♭Eps.16
その晩は、真一が帰ってくるまで翔がそばにいてくれた。翔と真一のおかげで、どうしようもなく腐った俺の魂も、少しは落ち着きを取り戻した。悪夢は見るけれど、幾分安らかな眠りにつくことができた。
とはいえ、過ちが消えてなくなることではない。罪悪と後悔の念に、さらに自分を傷めつけたい衝動に駆られる。
負の連鎖が、俺を締めつける。
翌朝、真一に見送られて家を出ると、マンションの一階エントランスで翔が待っていた。
「翔…」
「よ、」
こちらの気配に気づいた彼は、携帯から顔を上げ、俺に手を振った。
「随分と早く出るんだな」
「…何でいるの」
「何でもクソもねぇだろ。昨日あんなことあったばかりで、おまえ一人にしておけない」
言い返す言葉もなかった。気に入らないというように睨んでくる彼に、俺は直視できずにうつむく。
「…ごめん」
「謝るなら、もうあんなことはやめろよ。自分が苦しむだけだぞ」
行くぞ、と俺の袖を引っ張って歩き出す翔。エントランスを出て、初夏の日差しが降り注ぐなか、俺たちは半ば手を繋ぐようにして歩いていた。
怒っているのだろうか。人通りの多い大通りを、翔は引けも取らずに堂々と進んでいく。袖口を握るこの手は、俺が逃げないようにするためなのだろうか。
そんなことをしなくても逃げるはずがないのに。何を考えているのか、全く分からない。
「翔、手…」
無口な背中に問いかけてみるが、返答はない。レトロな駅が近くに見えている。
「…おいっ」
「俺とこうして歩くのは嫌か?」
「は?」
相変わらず俺に背を向ける翔だが、一瞬足を止め、悩ましげに問いかけてきた。
「何言って…」
「ごめん、変なこと言った。今のは忘れて」
手首にあった手は離され、翔は無言のまま歩き始めた。
やはり怒っているのだろうか。それから彼は一度も振り返らずに、先に駅に行ってしまった。
今日の翔は様子がおかしい。機嫌が悪いくせに、俺を迎えに来たり手を繋いだり。
「…置いてくなら、一人にしておけないなんて言うなよ…」
しかし、悪いのは自分だ。どうやら愛想をつかれてしまったらしい。
翔ともしばらくは会わないだろうと思っていたけれど、夕方家の最寄り駅に彼が待っていた時は、心底驚いた。雑踏の中互いの姿を見つけると、翔は、まるで犯人を捕えるみたいに俺に近づいてきた。
「何でそんなにびっくりしてんだよ。言ったろ、一人にはしておけないって」
「だって…」
「ああ、朝のはごめん。自分に苛立ってて」
そういう彼の顔は、依然として曇ったままだ。それでいて、悲しいような、切ないような色が浮かんでいる。
自宅に帰るまでの間も、無言だった。険悪なムードに、しゃべる気も起きないのだ。だけれど翔は、ボディーガードよろしく俺の横にぴったりくっついている。一緒に歩いてはいるけれど、会話が全くないので、はたから見たらまるで他人ように見えるかもしれない。
この状態が何日も続いた。行きも帰りも翔が迎えに来ていて、お互いほぼ無口のまま歩く。翔としては、高校を卒業するまでずっと続けるつもりらしい。
四六時中翔に護られていたわけだが、それでも過去がなくなったわけではなくて、たまにフラッシュバックが襲う。
「ちょっと、そこのお兄ちゃん」
下校中、誰かに声をかけられる。おそらく俺のことだろうと振り返る前に、そいつは正面に立ちはだかった。スーツ姿で中肉中背。顔は大阪の食い倒れ人形のようで、眼鏡をかけ、頬骨まである髭が青々としている。およそ中年だろうか。
何の用か分からず首をかしげていると、中年男はニンマリと目尻が垂れた。
「君、岩下潤じゃない? ていうか、絶対そうだよね」
その名前に、体が一瞬で凍りついた。
「…いえ、人違いです」
「いや、そんなわけないよね? 昔と変わらず、美しい…」
そいつは俺の顎を掴み、上に持ち上げた。好奇心と強欲に満ちた顔に、舐められるように覗かれる。嘔吐に似た感覚が込み上げてくる。
確かに、こいつは覚えているかもしれない。
「…やめてください」
「やめないよ。やっとつかまえたんだ…逃がすわけ…」
そうだ、こいつはあの時――。
「やめろ!」
横から助けに入ってきたのは、翔だった。彼は俺から男の手を荒っぽく引き剥がし、俺を自分の方へと抱き寄せた。
「…やめろ。嫌がってるだろ。それよりお前、何なんだ!?」
翔は威嚇するように強く唸った。中年男は貼り付けたような笑顔を一瞬崩し、中途半端に手を引っ込めた後、再度面白がるように笑った。
「おや、君は潤君の新しい彼かい? 君はもう、この子を経験したのかい? ……いいだろう、彼のナカは。気持ちよくて病み付きになるだ…」
「ふざけるな…ッ!」
長身の翔は、噛みつくように男の胸ぐらを掴み、上に引き上げた。彼より背の低い中年男は、苦しそうに四肢をばたつかせた。
「…その汚い口でこいつのホラを吹くんじゃねぇっ…」
「う、嘘じゃない…っ、本当にその子は、夜な夜な男のをしゃぶっては股を開い…」
「うるせぇっ!」
彼は怒声をあげながら男をアスファルトに叩きつけた。通りすがる人々は、何事かと振り返る。
肩で息をする翔は、俺をちらりと確認し、もう一度男に止めを指した。
