公園
『・・・夢か。
死んだはずの妻を見た彼の感想が、
それだった。
人は予想できない場面に出会うと
思考が追い付かなくなる。
それは彼も同じだった。
「ざんねん。
夢じゃないの。」
彼は口にはしなかったが、
彼女には見透かされていた。
彼女の眼が線のように細まる。
唇の左右はつりあがる。
彼女はそのくしゃくしゃの顔で
「ししし」
と笑った。
彼は戸惑っていた。
彼の思い出の中と同じ、
笑顔と声だったからだ。
戸惑う彼をよそに、
彼女はにこにことしている。
「あなたがずっと悲しんでるから、
会いに来ちゃった。
お盆じゃないのにね。」
そう言うと彼女は、
また、
「ししし」
と笑う。
彼は絞り出すように、
静かに口を開く。
「会いに来ちゃった、
って・・・。
それに、
なんでそんな姿なんだよ。」
彼の反論に蓋をするように、
彼女の明るい声がかえってくる。
「出会った頃みたいで、
懐かしいでしょう?
でも、夜にしか会えないからね!」
彼女が人指し指を口元で立てた。
「なんで?」
「なんででも!
月も綺麗だし、二人きりの夜を楽しみましょう?」
また、彼女はしししと笑う。
卑怯。
それが彼女の笑顔に対する、
彼のいつもの感想だった。
戸惑いで歪んでいた彼の顔が
わずかにゆるむ。
現実を受け入れるあきらめの顔に、
待ちわび続けた恋人に会えた喜びがにじんでいた。
彼女は膵臓の病気だった。
病気一つしてこなかった彼女の異変に、
彼が気付いた時にはもう手遅れだった。
『手の施しようがない。』
医者は彼に静かに告げた。
彼にとって唯一の救いは、
彼女が苦しんだ期間がほとんどなかったことだ。
「どうせなら、太く、短く。
ぴんぴんコロリと死にたいね!」
口癖の様に言っていた彼女の望みは
しっかりと叶えられた。
これ以上の終わりはないほどに。
しかし、ただひとつ
彼にとって問題があった。
彼に妻の死を受け入れる時間がなかったことだ。
妻の病気を受け入れることができないまま、
彼女は死んでしまった。
『いつの間にか死んでいた。』
彼にとってはそんな感覚だった。
子供はおらず、
頼れる身内もいない。
彼にいたっては友人もいないに近い。
『月のない夜』
彼にとって、彼女がいない世界はそう見えた。
彼の心は現実に追い付くことなく、
暗く、決して開けない夜になってしまった。
遺品整理や法事などを彼はひとりでこなした。
「『忙しい』という字は『心』を『亡くす』と書く。」
彼がふいに手に取った、彼女が読んでいた本にそんな言葉を見つける。
他人から見ても
彼は彼女が亡くなってから、
心を亡くしていた。
夜に月が亡くなったように。
彼女が死んで一年が経とうとしていた。
彼女の良く使っていたポーチから
彼はひとつのメモを見つけた。
ポーチは寝室にある彼女がずっと使っていた化粧台に置かれていた。
彼が眠ろうとベッドに腰掛けると、
ふいにポーチが目に入った。
何気なくポーチを手に取ると、
少し開いたファスナーから
ぽとり、とメモが落ちた。
シワがわずかについている。
彼はゆっくりと腰をかがめ、
メモを拾い上げる。
ゆっくりと目を通す。
彼には検討がまったくつかず、
首を横に傾ける。
しかし、
彼は立ったままそのメモを見続ける。
「これは・・・彼女が残したメッセージだ」
彼は自分に言い聞かせるように
呟やいた。
心を亡くしたはずの彼の顔が
少しほころんだ。
彼はメモから目を離さずに、
ベッドにゆっくりと腰掛ける。
そして、メッセージの意味を考える。
どれくらいの時間が立ったか、
彼にはわからなかった。
彼はは気分転換にでもと、外に出ることした。
もうすぐ4月になろうというのに、
外は肌寒い。
丸い月が夜道を明るく照らしていた。
彼は月をずっと見ながら、
外をさ迷い歩いた。
亡くした心を探す様に。
そんなときだ。
偶然立ち寄った公園で、
彼女に出会った。
出会った頃と同じ、
18歳の姿の彼女と
再会したのだ。
「月も綺麗だし、二人きりの夜を楽しみましょう?」
月明かりが彼女を優しく照らしていた。
幽霊としての彼女を受け入れた彼は、
彼女に尋ねた。
「そういえばこんなのを見つけたぞ」
私ははメモを彼女につき出した。
彼女のは嬉しそうに振り返る。
「お!やっと見つけたねぇ!」
彼は彼女にぶつける。
「このメモって何なんだ?」
彼女はしししと笑う。
「自分で見つけなきゃダメだよー」
そう言いながら、
彼女は彼に背中を向ける。
この笑顔だ。
この、
全てを忘れさせてくれる、
卑怯な笑顔に彼は会いたかった。
彼女とすごす間、
彼がずっと見てきた笑顔に。
彼は夜に月が戻ってきた気がした。
心に少しずつ光が指していく気がした。
「じゃあ、大ヒント!」
背中を向け、
上を見上げていた彼女は、
そう言いながら、
彼の方に向きなおした。
「そのメモはね、
私の生きた証たち。
1つ目がこの公園。」
先程までの木漏れ日のような笑顔とは一転、
凜とした、
でも、
優しい、
秋の月のような声と表情だった。
「同じくらい大事な場所が
あと4つあるの。」
彼女の声に後ろ髪を引かれながら、
彼はメモに視線を落とす。
彼女の声の余韻が
心に残る。
「・・・そうだ。」
心が揺れたように
彼は呟いた。
「偶然に立ち寄ったんじゃない。
私は、
いや、
私たちは、ここによく来ていた。」
彼は頭を下げたまま、
静かに語り続ける。
「君と、
そして・・・裕太と。」
彼の眼が大きく開き、
頭が急に持ち上がる。
「それって・・・!」
彼の声が誰もいない公園に響く。
公園がしんと静まり返る。
彼女はいなくなっていた。
強い風が彼にあたる。
まだ蕾にもならない桜の木が、
音を立てて揺れる。
一人取り残された彼の顔は
決して寂しそうではなかった。
それどころか、
先程よりもほころんでいるようだった。
桜の木はまだ、揺れていた。