(9)対決
足音が、湿った地に落ちる。
錬金術師は無言のまま地を歩いていた。不機嫌な顔を隠そうともせず、しだいにヴェラへと歩を詰めていく。その足取りは、まるで道端の小石を蹴散らすように、何のためらいもなかった。
サイがとっさにヴェラを背後に庇い、その前に立ちはだかろうとした瞬間だった。足元の土に黒い紋が浮かび上がり、鎖のように絡みつく。
「くっ……!」
それは角を絡め取ると同時に全身を締め上げ、力を奪っていった。
「今は、お前に興味はない、小僧。大人しく見物でもしていろ」
錬金術師の声は冷ややかだった。必死に抗おうとするほど鎖は軋み、力を吸い取っていく。サイは歯を食いしばり、ただヴェラを見つめるしかなかった。
そして――
「……っ」
無言のまま、男の足がヴェラの腹を蹴り上げた。
「ぐ……っ!」
苦悶の声と共に、ヴェラの身体が地を転がる。両腕に抱えていた白い鱗が、地面に落ちそうになる――が、咄嗟にそれだけは離すまいと、彼女は両手で抱きしめたまま、土の上に倒れた。
「おっと、鱗は大事に持っていろよ。落とすんじゃあない」
男は冷笑を浮かべて、平然と言った。
「まったく……『ゴーレム姫』ごときが、無駄に知恵をつけおって。私の待ち伏せを、よくも無意味にしてくれたな」
にじむような苦々しさが、男の声に滲んでいた。
「……ああ、そうだったな。お前はもともと、私が知識を与えたホムンクルスだったな。何度も素材に戻したせいで、すっかり忘れていたが――記憶は、残してあったか。ふふ」
男の口元に、わざとらしい作り笑いが浮かぶ。ヴェラはその姿を、ただ呆然と見つめていた。怒りも、恐怖も、今の彼女にはなかった。
彼女の口から出たのは、わずかな声――
「……どうして、こんなことに……」
その言葉を繰り返すたび、彼女の視線は地面に沈み、心のひび割れが広がっていった。
「どうして、か」
男は低く笑い、ゆっくりと彼女の前にしゃがんだ。
「ならば、教えてやろう――私の、美しき理論を」
「見ただろう――エリンが、『災厄の力』をすべて吸い込んだあの瞬間を。あれはな、あの娘の持つ“霊力”が、災厄を引き寄せたのだ」
語るうちに、男の表情には理知と傲慢が混じり合っていく。
「……お前でも理解しやすいように、便宜上こう呼ぶとしよう。“霊力”を『鱗の力』、そして“災厄の力”を『角の力』と、な」
「前回の観測結果では、この『鱗の力』と『角の力』が本質的に同じものであると証明された。つまり、どちらも“霊力”ということだ。ただし、性質が異なる。――『鱗の力』は正の霊力、『角の力』は負の霊力、というわけだな。こう言えば、多少は区別しやすくなるか?」
男の声は、語りかけというより講義のようだった。いや、説教に近い。
「霊力とは、竜神の鱗が宿す“完全なる力”だ。竜神とは、霊力そのものといってよい存在。だが、その力を“人間”のような不完全な器に宿せば、どうなるか――制御しきれず、やがて暴走する。その暴走の果てにあるのが、『災厄』という現象だ」
「しかし、鱗と融合した存在、エリンは違う。まだ完全とはいえないが、それでも出来たての災厄とは比較にならぬ。あれの中に宿る『鱗の力』――正の霊力が、未熟な『角の力』を取り込んだ。そう、あれは、霊力の本質として、当然の帰結だったのだよ」
男は鼻で笑った。
「ククク、私の理論が、ついに証明されたわけだ。素晴らしい実験結果だと思わんか?」
ヴェラは地面に手をついたまま、その言葉を聞いていた。理解できたのかどうかさえ分からない。ただ、拳が土を握りしめるように震えていた。悔しさなのか。恐怖なのか。彼女自身にも、それが分からなかった。
「もう一点、疑問が残る。そう思っているだろう、『ゴーレム姫』」
男はくるりと踵を返し、夜明けの空を仰いだ。
「……『天より降る剣』。その出現のタイミングについて、だ」
「昆虫にたとえれば分かりやすい。災厄の子は“幼虫”。そして災厄は“蛹”だ。角から全身に力を巡らせ、霊力を纏う準備に、だいたい三ヶ月。その間に『角の力』が蓄積され、蛹の状態に至る」
「だが蛹はまだ“未完成”。霊力を纏う器として、未熟なのだ。霊力というのは、本来“重さ”を伴わない――だから災厄の身体は脆く、不安定なものになる。それを支える“質量”、あるいは“魂の下地”のようなものを、外部から取り込む必要がある」
「それが、一ヶ月の猶予だ。人の命、感情、記憶、恐怖……そういった“負のエネルギー”を災厄は本能的に集め、自らを完成体へと育て上げていく。言うなれば、“世界の痛み”を喰って成長する――それが災厄という存在なのだ」
サイは身動きの取れぬまま、その話を聞いているしかなかった。喉の奥から漏れるうめきは、怒りの叫びに他ならなかった。
男は続ける。
「……一ヶ月の猶予。それこそが、災厄という存在が“完成”へ至る最終工程だ。だが――この“猶予”には、妙なばらつきがあると、私はかねてより感じていた」
