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後編

人が死ぬ描写があります。

苦手な方はお気をつけください。

暗いです。




 この日は結局、アレクシアはホールに戻らなかった。


 ラファエル・シュヴァリエも、顔を出すことはなかった。




 ひどく肩を落とすヴィクトルに、ステファン夫人は諭すように言った。



「あなたには間違った道に見えるかもしれないけれど、進んでみたら正しい道のこともあるのよ」


 耳に心地よいアルトの声が、深く沈んだ脳に響いた。



「正しいと思っていた道が間違いだったということも、あったでしょう?」



 否定してやりたかったが、経験としてそんなことはたくさんある。



 ヴィクトルは暗い目のままその夜を耐えた。






 アレクシアは週末に来ることが多いわよ、という助言に習い、ヴィクトルはたびたびステファン夫人の邸宅を訪ねた。


 最初は胡乱げだったアレクシアも、何度か顔を合わせるうちに諦めたように同じ席についた。


 ラファエルはそんな二人を興味深そうに眺めたが、特にヴィクトルを牽制する風もなく、二人のやりとりにたまに口を挟んだ。





 ラファエル・シュヴァリエは国でも最上位の貴族の嫡子で、耽美な魅力と不品行な振る舞いが社交界では有名だった。


 以前のヴィクトルなら、取り巻く噂で敬遠していただろう。



 ヴィクトルから見たラファエルは、ただただ虚無の人だった。


 癖の強いブロンドを耳の下まで無作為に伸ばし、薄いヘーゼルの瞳は常に穏やかに細められているが、その瞳に核がないのだ。


 柔らかな空気にぽっかりと見えない穴が開いているような不安定さの中で、アレクシアが視界にいる時だけ瞳に光があった。



 一度、エドガーに聞いたことがあった。


「ラファエル様はあれほどアレクシアを特別に見ているのに、どうして恋人になろうとしないんですか?」


 彼が、多くの恋愛を楽しんでいるようには見えなかったのだ。


 エドガーが言い淀んだのは、その時だけだった。


「そうだな…ラファエルには婚約者がいるんだよ。長く留学しているが、そろそろ帰ってくるんじゃないかな」



 それは、ヴィクトルを強く揺さぶる言葉だった。



 ラファエルは何も考えていなさそうでいて、その実周到だった。


 夜会や式典では特定のパートナーを作らず、アレクシアと親しく過ごすのは夫人の屋敷の中だけに徹底していた。


 婚約者に配慮していたのだ。




「ラファエル様に婚約者がいるのは知っているのかい」


 気まずく問いかけたヴィクトルに、アレクシアは

「ええ」

と小さく答えた。



「決まった相手がいる人と親しくするのは、君のためにも良くない」



 アレクシアはまた捨てられるのだ。

 心を許した相手に。

 次こそ死んでしまうのではないか。



 そう思うとやりきれなくて、立ち入ったことを口にする。



 これにはアレクシアは嘲るように笑った。

 久々に感情の見える表情だった。




「あなたの恋人にもそう言ったの?」



 アレクシアに向ける言葉は、そのまま自分に返ってくる諸刃の剣だった。







 シルヴィアとの仲は、それほど良くなかった。

 週末のたびに出かけるヴィクトルに、詰め寄ることもあった。



 その日はどこからかステファン夫人のサロンに通っていることを聞きつけたのか、いつもより口調が強かった。


「恋人が娼婦の家に入り浸ってるって聞かされた、私の身にもなってよ」

 涙交じりの言葉も、疎ましいだけだった。


「夫人は弱い女性を助ける素晴らしい人だ。君が疑うようなことは何もないよ」

 いいえ、とシルヴィアは顔を歪める。

「それだけじゃないわ。そこにアレクシア様もいるって。私に隠れて昔の婚約者に会いに行ってるなんて、疑われても仕方ないじゃない」



 シルヴィアの弟は治験薬が体に合ったのか、目を見張るほどの回復を見せていた。

 王立病院に入院中で、もう少しで外泊もできそうだと喜んでいた。

 治験が終わっても、治療は続く。


 支援してくれる人間を惜しんでいるのか、と、邪推する。



「アレクシアは僕に未練はない。君だけが、ずっと疑っている」

「嘘、じゃあどうして会いに行くの?説明してよ。アレクシア様がどうなったって、もう関係ないじゃない」

「…シルヴィア」

「あなたの気を引きたくて、いろんな人と噂になって。何てはしたないの」

「やめるんだ」

「あの人は悪女だわ。弱ったところを見せてあなたの罪悪感に付け込もうとしてるのよ」



 シルヴィアがはっとしたように口を閉ざした。

 ヴィクトルの悲憤に気付いたのだろう。



「同じだな」

「え…?」


 ヴィクトルは、もうだいぶ前から自分の間違いに気づいていた。



「同じだから、そう思うんだろう。君も同じように、僕の同情心に付け込んだ」

「なに、それ」

「婚約者のいる男に家族の病気の相談なんて、普通はしないよな。病気の知識のある人なら、君の弟の病院にもたくさんいるだろう。それに気付かない僕も浅はかだった」

「……」


「国中の人間がアレクシアを悪く言ったとしても、君と僕にだけはその資格はないよ。そうだろう?」



 シルヴィアの瞳から涙が流れた。

 心は騒ぐが、これも同じなのだ。

 ただの、同情なのだ。


「最低だわ」

 シルヴィアは声を詰まらせて言った。

「お互いにね」


 両手で顔を覆いさめざめと泣くシルヴィアを見ても、もう抱き寄せようとは思わなかった。




「あなたは、誰かを救うたびに誰かを不幸にするんだわ。そうやって、結局誰も救えないのよ」




 最後に呪いのような言葉を残して、シルヴィアはアパルトマンを出て行った。








 秋が深まり、マロニエやプラタナスが黄金色に街を彩る頃、デュラス教授から職場に私信が届いた。


 デュラス教授は四十半ばの女性で、先だってのタルースト病の功績を買われ、研究の場を大学から王立医薬研究所に移すことが決まっていた。

 


