放尿、再び。
もうすぐ、メイの住んでいた村、シルフィード村に着くみたいだ。
みたいだ、というのは俺は場所を知らないからだ。
今はメイが《大爪狼》に変身している俺の背に乗りながらナビを務めていた。
「そこのオニバカエデの大樹を抜けた先にシルフィード村が見えて来ます!」
「わかった!じゃあそこの木の陰で一旦降ろすよ。」
俺は走っていたスピードを緩め、だんだん木に近付いていって完全に停止した。
身を屈めて(完全に伏せの状態で)メイを降ろす。
「怖かったけど、楽しかったです!こんな凄いスピードで走ったのなんて初めてです!」
若干足元がフラついているが、メイはとても興奮して顔を上気させていた。
「そっか。それは良かった。じゃあまた誰も居なかったら乗せてあげるね」
「はいっ!」
メイは嬉しそうに答えた。
木の陰でメイを降ろしたのはもちろん狼の姿を変えるためだ。村に生き残りがいた場合、狼の襲撃で襲われた人たちが俺の姿を見てどのような反応をするかなんて考えるまでもないからな。
「それにしても大きい木だなぁ…」
俺はそう呟きながら変身を解く。
根元に立っていると、この木がどれだけ大きいのか検討もつかない。俺の世界でデカい木というと、ジャイアントセコイアがあったけど、それくらいデカいんじゃないだろうか。
「はい。この木は他の木よりも一際大きいので、このオニバカエデを目印にシルフィード村が作られたんです。行商の方などもこの木を目指してやってきますから、遠くからでも見えるそうです。」
俺はそうかと呟き、オニバカエデの大樹に視線を奪われながら歩を進めだした。
木に注意がいっていたので、メイの様子を見ていなかった。ふと気付くと、足音もしないので、気になって後ろを振り返ると、五歩程離れた場所でメイは立ち止まっていた。
そこで俺は自身の失態に気が付いた。
それはそうだろう。この木を回り込んで森が開けたら、もう村が見えてくるのだから。
怖いに決まってる。もし、村が無くなってたら?誰も居なかったら?両親と知り合いの遺体ばかりが広がっていたら?そう思うと怖くて堪らないだろう。
先ほどまでの楽しげな会話も、自分自身を鼓舞する為のものだったに違いない。それでも、目の前に真実があるとなったら躊躇わずにはいられないだろう。
俺はそんな当たり前な事も忘れ、見た事も無い木にばかり意識を向けていた事を恥じた。
「どうする?俺が先に行って確認して来ようか?」
「…いえ、大丈夫です。ここで逃げたら今までの自分と一緒ですから。覚悟は…できています。」
真剣な表情で答えたメイだが、僅かに声が上擦っていた。
「じゃあ勇気の出るおまじないをしてあげよう。」
「?」
俺は不思議そうに上目遣いで見上げてくるメイの手を優しく、それでいてしっかりと握った。
俺も小さい頃、よく母親におまじないと言って手を握られた。すると、安心感からか、本当に勇気が出てくる気がしたものだ。
まあ、メイはその当時の俺より随分大きいけど、不安な時は人の温もりを感じるだけでも、とても安心出来る。
「ありがとう、ございます。」
小さい子のように手を握られたメイは、恥ずかしそうに照れて、でも決して嫌そうではなくそう言って、手を握り返してきた。
「じゃあ、行こうか?」
「はい。」
メイの顔には先ほどまでの怯えはなく、多少緊張はしているものの、安心感の中に、決意を滲ませていた。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
シルフィード村は酷い状況だった。
村には血の跡や壊された小屋が見られる。
小屋は主に家畜小屋が被害に遭ったようだ。
ただ、幸いにして、家などは倒壊させられたりはしていない。
遺体は何処にあるのだろうか。襲撃したのが狼なのだから食べられた人の方が多いのかもしれないが、それにしたって部分的にしろ残っている筈だ。
それにしても、動物被害でここまで村が壊滅しているなんてと思う。…魔物と動物を一緒にしてはいけないのだろうが、それでも日本に生きていた俺にとっては驚く程の被害だ。山間や、北の地では熊による被害で死者も出たりはするが、ここまで大事にはならない。俺の記憶では、大正時代に北海道で起こったヒグマ被害が最大だった筈だ。それにしたって死者数は10人以下だったと記憶している。
