第10話:誇りなき指先でも、誰かを守れるなら
下水道の最深部、旧区画の崩落現場。
そこには、いつもの軽口を叩く余裕など微塵もなかった。
「お兄ちゃん、助けて……暗いよ、痛いよ……」
瓦礫の隙間から、小さな子供の泣き声が漏れていた。
迷い込んだ街の少年。彼を救い出そうとした救助隊は、崩落の連鎖を恐れて手が出せずにいた。瓦礫を動かせば、上にある数トンの土砂が一気に少年の上に降り注ぐ。
「魔法で吹き飛ばすわけにもいかない……。物理的に持ち上げる隙間もないわ」
ミレーヌが、いつになく真剣な表情で、薄い布を握りしめていた。
「主よ……あやつ、魂の灯火が消えかかっておるぞ」
ポチも、その鋭い嗅覚で死の匂いを嗅ぎ取っていた。
そこへ、アイリスに連れられた俺が到着した。
「……ヴォルガッシュ様。見ての通り、この状況を打破できる『道具』は、この街に存在しません。……いいえ、一つだけありました。貴方の指です」
アイリスが指し示したのは、瓦礫と瓦礫の間に空いた、わずか数センチの隙間。
そこから少年の足が見えている。救い出すには、その隙間を広げるのではなく、その隙間を通して「支え」を作り、少年の体を直接引き抜くしかない。
「……やってやるよ」
俺は右の袖を捲り上げた。
これまで「鼻をほじり、土下座をさせる」ためだけに使ってきた、呪われたはずの右の人差し指。
俺は、その指を瓦礫の隙間へと、音もなく滑り込ませた。
「ヒッ……痛い、誰か……」
「大丈夫だ。……今、レガシー家の騎士が助けてやる」
俺は指先を少年の衣服に引っかけた。
だが、その瞬間、天井の瓦礫がミシリと嫌な音を立てた。連鎖崩落が始まる。
「ヴォルガッシュ! 逃げな! 下敷きになるよ!」
ミレーヌが叫ぶ。
逃げる? 冗談じゃない。
俺は、左手で天井の瓦礫を支えた。いや、支えきれない。
俺はとっさに、左手を天に向かって突き出し、叫んだ。
「スキル発動――『全自動・土下座』!!」
対象は、俺。
重力のような不可視の力が、俺の背中にのしかかる。俺は少年の上に覆いかぶさるような形で、地面に「土下座」の姿勢で固定された。
自分自身にスキルをかけることで、俺の体は「何があっても動かない不動の支柱」と化した。
ドォォォォォンッ!!
崩落した土砂が、俺の背中を打つ。
だが、スキルによる絶対的な固定は、数トンの重みを受けても微塵も揺るがない。
「ぐ、ああああああ……ッ!!」
「お兄様!? 無茶ですわ、そんな……!」
駆けつけたアイリスの声が聞こえる。
俺は、土砂の重みに耐えながら、隙間に差し込んだ右の指先に全神経を集中させた。
光速の振動は封印する。そんなことをすれば、少年を傷つけてしまう。
今、必要なのは――『究極の精密さ』。
鼻腔の奥の、数ミリの粘膜を傷つけずに異物を掻き出す、あの繊細な技術。
オリハルコンの指先が、少年の腕を優しく、しかし確実に捉えた。
一ミリずつ、慎重に。瓦礫の摩擦を指先で感じ取り、障害物を最小限の動きで回避する。
「……捕まえた。……離すなよ、坊主!」
俺は指先一本の力で、少年の体を自分のお腹の下、安全な空間へと引き寄せた。
「……アイリス! 坊主を、連れて行け……!」
「っ……!! 分かりました!」
アイリスとミレーヌが、俺の体の隙間から少年を救出した。
少年が安全な場所まで運ばれたのを確認し、俺はスキルの解除を念じた。
一気に土砂が俺を押し潰そうとする。
だが、その瞬間、ポチが本来の巨体に戻ることなく、強靭な尾で瓦礫を弾き飛ばした。
「ヌシよ。死ぬにはまだ、肉の在庫が足りぬぞ」
静寂が戻った下水道。
泥と血にまみれた俺の前に、救出された少年が震えながら歩み寄ってきた。
「お兄ちゃん……ありがとう。……お兄ちゃんの指、温かかった」
俺は、震える右の指を見つめた。
オリハルコンの輝きは失われていない。それどころか、少年の命を繋いだその指は、今までで一番誇らしく見えた。
アイリスが、泥だらけの俺の傍らに膝をついた。
彼女は、眼鏡を外し、ハンカチで俺の指を丁寧に拭った。
「……ヴォルガッシュ様。今日の貴方は、誰が何と言おうと、王国で最も気高い聖騎士でしたよ」
「……へへ。……でも、明日からまた『不審者』扱いなんだろ?」
「ええ。この功績は『清掃中の事故処理』として処理します。貴方はまだ、地下で眠っていてくれないと困りますから」
アイリスの冷たい言葉。だが、その声は微かに震えていた。
俺は、ポチの背中に支えられながら、地下倉庫への長い階段を上り始めた。
鼻をほじり、土下座をさせる。
そんな最低のスキルでも、使い道次第で、誰かのヒーローになれる。
没落騎士ヴォルガッシュ。
彼の不名誉な伝説は、この日、一人の少年の心にだけ、本当の輝きを刻んだのだった。




