第9話:氷の受付嬢の秘密。アイリスが眼鏡を外す時
地下生活が始まって一ヶ月。
俺の日常は、ポチの肉の世話と、ミレーヌの脱衣の制止、そしてアイリスが持ってくる「鼻をほじりたくなるような難題」の処理で埋め尽くされていた。
ある日の深夜。地下倉庫の備蓄用ワイン(勝手にミレーヌが拝借したもの)が切れたため、俺はこっそりとギルドの裏口へと向かった。
そこで俺は、意外な人物の姿を目にする。
「……はぁ。また今日も、彼に不条理な報告書を書かせてしまったわ」
ギルドの裏庭。月明かりの下で、誰かがポツリと独り言を漏らしていた。
アイリスだ。
いつもの事務的な隙のない制服姿ではない。少し着崩したブラウスに、そして何より――彼女は、あの銀縁眼鏡を外して、噴水に溜まった水で顔を洗っていた。
「アイリス……さん?」
「っ!? ヴォ、ヴォルガッシュ様!? なぜこんな時間に……地上へ出ない約束でしょう!」
振り向いた彼女の素顔に、俺は言葉を失った。
眼鏡がないその瞳は、いつもの冷徹な鋭さはどこへやら、驚くほど丸くて、少しだけ寂しそうに揺れていた。
「……なんだ。眼鏡を外すと、案外普通に可愛いじゃないか」
「なっ、何を……不敬ですよ! 私はギルドの受付、貴方は隔離対象の変態……いえ、騎士です!」
アイリスは慌てて眼鏡をかけ直そうとしたが、手が滑って眼鏡が噴水の中へポチャリと沈んだ。
「あ……」
「待て、俺が取るよ」
俺は右の指先を水面に向けた。
オリハルコンの指先は、水圧など関係なく底まで届き、沈んだ眼鏡のフレームをピンポイントで「摘み上げた」。
「ほら。汚れ一つ付いてない」
「……ありがとうございます。……貴方のその指、本当に便利ですね。人を傷つけるためではなく、何かを探したり、守ったりするためにあるようで」
アイリスは眼鏡を拭きながら、小さく溜息をついた。
彼女は、少しだけ自分の話を始めた。
彼女はかつて王都の騎士団で将来を嘱望された参謀だったこと。だが、あまりに不正を許さない潔癖な性格が災いし、上層部の不祥事を暴こうとして、この辺境のギルドへ左遷されたこと。
「私は、正しいことが報われないこの世界が、大嫌いだったんです。……だから、神様から『鼻ほじり』なんてふざけたスキルを授けられた貴方を見て、最初は嘲笑っていました」
「……まあ、そりゃそうだよな。俺だって笑ってるよ」
「でも、貴方は文句を言いながらも、その指で街を救い、下水道を掃除し、妹さんの夢を守った。……不名誉な力を使いながら、名誉ある騎士よりもずっと騎士らしいことをしている」
アイリスは眼鏡をかけ直し、いつもの「氷の受付嬢」の顔に戻った。
「だからこそ、私は貴方を隔離したんです。……貴方のその力は、あまりに強力で、そしてあまりに『誤解されやすい』。今の貴方が表舞台に出れば、権力者たちにその『強制力』を政治利用され、骨までしゃぶられるでしょう」
「……俺を守るために、地下に閉じ込めたってことか?」
「……さあ、どうでしょうね? 単に私が、あの半裸の魔導師と柴犬もどきを監視するのが楽しいだけかもしれません」
アイリスはフイッと顔を背けたが、その耳たぶが少しだけ赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
「ヴォルガッシュ様。次の依頼は……少し、重いですよ。下水道の奥で、街の子供が行方不明になりました。……貴方の『指』でしか、彼を救い出せません」
「……ああ。任せろ。俺の指は、今や鼻の穴だけじゃなく、希望を掴むためにもあるんだ」
俺は地下倉庫への階段を戻りながら、少しだけ足取りが軽くなっている自分に気づいた。