「…酷いな」
そんな事を思いながら呟いた俺にメイが反応した。
「はい、酷いです。…でも…思っていたより随分マシでした。」
顔を青くしながらも、気丈に答えるメイはそんな事を言った。これでマシなんだろうか。疑問に思った俺はメイに尋ねると。
「はい。あれだけ強い魔物が出てくること自体滅多にありませんが、出て来たとなれば酷い被害になります。強い魔物というのは頭も良いですから、来た時には既に手遅れという事の方が多いです。備えようのない天災とかわらないんです。ですからこれだけ村が原型をとどめている方が奇跡的なくらいです。…それもすべて魔物を倒して下さったヴィヴィさまのお陰です。」
「本当に、ありがとうございます…。」
そうか。魔物とはそこ迄の脅威なんだな。
また一つ、この世界の常識を記憶しておき、メイの頭を撫でる。
「そんなにかしこまらなくていいよ。俺が居たのは本当にたまたまだ。偶然俺が居たところにメイが逃げてきた。だったらメイの普段の行いが良くて、神様が助けてくれたんだろう。」
「それにね、これからはメイが俺の先生になるんだ。こんなに可愛くて、賢い先生に教えて貰える俺の方がお礼を言わなきゃいけない。メイ、ありがとう。ひょっとすると、俺の方がラッキーだったのかもしれないよ?」
メイの気持ちを少しでも和らげたくて、冗談めかして言った俺に今度は本気で顔を真っ赤にしたメイが俯いた。
「…ッ!!いえ、そんな…こと…かわい、くなんて…な…です…」
助けてすぐの頃に戻ったような喋り方をするメイだったが、その感情は怯えとは全く違うものであった。
そんな会話をしていると、村の奥、中央の方から人が歩いて来るのが見えた。俺たちは咄嗟に身構えたが、人影が近づいて来るにつれ、その風貌が見えてきた。
その身体はホコリと血で汚れ、顔には疲れと不安感がこびり付いている。白と灰色の混ざった髭を蓄えた老人だ。向こうの人も此方に気付いたようだ。
かなり警戒して、目を凝らしている。
しかし、次の一言でその表情は驚きに変わった。
「…村長!村長ですよね!!!!!」
叫んだのはメイだ。
するとどちらともなく駆け寄って。
「…あ、あぁ…メイジー…ブランシェット家のメイジーか…!!生きておったか…良かったっ…!」
「村長も!逃げ延びたんですね!…本当に良かったっ…」
「あぁ………しかし…ヴェルメリオとロメリアは…っ」
「…そう…ですか……でも、大丈夫です…覚悟はしていました。父と、母のお陰でこうして戻って来る事が出来たんです。二人の想いに応えたいと…思います。」
「…そうか。強くなったな…ついこの前まで寝返りをうつようになったばかりだと思っておったのに…」
メイはそれには答えず、静かに涙を堪えていた。
すると村長はようやく思い出したとばかりに此方に意識を向け、メイに尋ねた。
「それで、メイジー…彼方の綺麗な方は…?」
「はい。此方の方は狼に襲われていた私を助けてくださった命の恩人で、村の仇の狼をも仕留められたヴィヴィアンさまです。」
「…なんとっ!!!此方のお方が狼を仕留められたとっ!いやしかし…見た所、メイジーと然程歳も離れていない様に見えますが…なにか確認できるものなど御座いますかのう…」
「…ッ!!なんという事を!!村長はヴィヴィさまを疑っているのですか!?村長だとしても許せません!証拠が欲しいというのならば、わたしが生きてここにいる事自体が証拠ではないですか!!」
メイは酷く憤慨して、村長だという老人に掴みかかる勢いだ。俺はそれを宥めながら間に入る。
「いいよ、メイ。ありがとう。村長さんの言う事も尤もだ。知らない人間が狼を倒したなんて話を簡単に信じてしまって、村がまた襲われたなんて事になったら目も当てられない。村での責任を任されている村長さんが事実を見極める為に証拠が欲しいと言っているのは至極当然の事なんだ。…しかし、証拠か…」
そこで俺は考える。果たして狼の姿を見せるのは証拠になるだろうか。と。
