何もしない院長 パート168 ― 現役開業医が病気になった時3(としを退院の日)
これはフィクションです。この物語に登場する人物・団体はすべて架空です。ただし、思い当たる節があっても、口には出さないのが大人のマナーです。
退院の日は、だいたい静かに始まる
午前の病棟は、どこか落ち着いていた。
慌ただしさはあるのに、空気が少しやわらかい。退院の日は、いつもそうだ。
病室のドアを開けると、斉木としをは、もう着替えを済ませていた。
酸素のチューブをつけたまま、妙にきちんと座っている。
野上が斉木の部屋を3回ノックする
「はーい。どうぞ」妙に明るい声。
「としを先生、いよいよ退院やなぁ」
斉木、少し照れたように笑う。
「いやあ……先生や栗林先生のおかげですわ。ほんま、ようしてもろて」
「大学で“あかん”言われてましたからね」
野上、肩をすくめる。
「せやな。ようがんばらはった」
◆医者同士の遠慮
「いやいや……栗林先生がしっかり見てくれたんで」
「運もあったな」
「いやいや……」
お互い、少しだけ遠慮して、少しだけ本音で、
ちょうどいいところで会話が止まる。
野上、ふと思い出したように言う。
「ところで、リブレつけられたそうでんな」
斉木、ニヤリ。「おや、栗林先生の告げ口です?」
野上、カルテを見る仕草。
「いやいや、毎日見とりゃ分かりまんがな」
「食前血糖、400超えとった日もあったで」
二人、顔を見合わせて笑う。
◆ 入院あるある
「入院中の楽しみがなぁ……」斉木、少し声を落とす。
「妻の差し入れですわ」
野上。
「団子、寿司、かりんとうに羊羹でっか……」
「全部やないか.....ほんまに奥さんか?」
「いやあ、あれがないとやってられんのですわ」
「図星やな。患者さんには言えんな」
「絶対言えませんな」
◆ 酸素の話
野上、少しだけ声を落とす。
「ところでな」
「担当の仲野さんから酸素外してトイレ行っとるって聞いたで」
斉木、ゆっくり目をそらす。
「いやあ……つい........ついね」
「先生、それが一番危ないんですわ」
「低酸素に慣れると、自分の体が分からんようになる。低酸素発作で.......
へたすりゃ...............死ぬで」
斉木、うなずく。「……それは、分かります」
「院長先生、来ていらしてたんですね。いつもありがとうございます。」
奥さんが入ってくる。
手には紙袋。
「長い間、本当にお世話になりました」
野上、軽く手を振る。
「ほんま、お大事にしなはれや」
「元通りになったわけやないんやからな」
◆ 夫婦の距離
「奥さんもな.....大変やろけど」
「としを先生甘やかせんといてや」
奥さん、笑う。
「それが一番難しいんです」
斉木。「野上先生、こいつに余計なこと言わんでくださいWw」
◆ お礼
「先生、これ……」紙袋が差し出される。
野上、覗く。「……おお」
「みなかた清月堂の三色贅沢饅頭やないか」
「おおきに。遠慮なくもろときすわ。せっかくやし」
「でもっ……これ、としを先生の差し金やな」
奥さん、少し困った顔。
斉木、あきらめ顔。
「ばれましたか」
野上。「糖尿の患者さんな............自分の好物持ってきてくれること多いんや」
病室に笑いが広がる。
◆ 藤邑看護師長、乱入
そこへ、包括ケア病棟の藤邑看護師長が顔を出す。
「斉木先生、退院準備できてますよ」
一瞬、部屋を見回す。
「……ああ、なるほど皆さんで、最後の血糖上げイベントですね」
全員、笑う。
藤村。
「訪問、栗林先生が行きますから」
「あと、酸素の使い方、もう一回だけ確認しときますね」
斉木。
「家ではちゃんとやります」
藤邑、即答。
「それ、みんな言うんです」
野上、少しだけ真面目に。
「退院はな...........スタートやで」
斉木、うなずく。
「不安あったらな」
「いつでも連絡してな........」
「息子さんもおるし...........栗林も行くし」
「まあ、大丈夫やろ」
斉木、ぽつり。
「あの.........
野上先生……戻れますかねlぇ?」
一瞬、空気が止まる。としをはどこへ......とは言わなかった。
野上、すぐに答える。
「前と同じにはならん.......でもな................」
「今の体でできる医者には、なれる。以前の先生よりもさらにずっと
”ええ....医者”にな!」
野上にはとしをの思いが分かりすぎるほどわかっていた。
としを、少しだけ笑う。
その日の午後。
斉木としをは、ゆっくりと病院を後にした。
酸素をつけたまま。車いすではなく、ゆっくりと、
でも少しだけ軽くなった足取りで。
野上、廊下でぽつり。
「……医者いうのはな」
富士事務局長。
「何です?」
「自分が患者になって、やっと半人前や」
「斉木先生も、わしが言うのも失礼やけど、これで充分一人前やな」
「退院は終わりじゃない」
開業医斉木としをにとっては
“もう一度医者になる日”だった。