「お前も塔の文書庫で見たはずだ。歴代の災厄が滅んだ日付――それぞれ発生からどれだけの日数で“剣”が降ったか、詳細な記録が残っている。阿鼻叫喚の最中にあって、なお筆を止めなかった古の記録官たちの執念には、頭が下がるな」
「だが、ただの記録でしかなかった。誰も気づこうとしなかった。なぜだ?“災厄は一ヶ月で滅ぶ”という通説を、鵜呑みにしたからだ」
錬金術師はわずかに口角を上げた。
「私は違う。記録を重ねていくうちに、ひとつの異常に気づいた。“剣の降る日”には、微妙な差異がある。全てが一ヶ月ぴったりではない。中には、誤差が一週間という例外さえもある」
「この“個体差”こそが、私の理論の鍵となった。“剣が現れるのは、時間ではない。災厄が完成した瞬間だ”――そう、私はそう考えた」
「この法則が成り立つのならば――つまり、“成虫”が現れたときに、必ずそれを排除しようとする存在がいるということになる」
男は、ちらりと空を見やる。
「剣は自然現象ではない。“何か”が、それを振るっている。災厄を完全体にまで至らせはせぬように、と。ふん……おぞましいまでの秩序だ。だが、私はその秩序を読み切った。法則として解析し、操る段階に来たのだ」
「そして見たはずだ。エリンは霊力の完成度が高すぎた。だから即座に“成虫”となり、剣に貫かれたのだ。文字通り、一瞬でな」
「――私の理論は、完璧だったのだよ!」
男は高らかに笑った。
ヴェラは地面に崩れたまま、嗚咽を漏らしていた。涙はもう出なかった。ただ、胸の奥で何かが軋むように鳴っていた。
「見事だったろう? 私は人類史上初めて、災厄に勝ったのだ。人類を救ったのだ!」
自慢げに宣言する錬金術師に、ヴェラは目を見開いた。
――この男が、人類を救ったですって?
確かに、今回の災厄では、誰ひとり被害を受けていない。それだけは、認めざるを得なかった。
「唯一の懸念は、あの絶対的な『剣』だった」
男は己の偉業に酔いしれるように、熱を帯びた声で語り続ける。
「あれが災厄ごと“竜神の鱗”まで消し去ってしまえば、すべてが水泡に帰す。だからこそ、私は鱗を確実に残すための条件を見極めるべく、実証実験を繰り返す必要があったのだ」
「……まさか、エリンがあれほど早く剣に貫かれるとは、私にとっても思いがけないイレギュラーだったがね」
男の視線が、狂気じみた歓喜とともに残された鱗へと向けられる。
「だが、結果を見ろ! あれの肉体は滅びても、“竜神の鱗”はこうして無傷で残った! 私の計画はついに完成したのだよ!」
「さあ、塔に戻ろうではないか、ヴェラよ」
男は手を差し伸べるように言った。
「その鱗を持って、私と帰るのだ。そうすれば……また、エリンに会えるではないか」
「……っ……」
声を出すこともかなわず、サイは黙って聞いているしかなかった。彼はヴェラを見た。泣き崩れたまま、何の反応も示さない彼女の姿を。――動けない。角を絡め取った鎖が全身を締め上げ、踏み出すことを許してくれない。それどころか、口も喉も動かせない
――はずだった。
「……何が、人類を救った、だよ」
かすれた声が、絞り出される。
鎖に軋まれながらも、空気を震わせたその言葉に、錬金術師の目が鋭くなった。
「こんな中途半端な救済で、救世主にでもなったつもりかよ……お前は」
男の目が鋭くなった。
「小僧、何を――」
「本当に人類を根っこから救いたいなら、その角を与えてくる存在をどうにかしてみせろよ!」
鎖に押し潰されながらも、声だけは奪わせなかった。その叫びが、海風に乗って響き渡った。
「お前、エリンみたいな子を、何度も犠牲にする気なんだろう? 災厄が生まれ続ける限り――」
「ヴェラが、永遠に悲しむだろ…! そんなやり方、俺は絶対に許さない!」
ヴェラが顔を上げた。
視界の隙間から、サイの背後――『天より降る剣』が、まだ地面に突き刺さったまま、静かに揺れていた。
錬金術師の眉がわずかに動いた。
「……ふん。そうだな、小僧。私にもまだ、ひとつだけ気がかりがある」
「この短期間で、次の災厄の子が現れるなど、前例がない……」
視線が、鋭くサイを刺す。
「お前は――いったい、何者だ?」
ヴェラは、サイの背に視線を落としたまま、強く拳を握っていた。
(彼は――わたくしのために戦おうとしてくれるのね。いえ、わたくしたちのために……)
その事実が、胸に痛いほど染みこんでくる。彼の怒り、叫び、立ち向かおうとする意志。そのすべてが、失意に沈んでいた彼女の心を、確かに動かしていた。
(……わたくしに、命を懸ける価値なんて、ないのに……)
つぶやくように思い、俯いた。だがすぐに、彼の背に込められた決意が胸を打つ。
(でも――わたくしは……)
涙を堪えながら、ヴェラは足に力を込めた。
(サイの気持ちに、応えたい!)
