♪Eps.11.6(Another Stories of Suite)
「ちょっとホームシックになった」
それは数日前のこと。そう言って笑った友人は、俺の家に遊びに来ては、ピアノの隣で何かに憑かれたかのように楽器の練習をしている。
その夕方、ここ最近の彼にしては珍しく、「会いたい」と電話をかけてきた。まるで恋人同士のようなやり取りだけれど、それだけ信用してくれているということなのだ。素直に嬉しかった。
壁にかけた白いシンプルな時計を見ると、深夜の11時10分を過ぎていた。彼はここに来てから6時間は、飲まず食わずトイレも行かずにヴァイオリンを弾き続けている。集中力が並大抵のものじゃない。さすが幼い頃から鍛えられていただけある。
「耀、もう音出し出来る時間は過ぎたぜ」
声をかけるのも躊躇ったが、このアパートは11時までしか音を出せない。防音の設計にはなっているが、完全に音をシャットアウトするわけではないので、夜中に練習することはできないのだ。
「あ、ああ」
6時間目にして初めて楽譜から目を離したのか、彼は慌てて時計を振り返った。
そしてタイムスリップでもしたかのように、素っ頓狂な声を上げる。
「えー…もう11時」
「そうだよ。よくずっと続くな」
「…ん」
俺はコーヒーを淹れながら、耀が片付けする後ろ姿を眺めていた。弦を拭く音が、耳につく。
「さっき飯でも食うかって聞いたんだけど、全然聞こえてなかっただろ」
「…え、まじ」
「大マジ。あまりにも集中してるんで、深入りはせずに一人で食べさせてもらったけどな」
「何だよ言えよ」
「言ったろ」
あ、そっか、ととぼける友人は、穏やかに微笑んでいた。しかし、どこか寂しげだ。
いつもこの表情にやられてしまうんだ。守ってあげたくなる。すべてを俺に、預けてほしくなる。
そんな日は、来るのだろうか。
耀には謎が多い。
彼は若い父親と二人暮らしをしているけれど、彼らは血縁関係ではない。いわゆる養子縁組をして成立した家族らしい。
それなら本当の家族はどこにいるのだろうか。耀はどこから来たのだろう。
ニ年間一緒にいたけれど、双子の弟がいると知ったのもついこの間。
耀には謎が多すぎる。
あまり自分のことを言いたくないようなので、俺も進んで聞くこともない。
親友という立場をやらせてもらっているけれど、それならもっと耀のことを知りたいと思う。
♪♪♪
…ん…うっ……。
深夜、明かり一つない部屋に、苦しそうな息づかいが響く。
ベッドの下で雑魚寝していた俺は、すぐさま飛び起きた。
「…やめて……けて…っ…」
ベッドの上に眠る彼は、蚊のようにか細い声で、魘されていた。俺はすぐに電気をつけ、眉間にシワを寄せ額に汗を浮かべている彼を、荒っぽく揺すり起こした。
「…耀、大丈夫か!?」
彼は昔から夢見が悪い。今までも何度もこうやって起こしてきた。
酷い時には起きて吐いてしまうこともある。
「耀、耀!」
身体を小さく丸めている友人は、パチっと目を開け、こちらを向いた。走ったわけでもないのに、張りつめた表情のまま、肩で息をしている。
「…大丈夫か!? 凄く魘されてたぞ」
「翔…っ」
俺の顔を見て安堵したのか、まぶたに涙が溜まっていく。しかしそれもつかの間のことで、急に頬が固くなったと思えば、ベッドから飛び起きた。そして足をもつれさせながら、トイレへ直行。
ああ、また吐いちゃったか。
今日は格段ひどい夢を見ていたらしい。
何が彼を苦しめるんだろう。少し前まで夜のイケナイ仕事をしていたとも聞いた。
それって…児童売春? てことは性犯罪? 児童福祉法とか児童ポルノとかよく知らないけれど、おそらく法に触れそうなことだ。
なぜそんなことに手を染めたんだろう。耀の育った環境は、そんなにも劣悪だったのだろうか。
「…大丈夫か?」
いつものように様子を見計らい、彼の元へ歩み寄った。
獣は、洗面台の上でぐったりしている。
「…ごめん……」
「気にするな。夢見が悪いのは相変わらずなんだな。これは泊めて正解だったかも」
少しでも気が紛れればと、耀の骨張った背中をさすった。手を触れた身体が熱い。
しばらくして落ち着いてきたら、彼を担ぐようにして、部屋に戻った。
ベッドに座らせ、俺もその隣に腰掛け、彼の頭を肩に載せさせた。髪を撫でてやれば、汗ばんでじっとりしていた。
「…落ち着いてきたか?」
「…ん…ちょっと」
「どんな夢見てた?」
「……分からない。自分でも不可解極まりない夢だった」
「…そうなんだ。いつになったら悪夢を見なくて済むんだろうな」
彼の過去はどんなものだったのだろう。知りたい。
「…分からない……」
耀が完全に寄りかかってきた。疲れ切った身体を、投げ出すように。
そして目を瞑った。長い睫毛が震えていた。
俺はそれを至近距離で眺めていた。目鼻立ちがくっきりした美しい獣は、確かに、人を誘惑できそうなくらい、可愛い顔をしている。
でもこんなに肩を震わせて、身を売ったりする姿は想像もできない。
むしろ、想像したくない。こんなに可愛い人なのだから。
手の掛かる獣。でもそのいじらしい性格と、見目の美しさに、関わったものは皆、逃れられなくなる。
自分もそうだ。初めて顔を合わせた時から、常に頭のどこかで、彼の姿がちらついてしまう。その稀有な存在に、関われただけでも幸せだと思ってしまう。
これも最近気づいたことだけれど、自分も周りの奴らと同じように、耀に惚れてしまっているのだと思う。それは恋愛対象と言う訳でもなくて、庇護欲なんかに近いけれど、いつも彼のことが気になってしまうんだ。気づけば彼のことばかり考えてしまう。
でもこれはおそらく彼には言わないだろう。ずっと親友という立場を貫いてきたのに、いまさら恥ずかしいだろ?
その代わり、親友という立場を存分に使って、出来る限りのことはしてあげたい。そして、彼を狙い、困惑させる全てから守ってあげたい。
彼をもっと知りたい。守りたい。
どうしたら、彼を安心させることができるのだろう?
自分には、何が出来るのだろう。
これから数週間して、俺たちの関係が大きく変わってしまうことを、この時誰か知っていただろうか。




