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前編

読んでいただいてありがとうございます。


暗くて重いです。

薬物を使用する描写があります。

ヒロインがヒーロー以外と関係を持つ描写があります。

どちらも軽い表現です。





 アレクシアは初めて自分の過去の選択を後悔していた。


 老舗カフェのソファに座る、目の前のヴィクトル・ド・アルディとは、恋人関係になってからもう四年だ。



 歳はアレクシアの二つ上。

 同じ女性教授の研究室出身で、優秀で爽やかなヴィクトルは後輩たちの憧れの的だった。


 彼の見た目が平均よりもかなり秀でていたのも、もちろんその理由の一つだ。



 ヴィクトルとは、今年の秋にアレクシアの研究課程の修了に合わせて結婚する約束をしていた。


 あと半年後の、近い未来の話だった。




 ヴィクトルは、いつもは慈愛深くアレクシアを見つめる緑青の瞳を翳らせ、しかし広い背中をぴんと伸ばし、決意を口にした。



「アレクシア。君との結婚を無かったことにしてほしい」



 だから個室にしたのか、と、アレクシアは思った。


 予感はあった。


 研究で忙しい合間を縫って彼と予定を組もうとしても、仕事を理由に断られることが増えた。


 彼は研究課程の修了後に製薬会社の研究所に入った。

 国有企業で、上層部は皆爵位を持つ貴族だ。



 ヴィクトルもアレクシアも伯爵家の出身で、派閥は違うが家族も二人の婚約を喜んでくれていた。



 本当は、アレクシアの専門過程の卒業時に籍を入れようと言う話もあった。



 二年前のことだ。

 それを延ばしたのはアレクシアだ。


 アレクシアはどうしても、大学に残って教授が進めていた研究の完成に立ち会いたかった。


 自分にできるのは非臨床試験の単純な手伝いくらいだが、ゴールは本当に目の前だった。



 研究課程に進みたいアレクシアを、ヴィクトルは応援してくれていた。


 

 その成果も先日の学会で発表され、共同開発の企業に権利の譲渡も終わった。


 今後臨床での治験も始まり、完全にアレクシアの目的は達成された。




 これからだった。

 やり残したことは全て片付き、ヴィクトルとの新しい未来が始まるのだと思っていた。





「待ち疲れて、私のこと嫌になっちゃった?」



 アレクシアは目の前のティーカップを静かにソーサーに置いた。


 手が震えてカチカチ小さく音が鳴ったのを、多分

ヴィクトルも気づいていた。


 気遣わしげな視線でアレクシアの手元を見て、いいや、と首を振る。


「君に落ち度は何もない。僕の身勝手で君を傷つけることを許してほしい」


 ヴィクトルは頭を下げた。

 耳上の亜麻色の髪が幾筋かはらりと落ちた。


「理由を聞いてもいい?」


 声が震えそうになって、なんとか小さく深呼吸したが、アレクシアの喉は引き攣ったままだ。


 多分、ヴィクトルは本当のことを言うつもりがなかったんだと思う。


「じゃないと私、納得できないよ」



 泣くな、と自分に言い聞かせた。

 泣いてしまっては冷静な話し合いはできない。

 どこか自分の気に入らないところがあるのなら、教えてくれないと直せない。


 だって、ずっと仲の良い恋人同士だった。



「何もないんだ。本当に、君は何も悪くない」


「じゃあ、どうして?私ヴィクトルのこと好きだよ。別れたくない」


 ヴィクトルが膝の上の拳を強く握ったのがわかった。


 困らせている。

 喉が鳴って、我慢していた涙が流れた。

 


「ごめん」


「嫌なところは直すから。お願いだから、考え直して」



 みっともないのはわかっていた。

 でも、もうアレクシアには縋る以外に手段がない。


 堪えていた涙が止まらず、バッグからハンカチを出して乱暴に目元に押し当てた。



 久々に施してもらった丁寧な化粧も、おろしたてのワンピースも、何の意味もなかった。



 アレクシアの小さな嗚咽だけが続く中、ヴィクトルは長いこと悩んで、ようやく口にした。





「他に、好きな人ができた」




 やっぱり、と思った。

 