そして、立ち上がった。
その瞬間だった。
空気がふっと揺れ、ひとつの淡い光がひらひらと舞い降りてきた。それはまるで、エリンの残した残滓のように、サイの周りを回り――やがて、彼の角の先にそっととまった。
角が、ほのかに淡い輝きを放ち始める。
「そ、それは……正の霊力!?」
錬金術師が身じろぎし、声を荒げる。
サイの全身を縛っていた力が、ひとつ、またひとつとほどけていく。やがて乾いた音を立てて砕け散り、霧のように消え失せた。
――解き放たれた。
その直後、耳ではなく胸の奥……魂の根幹に触れるような、低く深い声が響き渡る。サイは大きく息を呑み、圧し掛かる残滓の重圧に耐えるように目を閉じた。その沈黙の間、彼の脳裏には自分のものではない、古の獣の怒りと慈しみが奔流となって流れ込んでいた。
ゆっくりと瞼を上げると、サイの瞳には先ほどまでとは違う、底知れぬ光が宿っていた。彼はまるで、己の喉を何者かに貸し与えているかのような、どこか虚ろで、それでいて峻烈な口調で言葉を紡ぐ。
「……あんたに、伝えなきゃいけないことがある。黙って聞いてろ。……拒絶は許されないそうだ」
錬金術師の眉がぴくりと跳ねる。その場に満ちる、理屈を超えた威圧感に、彼は一歩後退る。
「『……我が“愛しきもの”。その美しき鱗を、よくも弄んだな』」
「……なに……?」
サイの唇が、冷酷な笑みの形に歪んだ。いや、それは彼ではなく、彼の奥底に潜む「何か」が浮かべた嘲笑だった。
「伝言だよ――“竜界”から、あんたに」
ピシッ、と空気が張り詰める。
「お前っ……!」
「竜神は、あんたに大変お怒りみたいだけど……?」
「黙れっ!!」
激昂した錬金術師が指先を弾く。先ほどと同じ黒い鎖が土から這い出し、サイへと肉薄した。しかし、鎖が彼を包む淡い光に触れた瞬間――ジッ、と焼け焦げるような音を立てて、鎖そのものが呆気なく霧散していく。
「私の術が、弾かれた……!?」
絶対の自信を持っていた拘束を一瞬で無効化され、錬金術師は顔を歪めて後退る。
(バカな……! “正の霊力”を行使するだけでなく、あろうことか竜神の代行者になったとでもいうのか……!?)
