてくれた人。彼女は僕が何をしてきたかを知らない。僕が何万という命を刈り取ってきた死神であることを、夢にも思っていない。
アイリスは、法と正義を重んじる人だ。
彼女はよく、街の噂に上る『白爪』のことを、哀しげな瞳でこう語る。
「力でしか解決できないなんて、悲しいことね。あんなふうに法を無視して殺戮を繰り返す人たちは、この世界で最も忌み嫌うべき邪悪だわ。いつか、彼らも命の尊さを知らなければならないのに」
その言葉を聞くたび、僕の心臓は冷たい氷を押し当てられたように震える。
(……知られたくない。彼女にだけは、僕のこの手が、どれほど洗いきれない返り血で汚れているかを)
だから僕は、異常なまでの執念で証拠を隠蔽した。
夜に一国を滅ぼしたとしても、朝には返り血を完全に洗い流し、香水で死臭を消し、穏やかな少年の笑顔を作って彼女の前に立つ。
この偽りの日常を守るためなら、僕は何度でも死神になる。彼女の隣で、ただの「ルウくん」として過ごす時間は、地獄のような修行の果てに僕が唯一手に入れた、宝石のような安らぎだった。
「ほら、直りましたよ。これで子供たちがぶつかっても大丈夫です」
「わあ、ありがとう! やっぱりルウくんは器用ね。……ふふ、いつか良いお嫁さんがもらえるわよ」
アイリスに頭を撫でられ、僕は顔を赤くして俯く。
この時、僕は確信していた。
この平穏は、僕が最強である限り、永遠に守り抜けるはずだと。
僕が完璧な隠蔽を続け、彼女をこの血生臭い真実から遠ざけ続ける限り、この幸せは壊れないのだと。
……しかし、運命の歯車は、僕の予想もしない角度から「破綻」へと向かっていく。
最強の暗殺者が、最も愛する女性の前で、その「威厳」のすべてを剥ぎ取られる瞬間は、すぐそこまで迫っていた。