「同じ、職場の人?」


 うん、と、顔を下げたまま頷く。


「どんな人?」


 また少し考え、ヴィクトルは全てを曝け出す覚悟をしたようだった。


「一つ年上の女性だよ。研究補助をしてくれている」


 手に職のない女性が家庭教師以外の仕事をするのは珍しい。


「平民の方?」


 いいや、と、ヴィクトルは首を振る。

 

「子爵家の令嬢だよ。お父上が事故で大きな怪我を負ったらしく、病気の弟の医療費を工面しなければならなくなったと言っていた」



 同情が愛情に変わったのだろうか。

 ずるい、とアレクシアは思った。



「弟さんのご病気は悪いの?」


「君のよく知るタルースト病だ」



 え、と、アレクシアは固まる。

 ずっと教授が研究していたタルースト病の治療薬。


 若年層に発症し、全身の痛みと徐々に重くなる呼吸器症状が特徴の難病だ。



「ただの仕事仲間だったが、その話をするうちに親しくなった」

 


 胸が大きく痛んだ。

 それは、アレクシアの話題も出たと言うことだ。

 自分の研究がヴィクトルの心変わりを後押ししてしまった。

 


「付き合ってるの?」


「君と話をしてから申し込むつもりでいる」


 そうなんだ、と、アレクシアはつぶやく。

 ハンカチを顔から離し、強引に口の端を上げた。


「じゃあ、付き合えないよ。私別れるつもりないもの」


 ずっと下を向いていたヴィクトルが、信じられないと言うように顔を上げた。



「別れないよ。どうして別れられると思ったの」


「アレクシア、僕はもう君に心はない。大事な人であることに変わりはないが、どうしても彼女を放っておけないんだ」


 ふ、と、息が詰まる。

 ここまで言われても、手を離せない自分が惨めだった。


「相手の方に断られるかもしれないよ?そうしたら戻ってきてくれる?」


 また、ヴィクトルは首を振った。



「彼女は僕の言葉を待ってくれている」



 呼吸の仕方を忘れたように、息が止まった。

 言葉がないだけで、思いは通じ合っているということだ。


 人の婚約者を奪って、卑怯な女。と心の中で醜く呟く。

  


