門前病院の結衣せんせい
納豆と卵をかき混ぜる。
それでご飯をかき込む。
食後に一人で将棋を指す。
そして、
彼女のメモに頭を抱える。
これが私の朝の日課になっていた。
四つ目のキーワードは、
「門前病院の結衣せんせい」。
他のとは違い、
これだけは場所がしっかりしていた。
門前病院は、私の街にある病院だ。
でも、
彼女のかかりつけでも、
私のかかりつけでもない。
それに、
「結衣せんせい」とやらは、
始めて聞く。
「一体誰なんだ?」
と頭を抱えていた。
気付けば、昼になっている。
このままでは、陽が暮れる。
迷っていても仕方がないので、
とりあえず、
門前病院まで車で向かうことにした。
門前病院の駐車場に車をとめ、
玄関に向かう。
無機質の自動ドアを過ぎると、
目の前に受付がある。
しかし、
受付には誰もいない。
ちょうど昼休みだと、
この時に気づく。
どうしたものか、
とキョロキョロするしかなかった。
しばらくその場で右往左往していると、
「どうしました?」
後ろから声がした。
振り替えると、
3~40代くらいの女性が立っていた。
「いえ、
結衣せんせい・・・
という方を探してまして・・・」
私はうろたえながら答えた。
すると、
彼女は急に眼を丸くした。
「あ、結衣は私ですよ!
あ、でも先生ではないです!
え、どうしました?」
偶然にもほどがあると驚いたが、
「結衣せんせい」は話を切り替えた。
私も手短に事情を話すことにした。
メモのこと。
妻のこと。
もちろん、幽霊の話は出さなかったが。
「奥様のお名前は何ておっしゃいます?」
「照子です。」
「結衣せんせい」は先ほどより大きく眼を見開いた。
かと思うと、
一転してとても落ち着いた顔になった。
そして、
小さく、
「あぁ。」
と声をこぼした。
「こっちに来てください」
結衣せんせいはそうと言うと、
病院の奥へと歩き始めた。
私は急いで着いていく。
結衣せんせいは何を思っているか、
考える間もなかった。
結衣せんせいが、
『リハビリテーション室』
と書かれた扉の前まで歩いていく。
結衣せんせいは
歩みを止めないまま、
その扉を開いた。
眩しい光が私の目に飛び込んでくる。
少し目が眩み、目を細める。
時が、止まった。
そう感じたのは、
眩しさのせいではなかった。
私の目に飛び込んだのは、
光だけではなく、
壁に掛けられた1枚の絵だった。
それは、
雨雲の中を一匹の鳥が空を飛んでいる絵だ。
どうやら、ツバメのようだ。
これは・・・
「これは、照子さんからもらった絵なんです。」
結衣せんせいが最初に声をかけてきた時ほど、
驚きはしなかった。
それよりもこの絵から目線が話せなかった。
正確には、このツバメからだ。
なぜだろう。
息をするのを忘れるほど、
私の目は、
そのツバメに釘付けだった。
「照子さんのお友達が、
よく、
ここの健康教室に通われてて・・・。
照子さんも何度か来てくれたんですけど。」
私はツバメへの目線はそのままに、
結衣せんせいの声に耳を傾ける。
「照子さんが
その時に寄付してくれたんです。
私、大ファンなんですよ!
って興奮されて話してくれました。」
彼女の、照子の笑顔が目に浮かぶ。
「ツバメって秋になると、
南の方に帰るんですって。
でも、
春になったら戻ってくるんですよ。
だから、さよならじゃないんだ、
って。」
結衣せんせいの明るい声が、
少しずつ震えてきた。
「その、
照子さんのお友達、
1年くらい前に亡くなられて・・・。
その方も、
素敵な方で、
本当に素敵で・・・」
泣きそうな声で、
必死に伝えてくれた。
こんなに、
思ってくれている人がいるなんて、
彼女の、
照子の友達はなんて幸せな人なんだろうか。
彼女にも、
こんなに思ってくれている人はいるだろうか。
『人は死ぬとこの世からいなくなる。
でも、
思ってくれる人がいるなら、
きっとその人は永遠に生きているのと一緒なのだ。』
彼女が何かから引っ張ってきた言葉だ。
まさしく、
そうなのかもしれない。
ツバメが帰ってくるように、
人の心に春を連れて戻って来れるのなら、
人は永遠に生きられるのではないか。
でも、
なぜだろう。
この場所は、
今までの場所と違って、
居心地が悪いというか、
はやく帰りたかった。
私はそそくさと帰ることにした。
「ありがとうございました。」
「健康教室もしているので、
また来てくださいね。」
「ええ、そうします。」
唐揚げ屋の時とは違い、
なぜか、
そっけなく、
重たい返事になってしまった。
はやく、帰りたい。
なぜだか、どうでも良い気分だった。
ああ、
そうだ。
私の気分を重たくさせたのは、
一つの疑問だ。
『私以外に、
彼女を思ってくれる人はいるのだろうか?』
「どうかなー!わかんない!」
夜になって会った彼女は、
普段よりも大袈裟に笑う。
笑って何でも解決しようとしてしまうので、
本当に卑怯だ。
「そんなことより、
次ので最後だよ!
なにか解りそう?」
彼女があからさまに話題を変える。
しかし、
本当にそうだ。
残り1つだ。
残り1つなのに・・・
「まったく見当がつかない。」
また、彼女はしししと笑う。
「きっと、解るよ。
全部。」
そう言うと彼女は
ゆっくり微笑んだ。
今までとはまるで違う声だ。
そう、
彼女とこの世で別れる間際の、
とても落ち着いた声だった。
出会った頃から別れるまでの彼女の表情が、
ふわふわと心に浮かんできた。
高校生で私と出会ったとき。
裕太が生まれたとき。
この街に帰ってきたとき。
裕太が死んでしまったとき。
一緒にご飯を食べているとき。
一緒に将棋を指しているとき。
一緒に眠るとき。
そして、
永遠の眠りに付いてしまったとき。
思い出の中で、
彼女はずっと笑顔だ。
しししと笑う、
その笑顔にすべての感情が照らされていく。
本当に、
卑怯だ。
「またね。」
彼女はツバメのように、
また夜の中へ翔んでいく。
「あ・・・」
あっという間に彼女の姿は見えなくなった。
ツバメのように、
また春を連れて戻ってきてくれるのだろうか。
いつもは寂しくなんかない。
なぜだろう。
今日は心に冷たい秋風が吹いていた。