 手紙には、明日、アレクシアが研究室に立ち寄ることになっているから、午後から時間があったらどうぞ。

 というお茶のお誘いのような砕けた文面で、身動きが取れずにいたヴィクトルを助けた。



 だいぶ前の、アレクシアが研究室に来る機会があったら教えて欲しい、という切羽詰まった自分の願いを覚えていてくれたのだ。


 ヴィクトルはすぐさま翌日の午後の休暇を願い出た。




 アレクシアには、もう一月以上会えていなかった。


 サロンに来なくなったのだ。



 ラファエルを見かけることもなくなり、ヴィクトルは二人の離別を予想していた。




 エドガーは変わらず色々な女性を受け入れていた。


 ここにきて、ヴィクトルはエドガーの無分別な行いは、彼の優しさなのだと理解した。



 彼は、悲しみに打ちひしがれている女性をその体と心で包み込んで、壊れてしまわないように守っているのだ。 



 世界の見方が一転した。





 久々のカレッジは、変わったようで、何も変わっていなかった。


 今そこにいる自分にだけ時が流れてしまったような哀愁があったが、お世話になった教授は一笑に伏した。


「それは過去への希求だね。もう二度と戻れないから、輝かしく、そして虚しい」




 研究室は雑多だった。

 引っ越しがあるからとか、卒業式典の後だからとか、そういうことではなく、元々が雑多なのだ。


 その中から適当な椅子をガタガタと引いて、デュラス教授は着席を促した。



 懐かしかった。

 ここでアレクシアと出会った。

 肩を並べて顕微鏡を覗いた。


 まだ、戻れる過去だ。



 ラファエルの結婚を見届けたら、アレクシアに復縁を申し込むつもりだった。



 今度こそ間違えない。



 自分が苦しめたアレクシアを、自分が守ろうと思っていた。


 心がこちらに向いていなくても構わなかった。

 ただ、そばにいることを許してさえくれればいい。




 控えめなノックの後、アレクシアが複雑そうな表情で顔を出した。

「デュラス先生、ご心配おかけして…」


「このバカ娘!」


 半分だけ空いた扉にドカドカと向かい、教授は丸めた紙の束でぽかりとアレクシアの頭を引っ叩いた。


「私がどれだけ心配したと思った!こんなバカな男に捨てられたくらいで人生は終わらない!せめて会いに行ったら顔くらい見せろ!」



 そこで初めてアレクシアは、部屋の奥にヴィクトルがいるのに気がついた。

 青の瞳が丸く開く。


「なんでいるの?」



 飾らない言葉が胸に迫った。



「私が呼んだ。死にそうな顔で、君が来たら知らせろと言ってきた。こんなバカでも可愛い教え子だからな」

 辛辣な言葉にアレクシアは苦く笑った。

 


 少しだけ片付けを手伝い、少しだけ昔話をした。


 研究室には給湯設備がなかったから、学生はビーカーをアルコールランプで熱してコーヒーを淹れていた。

 