「治験、その弟さんを外してもらうようにお願いしようかな」



 悪意を入れた冗談だった。

 前のヴィクトルなら、本気でないことに気づいたはずだ。


 だが彼は、大きく怒気を含ませてアレクシアを睨みつけた。


「言っていいことと悪いことがある。わからないのか」


 激しい怒りを受けて体が震えた。

 アレクシアの怯えを感じ取ったのか、ヴィクトルは小さく息を吐いて激情を鎮めているようだった。




「僕は君を尊敬している。最後の最後で幻滅させないでくれ」



 声には哀願が滲んでいる。


 見苦しく取り縋っても、突っぱねても、脅してもだめ。

 どうにもならないんだ。

 彼はもう、知らない女性と手の届かないところに行こうとしている。



 哀れで無様な自分を捨てて。




 咽び泣くアレクシアが落ち着くのを、ヴィクトルは辛抱強く待ち続けた。







「送るよ。乗ってくれ」

 四人乗りの車の後部座席の扉を開く。

 行きは隣に乗せたが、もう別れ話は済んだあとだ。



 ふるふると首を振るアレクシアに、ヴィクトルは堪えていたため息をついた。


 自分の身勝手でアレクシアを傷つけた事を申し訳なく思っていたが、彼女はもう少し大人な対応をすると予想していた。


 知的なレベルも高く、同じくらいプライドも高い。


 そんな彼女の悲しみに暮れる様子に、良心が痛む。



「頼むよ、アレクシア。君を送るのもこれで最後だ」


 アレクシアはヴィクトルを見ずに口を開いた。


「歩いて帰るわ。近いから」


 彼女は貴族の令嬢だ。侍女も護衛も付けずに帰すわけにはいかない。


「困らせないでくれ。一人で置いていくわけにいかないだろう」


 それでも、アレクシアは目を合わせようとしない。


 赤く腫れた目元。

 濡れた頰。

 泣いていたのは一目瞭然だ。



「本当に歩きたいだけよ。もういいから、行って」


 王城から凱旋門までを繋ぐ大通りのカフェ。

 ブティックや有名レストランの並ぶ賑やかな区画からも、そう遠くない。

 彼女の実家のリヴィエール伯爵邸までは歩いて二十分くらいか。


 まだ、空は明るい。



「絶対にまっすぐ帰るんだ。約束してくれないと、そばを離れられない」


 くすり、と、アレクシアが笑った気がした。


「じゃあ約束なんてしないわ。離れたくないもの」


 はぁ、と、またため息が漏れた。

 アレクシアの肩に手を置き、無理やり顔を合わせる。

 光をなくした青の瞳は何も映さない。



「僕は、君を大切に思っているよ。恋は無くなってしまったけど、それは変わらない。君の幸せを祈っている」


「振った女が不幸そうにしてたら寝覚めが悪いものね。ちゃんと帰るわ。もう行って」



 一筋の涙が伝った。


 ヴィクトルは切なさに、アレクシアを強く抱きしめた。

 一度は愛して、結婚まで誓った女性の涙に、感傷がないわけではない。



 愛惜との訣別の抱擁だった。






 運転席に乗り、エンジンをかける。

 本当はアレクシアを送ってそのままリヴィエール邸に婚約解消を申し出るつもりだった。


 自分だけで行って、迎えの車を出してもらおう。


 サイドミラーに映るアレクシアのうつむいた姿を見やり、アクセルを踏んだ。






 最後に見たその横顔は、長くヴィクトルを苦しめることになる。








 リヴィエール邸には夫人と彼女の妹のエディットがいて、一人やってきたヴィクトルを怪訝そうにしながら応接室に迎えてくれた。


 門の従僕へは到着してすぐにアレクシアを迎えに行くよう伝えていて、彼は侍女のアメリアを伴って早々に出発してくれていた。



 ことの次第と婚約の解消について話し終えると、夫人は怒りも露わに立ち上がった。


「それであなたは、傷心のアレクシアを一人街中に置いて帰ってきたと言うのね」


 それには平身低頭謝るしかない。


「とても車に乗ってくれる様子ではなかったので、やむを得ずこの手段を取りました。お怒りはごもっともです。申し訳ありません」


 深く深く頭を下げるが、もちろん納得してもらえるはずもない。


「すぐにお帰りください。もう顔も見たくありません。婚約はあなたの有責で破棄になるでしょう。ご両親だけでお越しになってと伝えてくださいな」


 そう言うと、返事も聞かずに部屋を後にする。

 


 残されたエディットは話の内容と母親の剣幕にひどく驚いたようで、アレクシアとよく似た大きな青い目をパチクリさせてヴィクトルを見つめた。


「あんなに仲が良かったのに、簡単に壊れるのですね。男の人って怖いわ」



 エディットは今年十八、確か幼馴染の侯爵家の次男と婚約が決まったばかりだ。

 アレクシアが研究の道に進んだので、リヴィエール伯爵家はエディットが継ぐことになる。



 エディットもアレクシアと同じく名を馳せた才媛で、きっとうまくこの家を切り盛りするのだろう。


 懐いてくれていた、義理の妹になるはずだった少女は、部屋付きのメイドに合図すると、家令を呼びつけあっさりとヴィクトルに退出を促した。








 アルディ伯爵邸は、夜半から物々しい雰囲気だった。


 アパルトマンに帰らず、久々の実家で朝早く目覚めたヴィクトルは、食堂で朝食をとった後父母に今後について相談しようと思っていた。


 婚約の解消を希望していることと、支えていきたい女性がいることは、ひと月前には相談していて、両親は渋々ながらも離れて暮らす次男坊の言い分を受け入れていた。



 最後まで反対していた兄カミーユの姿は今はない。



「父上、母上、おはようございます。ずいぶん早い朝食ですね」


 食堂の二人は険しい顔でヴィクトルを見つめる。


「とても寝られる状況ではなかったのよ。昨日あなたがアレクシア嬢を置いて帰ってきた話は聞いていたけど、その後のことは知っていて?」


 寝起きの頭が一気に冴えた。

 何かあったのだ。

 まさか、という思いに気持ちが騒ぐ。


「夜遅くにリヴィエール伯爵邸から、アレクシア嬢が帰ってきていないが、まさかお前といると言うことはないかと使用人が問い合わせに来た」


「…帰ってない?」


「アパルトマンにいるのではと疑ったようだが、お前はここにいると言ったらすぐに戻って行ったよ。起こそうかとも思ったが、お前に出向かれても向こうも迷惑だろうからな」




 冷や汗が背中を伝った。



 あれから何時間経った?