いや、全くならないだろうな。即座に却下する。
寧ろ最悪の事態に陥りそうだ。
村を襲った主犯こそが俺だと言われる未来しか見えない。
どうするか…と、そこで思い出した。
あるじゃないか。証拠そのものが。アレを忘れていたなんて。自身に呆れながらも、腰のボロ袋に手を伸ばす。
無限の胃袋からアイテムを選択。
《大爪狼の屍体》を選択する。
すると眼の前の何もない空間に突如として、巨大な狼の屍体が現れた。
「ひッ…!!!」
目の前に現れた山のように大きな毛のかたまりに腰を抜かして倒れ込む村長。
メイは俺が変身する狼を見慣れたせいか、少し身体を強張らせて、目を見開く程度だった。
「これが俺の倒した狼です。俺が見たところ、全部で六匹の狼が居ましたが、倒したのは群れを率いていたコイツだけです。もしかすると、他の個体がまたやってくる可能性はありますので、警戒は充分にした方がいいでしょう。…これで俺の話を信じて貰えるといいのですが。」
「あ…あぁぁ…」
村長は呻き声を漏らすばかりで要領を得ない。
俺が不思議に思っていると。
じょぼぼぼぼぼ…
仄かに湯気を立ち昇らせながら、村長の股間部分がみるみるうちに濡れていった。
「………」
あぁ、何処かで見た事ある光景だな。
実践経験のある俺としても、老人のしも処理は御免だ。意識はあるようなのでご自身でなんとかして頂こう。俺はこの老人を村長改、撒き散らし爺と呼ぶ事にする。しかし、眠れる森の放尿少女や、撒き散らし爺など、どうしてこうも同じ反応をするのだろうか。この世界では狼に出会うと尿意を抑えきれないという因果律にでも支配されたおとぎ話や童話の世界という可能性が稀存…いや無いな。放尿ばかりするキャラクターの童話など子供の情操教育によろしく無い。俺は逃避気味にそう考えた。
「ふっ…」
そんな村長の様子を見ていたメイが勝ち誇ったように鼻で笑うのが小さく聞こえた。
いやメイ!笑ってるけどお前も一度は通った道だからね!?お前は眠れる森の放尿少女だからね!?
などという俺の心の叫びは当然メイには聞こえなかった。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「わかりました。信じましょう。この村を、メイジーを救って頂き、本当にありがとうございました。村を代表して感謝いたします。」
先ほどの失態などなかったように、キリッという擬音が聞こえてきそうな表情で村長が高らかに告げた。
しかし、その股間部分には紛れようもない証拠が染みを作っていた。
俺も大人だ。なかった事にするのに、やぶさかでもない。スルースキルを全開にして対応する。
「いえ、メイにも言いましたが、本当にたまたま居合わせただけでしたので。」
俺はちらっと横にいるメイに目を向けた。
すると、メイは未だ村長の股間部分を冷たい目で見ていた。きっと俺を疑って掛かった村長が真実を見て失態(失禁)を犯した事に暗い喜びを感じているのだろう。
俺はメイの新たな一面を見た気がしたと同時に、あの蔑むように冷たい目で見られるような事だけはしないと心に誓った。
いや、メイ。君も似たようなものだからね?
勿論そんな俺の思いもメイには届かない。いや、届けてはならない。なにか恐ろしい事になる気がして俺は内心冷や汗をかいた。
「いえ、それでもこのような強大な魔物を仕留めてくださった恩人に現状なにも出来る事が無いのが心苦しいばかりです。…きっと、この村が立ち直った暁には御恩をお返しさせて頂くことをお約束いたします。」
「そうですか。でしたら復興までの間、この村で生活をさせては頂けませんか?また狼が襲って来るとも限りませんし、もちろんお手伝いもさせて頂きますので」
俺は当初の目的の為に村に滞在させて貰える許可を貰えないか申し出た。
「おぉ!本当ですかな!?願っても無い事です!これ程大きな魔物の屍体すら仕舞える魔法袋など見た事がありません。さぞ強大な魔力が込められているのでしょう。そんなアイテムを持ち、魔物の脅威を退けたヴィヴィアン様が居てくださるというならば百人力ですじゃ。寧ろ、此方の方からお願いしたい。」
そう言って村長は深々と頭を下げた。