 また、過去への希求なのか、二人でしんみりビーカーコーヒーを飲んでいたら、教授が本を投げてよこした。



 ワイン色のビロードで裏打ちされた、修了証明書だった。



「代わりにもらっておいた。感謝しろ」



 先月の式典に、アレクシアは参加しなかったのだ。


 長いようで短かった、大学での日々。

 決まっていた結婚もなくなり、アレクシアの未来は白紙だ。

 状況は全て様変わりしたが、証明書は収まるべき場所に収まった。




「修了おめでとう。君が私の教え子でよかった」




 アレクシアはしばらく肩を震わせて涙を流した。



 教授が差し出したハンカチで目元を覆い、ふう、と息をつくと笑いながら言った。

「先生、ハンカチが臭います」


 無邪気な昔のままの笑顔に、ヴィクトルは目頭を熱くした。


「二ヶ月くらいはポケットに入っていたからね」


 きゃあ、と短く悲鳴をあげ、アレクシアは立ち上がって教授の白衣を脱がしにかかった。

 二ヶ月入れたままのハンカチを洗っていないとすれば、入っていた白衣も洗われていない。


 ブラウスとタイトスカートだけになった教授が寒い寒いと喚き出し、教授会があるからと研究室から締め出された。



「落ち着いたら今度は医薬研究所に遊びにおいで。助手を召し抱える権限ぐらいはある。雇ってあげよう」

「当てにしています」

「馬車馬のように働かせる助手を一人確保したぞ」





 帰り道はカレッジの敷地の中をゆっくり歩いた。

 研究室の中と違い、言葉は少なかった。



 夕方に差し掛かり、秋の風は寒さを増す。

 覗き見たアレクシアの顔色が悪い気がして、立ち止まった。


「少し痩せたかい?」


 泣いて化粧がとれたのか、幼い瞳がヴィクトルを見上げる。




 今日のアレクシアは、いつもと違ってフレアタイプの令嬢らしいワンピースに、厚手のショールを身につけていた。


 気のせいか、纏う空気も穏やかだ。


 過去のままの彼女に、過ぎ去った日々の切なさが込み上げる。



「少し風邪をひいていたの。もう治ったわ」


 そう言って歩き出したアレクシアの後を追う。

 落ち葉を踏み締める音がもの寂しい。


「先生に借りてたものがあったのだけど、返しそびれちゃった。ヴィクトル、たまに仕事で会うでしょ?預けてもいい?」


 本当に、過去に戻ったようだ。

 自分が間違わなければ、確実に続いていた日常。


「来月には共同研究会議があるんじゃないかな。僕は出るかわからないけど、会えると思うよ」


 アレクシアはバッグから、押花の植物標本を取り出した。

 青のローズマリーが、ちんまりと手のひらに乗った。


「これ?標本?」


「可愛くて栞にしてたの。先生も気に入っていたから、卒業を機にそろそろ返そうかなって」


 デュラス教授は豪快な女性だが、小さく可愛らしいものを愛した。


「預かっておくよ」

 手帳に挟み、ジャケットの内ポケットに入れた。






「ヴィクトル」


 門の前で、アレクシアは立ち止まった。



「もう、私は大丈夫だから。あなたは恋人と幸せになって」



 冷たい風が二人の間を抜けた。



「今までありがとう。引き止めてごめんなさい」