 半日は確実に過ぎている。


 自分が離れ、依頼した迎えの車が到着するまで、それほど時間はかかっていないだろう。



 では、自分で出奔したのか。

 人攫いか。



 青ざめたヴィクトルに、両親は大きく頭を抱える。



 貴族令嬢の行方が知れないなど、首都を揺るがす大事件だ。

 関わり方次第ではアルディ伯爵家の評判にも影響してくる。



 振った婚約者を打ち捨ててくるなど、紳士のすることではない。



 使用人が運ぶ朝食に誰も手をつけることもなく、重苦しい空気が食堂に垂れ込める。



 しばらくして、家令が食堂の扉を開けた。

「カミーユ様がお戻りです」



 その少し後に、スーツ姿のカミーユ・ド・アルディが足元も荒く部屋に入る。


 顔色悪く座り込む弟を一瞥し、待ちきれない様子で立ち上がった両親に向き合う。



「先ほど、アレクシア嬢がリヴィエール邸に帰宅しました」

 ほう、と、安堵の息を漏らし二人は椅子にへたり込むように座った。



「どこに行っていたんだ?憲兵隊にも届けていたんだろう?」


 カミーユはわずかに視線を迷わせる。


「アレクシア嬢を送り届けてきたシュヴァリエ公爵のご子息によりますと、六番街のエトランジェルームとかいう社交クラブにいるところを保護してきたという話でした。アレクシア嬢は話をできる状態ではなく、すぐに医師が呼ばれていました」

「なんだって?」

「六番街ですって?!」


二人の悲鳴にも聞こえる問いかけに、カミーユは苦く頷く。


 六番街は首都の中でも比較的治安が悪い地区で、貴族令嬢が一人で立ち入る場所ではない。


 さらに名前の上がった子息は三大公爵家の一つシュヴァリエ公爵家の一人息子で、成人してからもう五年経つが、品行の悪さがたびたび話題になる放蕩者で有名だ。



 騒然となる伯爵家の面々に、カミーユはため息と共に続けた。


「何かしらの薬物を摂取した可能性もあるということで、医師の診察の後憲兵隊に移されるということでした。暴力などの形跡は見られなく、車からは歩いて帰宅していたので、私はそこでリヴィエール邸を離れました」