「…こいつが過去になんであろうと、関係ねぇ。もう二度と近づくな」
彼はそう言い放った後、呆然と立ち尽くしていた俺に近寄り、憤然と俺の手を取った。そして早足で立ち去る。あまりにも速いので、ついていくのが大変だった。
「…馬鹿っ!」
行き着いた先は、翔のアパートだった。彼の部屋に急いで連れこまれ、玄関先で骨が折れそうなほど強く抱き締められる。
「痛い、翔っ」
「馬鹿、あんなのの餌食になってんじゃねぇよ!」
ここ数日の憤りが爆発したらしく、翔は怒鳴った。そして玄関のドアに俺を押し付け、睨み下ろした。
眉を寄せ、眉間に深く刻まれた皺。翳のある瞳の奥には炎が燃えていた。
「しかも岩下潤って何だよ!? 源氏名かよ! 一体今まで何人の男を相手にしてきたんだ!」
「…」
「答えられないのか!? ああ! そうかい! 数えられないほどいらっしゃるんですねぇ!?」
「…何そんなに怒って…」
「怒るだろ! …俺はおまえが好きなんだからっ!!」
言ったところで、翔はハッと慌てて口を塞いだ。しかし、塞いだところで言葉が戻ってくるわけではない。
慌てふためく友人を見て、複雑な気持ちになる。
「俺が、好き…?」
彼の言葉を復唱すると、翔の顔は真っ赤になった。普段飄々としていて涼しい顔をしていることが多いだけに、こんなに激昂している彼はすごく珍しい。
「……ああ、好きだよ…、」
彼の男っぽい声が震えていた。上気した顔で真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「…中学で初めて会った時から好きだよ…」
熱を孕んだ視線を向けてくる翔に、苦笑いがこみ上げる。
俺に関わったヤツはどいつもこいつもこうだ。唯一「親友」だと思っていた翔も、他のヤツらと変わらなかったのか。
腹筋が震え、肺が引き攣るほど笑った。
「馬鹿はおまえだ。やめとけよ俺なんて」
「どうしてだよ」
「それじゃあ、どうして男娼と分かってて付き合うんだ? 病原菌だぞ?」
「……そういう問題じゃねぇんだよ」
低く唸った翔は、俺をドアに圧迫し、唇を荒々しく重ねた。息もさせぬほどの激しいキスに、胸が痛くなってしまう。
「ん…んぅ…」
「耀、…んっ耀……、」
キスとキスの合間に、息継ぎの合間に、好きだ、と言葉を漏らす翔。想いが突然堰を切ったかのように、洪水のごとく溢れてこちらに流れ込む。
何とか堤防を作って、その想いの渦を堰き止めようとする。自分の中に入って来ないようにする。俺は渾身の力を振り絞って、翔の顔を引き剥がした。
「…や…めろ…よっ」
「耀…っ、」
「俺とおまえはそういう関係になれない……分かるだろ、俺は男娼なんだ、翔を俺の躰に巻き込みたくないんだ…」
誰も傷ついてはならない。
ましてや、大切な唯一の友人には、俺なんかで穢れて欲しくない。
お願いだから、俺をそういう風に見ないでほしい。出来るだけ翔と目を合わせないよう、視線を下げた。
「…おまえのそーいうとこ、ムカつく」
しばらく間をおいて、翔は俺から身体を離し、そっぽを向いた。靴を脱ぎながら、翔は続けて吐き捨てるように言った。
「男娼だから? ふざけんな。だから何だって言うんだよ。男娼だから汚いって誰が決めたんだよ。大切なのはむしろその中身だろ。何なんだよおまえ、何様のつもりだよ」
「…翔…」
「自分を卑下しすぎだろ。だから抱え込んで溜め込んで、最後にはどうしようもなくなるんだろ。やめろよ、そういうの」
翔は目線を下げたまま俺の二の腕を鷲掴み、俺を家の中へ引きこんだ。ワンルームの狭い部屋の、ちゃちなベッドに俺を放り投げれば、翔が仁王立ちをして見下ろしてきた。
「男娼だから、とか、自分が低俗な生き物だから、とか、そんなこと思ってんじゃねぇよ。何でそんなことをしてたのかは知らないけど、それを理由にして逃げんじゃねぇよ。俺はそれを含めたって耀が好きなの。俺はおまえが汚いなんても低俗だとも思ってない。本当に好きなんだよ」
俺の言ってることが分かるか? と優しく聞き返してくる翔。俺は熱くて真っ直ぐな告白に耐えられなくて、目頭が熱が集まった。
「…やめろよ…本当に…っ、」
「やめない。耀がラクになるまで」
「何がラクになるって言うんだよ!? 過去は消えないし、相変わらず夜は誰かと「寝て」ないと寝られないし、こんな最悪に堕ちた躰、どうやって清めるって言うんだよ!?」
「…耀…」
「こんな俺に付き合わせたくないって言ってるんだよ……、これ以上、近づくな……」
これまで必死に築いてきた城壁が、防壁が、殻が。翔の熱い言葉と想いがそれをこじ開けて、壊そうとする。
やめてほしい。
「…やめない」
「…は…?」
「やめないって言ってんの。俺はそれに…耀の全部に付き合いたい」
「は…言ってる意味分かってんのかよ?」
「分かってるよ。全部付き合うって言ってんの。おまえがつらくなった時でも」
言いながら、翔はベッドに乗ってきた。スプリングが重さで軋む。俺を射捕らえるように、目が光る。
俺の上に跨り、翔の真っ直ぐな指が、俺の頬に触れた。
「…耀が欲しい…」
「…馬鹿っ…!」
「何とでも言えよ」
自嘲的に嗤った翔は、俺の服に手をかけ、引き込むように俺の唇を奪った。