 君を捨ててまで選んだ女性とは、とっくに別れたんだ。


 言えるわけがなかった。



「僕のことはいいから、君はステファン夫人に会いに行ってあげて。心配していた。エドガー様には会わないで欲しいけど」


 ふふ、と、アレクシアは笑った。


「来週くらいには顔を出せそうかい?」

「ええ。でもあなたは来ないほうがいいわ」

「そんな冷たいことを言わないでくれよ」


 また、アレクシアは笑った。


「車は待たせてるのかい?冷えるから、もう帰ったほうがいい」

「そうね。それじゃあ」

「また」


 門を出て、右と左に分かれる。

 リヴィエール伯爵家の車から見知った従僕が降りてきて、ドアを開けてアレクシアを乗せた。



 乗り込む寸前、アレクシアが振り返ったのが見えて、軽く手を上げた。



 受け入れてくれるかもしれない。

 愚かな自分の告白に、しょうがない人ね、と言ってくれるかもしれない。



 柔らかな微笑を残し、アレクシアを乗せた車は遠ざかった。











 その年は秋の終わりからひどく冷えた。


 北部の州に積もるほどの雪が降った日、首都は曇り空からたまに雨の落ちる、変わりやすい天気だった。



「アルディさん、エントランスに面会の方が見えてるそうですよ」



 朝の出勤直後の来客は滅多にない。

 周りの同僚も訝しげにヴィクトルを見ていた。




 受付で背を向ける女性に、心当たりはなかった。

 


 近づいてみると、それが少し前に会ったばかりのデュラス教授で、ヴィクトルはかなり驚いた。


 ひとまわり小さくなっしまったような心許なさだった。




 彼女は濃いグレーのコートに同じ色の帽子を目深にかぶっていて、帽子からは黒いベールが広がっていた。




 喪服だった。





「教授…」



 いつもの闊達とした覇気は無く、無理に作った笑みでヴィクトルを迎えた。


「朝から職場まで来て悪かったね」


 いえ、と、かろうじて返事をした。

 足元からざわざわと得体の知れない黒い恐怖が広がった。



 教授の眼鏡の奥の目が、痛ましげにヴィクトルを見ていた。





「アレクシアが亡くなったそうだよ。事故だと聞いた」





 きん、と、耳障りな音が頭の中で鳴った。



「一昨日のことだそうだ。昨夜家に戻って、今日これから葬儀がある。急なことで知らせが遅くなってすまなかった」


 デュラス教授は平静を保ったまま続けた。


「私は参列するが、君は複雑な立場だろうし、見送ってもいいと思う」


 あまりにも普段通りで、それが返って彼女の哀傷を感じさせた。


「ただ、アレクシアに会えるのはこれが最後だ」



 そうか。会えなくなるのか。


 現実のことと思えず、冷静な自分の声が、行きます、と、耳の中で聞こえた。




 運転はヴィクトルがした。

 家で着替える時間はなかった。

 暗めのスーツで出勤したことが幸いだった。



 郊外の教会までは片道一時間の道のりだが、車の中でデュラスが外を見ながら口を開いた。


 昼間にも関わらず、空はどんよりと暗い。



「ブラウアー峠で横滑り事故だそうだ。運転手は重傷だか無事だそうだよ。新聞に出ていたな。まさか自分の教え子だとは思いもしなかった」

 