 そうか、と、父が脱力したように言うのを、ヴィクトルは呆然と聞いた。



 薬物。

 憲兵隊が関わるとなると、それは近年厳しく規制され始めた阿片やコカインなどか。


 憲兵が動いているなら、もうリヴィエール伯爵家とアレクシアの醜聞は避けられない。



「すぐに向かいます」


 立ち上がったヴィクトルを、しかし伯爵は怒鳴りつけた。



「お前はもう関わるな!」


 常に鷹揚に構えている父の珍しくいきり立った様子に、全員の背筋が伸びる。



「これからはもう家と家の話だ。お前一人でどうこうできる問題ではない。こちらはひたすら謝るしかないがな」


 そんな、と、口をついた声に全員がきつい目を向ける。


「リヴィエール邸には絶対に近づくな。何かわかったら俺が知らせる。いいか、しばらくは家と職場の行き来だけにしろ」


 カミーユは嘲るように続けた。


「新しい恋人の部屋に通い詰めるのもいいかもな。アレクシア嬢の噂をお前の悪評で吹き消してやれば、多少の罪滅ぼしにもなるだろうよ」







 ヴィクトルはカミーユの指示通り、ほとぼりが覚めるまでほとんど外出をしなかった。

 仕事帰りに恋人のシルヴィアと彼女の部屋で夕食をとり、自分のアパルトマンに戻る生活を二月送った。



 シルヴィア・マルテルはヴィクトルやアレクシアと同じく宮廷貴族の子女で、本来ならば結婚して嫁ぎ先の家に入る予定だった。

 それが父の事故で持参金の目処がつかずに婚約が無くなり、さらに難病の弟の医療費を稼ぐために働きに出ることになったという、不運な女性だった。


 シルヴィア自身は不慣れな仕事にもひたむきに取り組む勤勉な性格で、苦難の現実に挫けることなく明るく振る舞う姿に、ヴィクトルは早い段階から心惹かれていた。



 おそらく、弟の病気に理解が深いこと、長く続く婚約者がいたことが、相談相手として適任だったのだろう。


 決まった相手のいない男性では下心を危惧しなければならず、親しい友人には自分の境遇を伝えることで同情を買ってしまうことを嫌ったのだ。


 そういう、少し勝気なところもヴィクトルにとってはとても好ましかった。



「アレクシア様は今どうなさっているの?」


 たまに、シルヴィアは探るようにヴィクトルに聞いた。


 研究所は首都の主要部の外れにあり、王宮の周りよりは家賃も低い。

 その中でも特に小さく、貴族が住むにはぎりぎり許容される程度のアパルトマンにシルヴィアは住んでいた。


 仕事帰りにここに寄るのは、まだアレクシアと婚約を結んでいる時からしばしばあることだった。


「カレッジの研究室には所属しているけれど、顔は出していないようだよ。先週モリス伯爵夫人のお茶会には久々に参加していたようだから、心配いらないよ」


 アレクシアが摂取した薬物は阿片だろうと結論づけられた。

 一回量が多かったので意識混濁を起こしたが、常用しているわけではなかったので、症状が落ち着いた段階で家に戻されていた。


 阿片は十年前まで一般にも広く普及していた薬で、親世代の忌避感は薄い。

 取り締まりも販売者や医師が対象で、今回のことはそれほど大きな問題にはならなかった。

 