そんなはずはない。だが、それを否定できる確証も、今の彼にはなかった。
「そ、そうだ……“正の霊力”……!」
一転して顔を歪めた錬金術師は、次の瞬間、猛然とヴェラに詰め寄った。
「ヴェラ、その鱗をよこせ!」
「っ……渡すものですかっ!!」
ヴェラの叫びと同時に、大地が唸る。地面から突き出した巨大な土の棘が、錬金術師の顎を撃ち抜いた。突き刺さるには至らなかったが、鋭い衝撃に錬金術師の身体が宙を舞う。
バランスを失い、彼はそのまま背中から地面に叩きつけられた。
ドサッ――。
「……あなたには、もう、指一本触れさせないわ!」
涙でくしゃくしゃになった顔。それでも、ヴェラの声は強く、揺らぎなかった。
彼女が錬金術師を見下ろすその姿に、サイは思った。
――美しい、と。
彼女が今、ただの所有物ではなく、“彼女自身”として立っていることが、何よりも眩しかった。
「ぐっ……」
錬金術師がわずかに呻いた。胸の奥に、かすかな不安の波だったものが急激に広がる。
何かがおかしい。何かが、決定的に。
その違和感の正体に気づいたのは、遅れて訪れた沈黙の中だった。
――災厄が滅んだというのに、『天より降る剣』がまだ、役目があると言わんばかりに地面に突き刺さったままなのだ。
サイが静かに近づいていく。その剣の柄に触れるように手を伸ばすと、不意に周囲が柔らかく光を帯びた。“正の霊力”同士が共鳴し合うかのように、剣とサイの角から、わずかな光が滲み出す。
錬金術師の顔が引きつった。
『天より降る剣』が竜神の鱗と同じ性質――“正の霊力”を持っていることを、彼は知っていた。
(まさか……)
全身を覆う嫌な予感。しかし、それでも彼は引けなかった。鱗をようやく回収できそうなのだ。しかも、鱗との融合体――その制御に成功すれば、真に“災厄の力”を手にすることができる。
ここで諦めるわけにはいかない。欲望が臨界に達しようとしていた――その時。
時が止まったかのように、サイのまなざしが剣に吸い込まれていく。
そして、指先がそっと触れた瞬間。
(ああ、これは……エリンみたいだ)
ただの感傷だった。剣が持つ清らかな霊力が、彼にそう思わせただけかもしれない。
それでも、彼は心の中で誰かに呼びかけた。
(なあ……一緒に、戦ってくれるか)
それは、もういない少女に向けた、静かな祈りのようだった。
剣を手にしたまま、サイは振り返る。
「ヴェラ、こっちに」
その声に、ヴェラがはっと顔を上げた。ふらりと、地を踏みしめて彼のもとへ駆け寄る。
「サイ……わたくし、もう、何もかもどうでもいいって思ってた」
「……うん」
「でも、悲しませるのは許さないって、そう言ってくれた」
「うん」
ヴェラの目が、剣に、サイに、そして遠くの錬金術師に向けられる。
「今……わたくし、あの男に勝ちたい……!」
サイはわずかに頷いた。
「……ああ。俺もだ」
二人の視線が、錬金術師を射抜く。男はわずかにたじろぎ、片膝を地に落とす。
「覚悟は、できてるか?」
その言葉とともに、風が吹いた。焚き火の灰が宙に舞い、散った光のように二人を包む。
(エリン……エリン。あなたはいなくなってしまったけれど――)
(わたくしたちは今、霊力を手に入れたわ)
(だから……せめて)
(あなたを、これ以上失わずにすむように)
ヴェラは祈るように、胸の奥で少女の名を呼んだ。涙ではない熱が、静かに、心の底から溢れ出していた。
錬金術師が舌打ちをひとつ鳴らす。
「ちっ……」
その視線が一瞬、サイの持つ剣に吸い寄せられた。ほんのわずかな間――だが、その目が確かに光る。
(……何とか、間に合ったか)
自分に言い聞かせるように、彼は小さく息を吐き、ぱちんと指を鳴らした。
「ヴェラ。私はな、早くお前たちに会いたくて、わざわざ急ぎ足でここまで来たのだよ」
「だが――それが、よくなかったな」
口元に、冷えた笑みが貼りつく。
「急いては事を仕損じる、というやつか」
その声が落ちた瞬間だった。
バキバキバキ――。
森の奥から、霧の残る地の割れ目から、そして薄明の空を背に。
重い音を立てて、ゴーレムたちが姿を現す。無機質な巨体。かつて開拓村を襲ったもの、河口の町で道を塞いだもの――ヴェラの記憶に刻まれた“同型”が、次々と闇の中から現れていく。
錬金術師は命令すら口にしなかった。必要がないと知っていたからだ。ゴーレムたちは一斉に、サイへと殺到した。
ズシャッ、と重い手応えと共に、最前列の一体に剣が突き立つ。直後、刃の隙間から溢れ出した白霧が、侵食するようにゴーレムの全身を駆け抜けた。
「――ッ……!」
物理的な破壊音はない。ただ、内側の核が清浄な力に耐えきれず、一瞬で瓦解したのだ。巨体は糸が切れたように動きを止め、ガラガラと崩れ落ちる。それはもはや動く人形ではなく、ただの石塊の山へと成り果てた。
続く数体が、ぴたりと足を止めた。
思考を持たぬはずの存在が、“あの剣”を前に本能的な忌避を示していた。
サイは、ゆっくりと構え直す。剣先を下げ、呼吸を整えながら、わずかに口角を上げた。
「相手は、たかが農家の息子と思ってないか? この手にあるのは、災厄をも滅ぼす剣なんだが」
声は落ち着いていた。だが、その奥には、決して軽くない覚悟があった。
「自分に『災厄』を超える力でもあるってんなら――来てみろよ」