「なんで、そんなところに。誰かと間違われているのでは?」


 可能性に、少しだけ気持ちが浮上する。

 ブラウアー峠は首都と西部のドゥミ州を繋ぐ山道で、アレクシアとも、リヴィエール伯爵家ともゆかりが無いはずだ。


 わずかな希望が胸に生まれる。



「昨日リヴィエール伯爵とエディット嬢が、安置所で遺体を確認したそうだ。連れ帰ったあと、わざわざ妹さんだけでカレッジまで出向いてくれた。引き継ぎに残っていて良かったよ」


「…」


「君に伝えていいか確認したら、お任せします、と言っていた。そんなことは喋ったのに、彼女に慰めの言葉をかけてやるのも忘れていた。人間の思考なんて、ままならないものだな」


「教授」


「後になって悔やむんだ。あのとき、こうしてやれば良かった、ああ言ってやれば良かった、って。そんなことばかりだ」


「教授、もうそれ以上は」


「本当は君にも昨日の夜に伝えてあげられれば良かったのに。どうしても、受け止めきれなくてね」


 涙を堪える恩師の声に、ヴィクトルの唇は震えた。


 悲しむ人がいると、この悪夢のような時間の現実味が増して、耐え難かった。





 教会の扉は開かれていた。

 聖堂の中は薄暗く、ステンドグラスからの明かりが鈍く棺に差し込んでいた。



 司祭や遺族の着席は済んでいた。


 光景を眺めた。

 斜め前の席にステファン夫人とエドガーがいて、こんな場に来ることもあるんだな、と漫然と思った。


 前方の席には泣きくれる老婦人がいて、横の老紳士が婦人の肩を抱いて、十字架を凝視するように見つめていた。


 最前列の伯爵はしっかりと前を向き、その横にエディットの後ろ姿があった。

 婚約者なのだろうか、長身の男性が寄り添うように座っていた。

 伯爵夫人の姿はなかった。



 それだけだった。


 たったそれだけの、参列者だった。




 司祭が祭壇に立ち、参列者たちも立ち上がった。


 聖歌も、福音も、祈りの言葉も、何一つ入ってこなかった。


 献花に進んだところで、アレクシアの侍女のアメリアに抱えられるように、伯爵夫人が入室した。


 立っているのもやっとという有様だった。




 花は、白菊ばかりだった。


 秋も深まり、この時期は花屋も彩りが少ない。

 アレクシアにはもう少し大ぶりな花が似合うのにな、と思い、一輪手にして棺に進んだ。






 顔を見た瞬間、嗚咽が込み上げてきた。




 本当に、アレクシアだった。




 もうすでに、体のほとんどは花に覆われていた。

 顔も、左の上半分は白い花で飾られていた。

 事故だと聞いた。

 そういうことなのだろう。

 



 震える呼吸を必死で飲み込んだ。



「シア…」


 違う女性に心が向いてから、一度も呼んでいなかった呼び名が口をついた。



「シア」


 呼びかけても、瞼は開かなかった。

 あの繊細な宝石のような青の瞳は、もう二度とこちらを見ることはないのだ。




 言いようのない孤独感で息が苦しい。



 恐々と頰に触れると滑らかで、柔らかで、そして冷たかった。



「シア、目を開けて」



 言った瞬間ぼたぼたと大粒の水滴がアレクシアの頰を濡らした。


 自分の涙だと気づいたのは、視界が滲んだからだ。

 




 どれほどそうしていたかわからない。



 乱暴に肩を組まれ、そのまま棺から離された。


 エドガーだった。



 彼は呆然と立ち尽くすヴィクトルの背を二回叩き、最後の献花をした。



 額に口付けるのを、憧憬の思いで見つめた。





 埋葬にはとても立ち会えなかった。


 暗い穴の中に閉ざされていくアレクシアを、見ていられなかった。



「待ってくれ」

「彼女は暗いところが苦手なんだ」

「そんな狭いところに寝かせないでくれ」



 そう、司祭の手を止めてしまいそうで、聖堂の後ろの椅子で縮こまるように時間が過ぎるのを待った。




 最後の讃美歌が終わり、伯爵が挨拶をして、人の気配がなくなった聖堂で、ひたすら神に祈った。

 



 どうか、やり直させてくれ。

 別れを告げたあの日に、どうか。


 ミラー越しの横顔が思い浮かぶ。


 間違ったんだ。

 全部自分のせいだ。




 伯爵にも、夫人にも、エディットにも、罵倒される覚悟だった。

 彼らにはその権利がある。


 お前のせいでアレクシアは不幸なまま死んだのだと、責め立てて欲しかった。




 無理なら、どうか。


 自分と出会う前の時間にアレクシアを戻して。


 そうしたら、絶対に彼女の手を取ったりしない。

 どんなに惹かれても、決してそばに行ったりしないから。



 だから、どうか。





 涙はそれほど流れなかったと思う。

 ただ、喉は少し息を吸うだけで熱く震えて、どうせならこのまま自分の息も止まればいいのにと願った。



 こつり、こつりと足音がして、それが天からの迎えであればどれほど幸せだろう、とヴィクトルは振り向いた。



 エディットだった。


 並んで椅子に座った。



「来てくださって、感謝しています。姉も喜んだと思います」

 

 気丈な女性だ。

 アレクシアにそっくりだ。


「先日カレッジで姉と会ったと聞きました」

「…そうだね。それが彼女に会った最後になった」


 少し考えて、エディットは聞いた。


「姉とは、仲直りを?」


 その可愛らしい響きに、思わずちらりと笑う。


「どうかな。アレクシアは許してくれたというより、僕があまりにしつこくて諦めたんだと思うよ」


 また、思案する空気が流れた。




「……姉は、妊娠していました。相手はあなたですか?」



 今度は本当に息が止まった。


「……いや」


 吸っても吸っても酸素は入ってこない。


「僕では、ないよ」


 そうですか、とエディットはまた少し黙って、そっか、と呟いた。


「カレッジに行った日に、あなたと会えたんだ、と嬉しそうに言っていたから。てっきり元に戻ったんだと思っていました」


「…そう。その日、彼女は風邪を引いたと言っていた。妊娠は思い違いでは?」


 顔色の悪さを思い出す。


「時々怠そうにしていて、吐いているのも見かけました。問い詰めたら、多分つわりだと言いました。知っているのは私と姉の侍女だけです」


 思い当たるとしたら彼らだが、それはエディットも同じだったようだ。



「ステファン夫人には君が知らせたの?」


 ええ、とエディットは頷いた。


「来てくださるとは思っていなかったんですが、行って良かった。姉は友人が少なかったので」


「そう…なんだね」


「姉の世界は、あなたと研究室だけだったと思います。人付き合いは苦手そうだった」



 思いもしなかった。

 確かに同性の友人は見かけなかったが、そもそも研究課程に進む女性が非常に稀なので、そのせいかと思っていた。



「そろそろ帰った方がいいですよ。雪になりそうです」


 どうりで、随分と冷え込む。


 立ち上がって歩き出したエディットに、思わず声をかけた。




「エディット嬢!」



 彼女は振り返って少し首を傾げた。



「アレクシアは、どこにいくつもりだったのか知ってるかい」


 言葉に詰まる気配がした。

 言っていいのか悩んでいる風だった。



「ドゥミ州に、支援施設があるんです。一人で出産する女性のために、伯爵夫人が出資している施設です。冬になる前にそこに向かいました。辿り着けなかったけど」



 エディットの声が揺らいだ。



「この街から離れたのは、私に迷惑をかけるのではと、気にしていたからだと思います」





 エディットが立ち去って少しして、ヴィクトルも立ち上がり、聖堂を後にした。





 家族に頼らず、一人きりで子どもを産む決意をしたアレクシアが、ひたすらに悲しかった。






 墓石の前にはデュラス教授がしゃがみ込んでいた。


「待っていてくださったんですね」

「足がないと帰れないからね」


 自分を一人にしておけなかったのだろう。優しさに胸が痛んだ。






 無気力に過ごした。

 仕事には行くが、こなすだけの日々。


 冬になってしばらくしても、アレクシアのいない世界が受け入れられなかった。




 週に一度、彼女を神のもとに見送った金曜日は、仕事の後に墓地に寄った。


 遠い道のりも苦にならなかった。



 何度か墓石の上に花が上がっていることがあったから、他にも誰か来ていたのだろう。





 年明けの休みに入り、ヴィクトルはその日は昼過ぎに墓地を訪った。


 冬の間重く垂れ込める鈍色の雲は空になく、珍しく暖かな日差しが降り注いでいた。





 人のいない墓地で、墓石の前に佇む男がいた。


 近づいて行っても気づく様子はなく、ウールコート姿の男は両手をポケットに入れたまま、墓石に掘られた新しい文字を食い入るように見ていた。



「ラファエル様」


 振り向いたラファエルは、いつものようにヘーゼルの瞳を優しく細める。


「君か」

 そう言ってまた前を向く。


 ヴィクトルがアマリリスの白い花束を供えるのを、静かに見ていた。



「葬儀にはお見えじゃなかったですね」

「国を離れていてね。アレクシアのことは、昨日知ったよ」



 ラファエルと第一王女の結婚は、先週発表された。


 挙式は次の夏で、そんなに大きな縁組が今まで伏せられていたことに、いろいろな憶測が駆け巡った。



 曰く、王女が昔からラファエルに固執していたとか、ラファエルの放蕩な日々はこの縁談を避けるためだったとか。


 果ては公爵家は王室と縁付くためにラファエルを犠牲にしたとか、言いたい放題だ。



 その中で、ラファエルの最初の婚約者が湖で転落死していたという事実だけは、人々は声を落とした。




「昨日の今日では、受け止めるのに時間が足りませんね」


 そう言ったヴィクトルも、もう一月以上この現実を拒絶している。




 ラファエルは小さく呟いた。




「孤独のまま死なせてしまった」




 深い悔恨が窺えて、ヴィクトルはラファエルの本質を見た気がした。



 静かに墓の前に立つ彼。

 天使像がそのまま成熟した大人になったような姿は、大天使そのものだ。



 癒しの大天使ラファエルが、力及ばなかった自分を悔いて、嘆いている。




 二人は無言でアレクシアを偲んだ。




 最後に会った日の、昔に戻ったような彼女を思い出した。




「アレクシアが妊娠していたのは、ご存知でしたか」



 ラファエルはゆっくりと振り向いた。



 アレクシアにしか灯らなかった光が、ヴィクトルを見つめた。



「妊娠…?」



「あなたの子でしょうか」



 見開かれた瞳が、ややあって潤む。

 深く息を吸い、ラファエルは顔を伏せた。



「子どもが。そうか。…そうだったのか」



 膝をつき、墓石の文字に愛しげに触れる。



「…良かった」



 大きく肩が震えていて、ヴィクトルは彼の悲しみに居た堪れなかった。




「良かった。本当に。ああ、僕の子どもだといい」


「ラファエル様…」



 彼の頰に涙が伝った。



「僕との子どもが彼女の孤独を癒したなら、なんという救いなんだ」



 そういうことか、とヴィクトルは思った。



「アレクシアを、一人で逝かせずに済んだ」



 そういうことなんだ。

 最後の日の彼女が昔に戻っていたのは、救いを得ていたからなんだ。





 愚かなアレクシア。

 家族の愛にも、恩師の愛にも気付かずに、一人で孤独に落ちた。


 君はこんなにも愛されていたのに、知らずに死んでしまったのかと思っていた。



 違うなら、良かった。








 冬は、寒気(かんき)が強かった。

 大陸の南で発生したたちの悪い風邪が、晩冬から国中を席巻した。


 人口の密集する都市部では、多くの人の命が失われた。

 首都に住まう人の六人に一人が亡くなったとも言われたその疫病は、身近な人々を何人も神のもとへ連れて行った。


 心を持ち直せなかったリヴィエール伯爵夫人も亡くなり、タルースト病が寛解していたシルヴィアの弟も呆気なく命を落とした。




 病魔が収束の兆しを見せ、苦難の冬が終わる頃、新聞にラファエルの訃報が載った。


 感染後の肺炎を拗らせての病死だった。



 王族との結婚が目前だったこともあり、葬儀にはたくさんの人が参列した。

 ヴィクトルも列に加わったが、聖堂に入ることもできなかった。



 この中の何人が、本当にラファエルを悼んでいるのだろう。


 常に厭世的だった彼を思い出し、涙は出なかった。




 彼はアレクシアに召されたのだろうか。

 そばに来てもいい、と許されたのかもしれない。



 この苦しみしかない世界を旅立てたラファエルが、羨ましかった。







 春になり、首都の惨状も落ち着いた頃、ヴィクトルは仕事を辞めた。


 デュラス教授にもう一度師事することを決めたのだ。



 教授に与えられた、広いのにやはり雑多な研究室を訪ねた。


 最初の出勤日を決めようと手帳を開いたところで、はらりと細い紙が落ちた。




 すっかり忘れ果てていた、アレクシアの栞だった。



「懐かしいな」



 屈んで拾ったデュラスが目を眇めた。


「あなたに返して欲しいと預かっていたのを、今の今まで忘れていました」


 不思議そうに見つめられ、ヴィクトルは首を傾げる。


「教授のものでは?」


 いや、と首を振り、彼女はヴィクトルに栞を差し出した。



「それは、新入生に向けた体験講座の試作品だよ。何年前だったかな。アレクシアが随分気に入って、しばらく使っていたのを見かけていた」


「…」


「私に返すように言われたって?」


「はい」


 ふふ、と、彼女はしみじみ笑う。


「君に持っておいて欲しかったのかもな」


 急な出来事に、声が詰まる。


「お前たち、未練がましくてお似合いだな」


 呆然と自分を見つめる教え子を、デュラスは涙を浮かべて見返した。


 立ち直るには、まだお互い時間がかかる。

 二度と会えない苦しみは想像以上だった。


「辛いなら、私が引き取ろうか」


 いいえ、と、強く栞を握り込みかけて、ヴィクトルは焦って手を開く。



 わずかに色の落ちた、青い花が涙でぼやけた。

 どこにでもある野草が、こんなにも愛おしい。



 花が重ならないよう、丁寧に厚紙に広げていくアレクシアが瞼に思い浮かんだ。




 その真剣な表情が、見つめていたヴィクトルに気付き、照れたように笑う。


 想像の中の彼女は、最後に門で別れた時の、柔らかい微笑と同じ笑みを見せた。






 もう、サイドミラーに映る悲しげなアレクシアに囚われるのはやめよう。



 せめて自分の中の彼女は、いつも幸せでいて欲しい。




 君のいない世界は、悲しくて苦しくて、どうしようもなく寂しいけれど。

 願い続ければ、きっとまた会えるのだろう。




 何年か、何十年か先に。




 ヴィクトルはいつかの再会を信じ、アレクシアの笑顔を閉じ込めるように目を瞑った。













 

 

読んでいただいてありがとうございました。

キリスト教に造詣が深くないので、葬儀で不自然な流れがあったら申し訳ありません。


ここで終わりですが、私が耐えられないのでヴィクトル救済編を近々投稿しようと思います。

気になる方がいらしたら、またぜひ。

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