 問題にはならなかったが、噂にはなった。


 シルヴィアには、アレクシアのことについては何も伝えていなかった。

 それでもこうして聞いてくるのは、もしかしたらどこかでその噂を聞いているのかもしれない。


「こちらにきて。抱きしめさせて」


 思案顔のシルヴィアをソファに呼び、小柄な体を足の間に座らせる。



 二人の甘い時間が始まっても、アレクシアの影はヴィクトルの胸に小さな痛みを与え続けた。



 指先に刺さった些細な棘のように。







 それからも二人は平穏だった。


 長く続いていた婚約者を捨て、新しい恋人と睦まじく過ごすヴィクトルを同僚や上司は冷ややかに見ていたが、二人を良く知る同じチームのメンバーは密かに祝福した。


 アレクシアの情報は、実家に求めないと入ってこない。


 存在が遠くなるほど気掛かりは薄れて、ヴィクトルはアレクシアとの日々を忘れることも増えた。







 そんな毎日に水を差したのは、カレッジの同窓会だった。



 政治の専攻課程を出たリオネルは労務省の役人で、子爵家の嫡男だ。

「この前のパーティーで、アレクシア嬢に会ったよ」


 リオネルは愉快な気性の人好きのする男だが、その分配慮に欠けるおしゃべな性格だった。



 この集まりは半年に一度、社交クラブで情報交換のために開かれた。

 参加するのは首都で仕事に就いているメンバーばかりで、毎回顔ぶれに変わりが少なく掘り下げた話も多い。



 周りの友人たちが興味深げに会話に加わる。


「俺も、ロラン侯爵家の夜会で見かけたよ。彼女、びっくりするくらい垢抜けたよな」


「もともと芯の通った美人だったけど、最近は随分華やかだよね」


「ステファン夫人のサロンによくいるって言う噂を聞いたが」

 ルネの出した名前にどよめきが起こる。



 ステファン夫人は王族の相手もする高級娼婦だ。

 社交界でも顔が広く、遊び慣れた貴族男性たちと様々な夜会に出入りしている。


 信じられない取り合わせに、ヴィクトルはつい口を出してしまった。


「アレクシアはそんな付き合いはしない」


 白けた空気が流れる。


 アレクシアもヴィクトルも、今まで社交はほとんどしてこなかった。

 青春の全てを、お互いと勉学に費やしてきた。


 物怖じしないリオネルが、ははは、と声を立てて笑う。


「俺が見た時はエドガー・ロッシュと仲良さそうにバルコニーにいたよ」


「あれ、夜会の時はシリル・フェルノだったけど」


「ラファエル・シュヴァリエとも深い仲だって聞いたことがある」


「やるなぁー。ヴィクトルに捨てられて、必死に結婚相手探してんのかな」


 貶める口調にこめかみが引き攣る。

 上がった人物はどれも、社交に遠ざかっているヴィクトルでも知っている、手広く遊ぶ浮ついた男性ばかりだ。



 体温が下がったのを感じた。



「俺も相手してもらおうかな。彼女、真面目すぎて趣味じゃなかったけど、好みの体つきなんだよな」



 昔から虫の好かないランベールの煽りに、ヴィクトルの怒りは一瞬で爆発した。




 胸ぐらを掴み上げ、寸分の躊躇もなく殴りかかる。


 鈍い音がしてランベールが倒れ込み、後ろのハイチェアが二脚けたたましい音を立てて転がった。


「…痛ってえな」


 口元の血を手の甲で拭い、ランベールは起き上がってヴィクトルに拳をあげる。


 受け止めるよりも早く横っ面を殴り上げられ、横転しかけたところを後ろから誰かに支えられた。



 眩暈がした。

 物理的な攻撃が原因なのか、アレクシアの話題のせいなのか分からなかった。


 さらに殴りかかろうとするランベールをリオネルが止め、引き離すように部屋の外へ二人掛かりで引きずっていくのが、ぶれる視界の端に見えた。


 何か大きな声で悪態ついていたが、激しく耳鳴りのするヴィクトルには届かない。



 椅子に座らされ、テーブルを見ると元の位置から大きく動いていて、上に乗っていたグラスはほとんどが床に落ちている。


 バツの悪そうな友人たちが給仕の男性からトレイを受け取り、割れたグラスの欠片をその上に乗せていた。


 部屋の外から騒ぎを聞きつけた人々が賑やかしに覗いている。

 



 一人項垂れるヴィクトルには、誰も声をかけなかった。

 

 





 次の日、頬にあざを作って現れたヴィクトルに、職場の面々は事情を聞くのを躊躇った。


 シルヴィアだけが短い悲鳴をあげ何があったのか何度も確認したが、ヴィクトルはただの口論で喧嘩になったと誤魔化し続けた。




「アレクシア様のことで喧嘩になったって聞いたわ」


 数日後、夕食の最中にシルヴィアは静かに言った。

 一日中そっけなかったのはそのせいか、とヴィクトルは納得した。


 知らないふりでもしてればいいのに。


 初めてシルヴィアを疎ましく思った。


 君に気を使わせないためだろなんて言いたくなかったが、八つ当たりのような気持ちに失笑した。



「昔の婚約者を庇って殴り合いになったなんて、知りたかったかい?」

 シルヴィアは眉を歪めて口をつぐんだ。



 寒々しい空気が流れた。






 それからずっと、ヴィクトルは少ない伝手を頼ってアレクシアの素行を調べた。

 ちょうど同じ頃、シルヴィアの弟が王立病院で治験薬の対象患者になったことを聞いた。


 シルヴィアが涙を流して喜ぶ姿が、ヴィクトルの冷えた心を少し暖めた。



 アレクシアを更生させたら、プロポーズしよう。



 ヴィクトルは自分の行動を、シルヴィアで理由付けした。






 夜会の類は招待状がなければ参加できない。

 ヴィクトルは社交を避けてきたことを後悔したが、今更遅い。


 ルネの言っていたステファン夫人のサロンに何度か気後れしながら向かったが、もちろんこちらも面識のない人間を入れてくれるわけはない。



 ステファン夫人は首都一の高級娼婦で、彼女自身が芸術家の支援もするほど資産を持っている。

 王宮に近い一等地に邸宅を構え、その規模はアルディ邸を凌ぐほどだ。



 その日は昼過ぎに、いつもどおり門番に取り次ぎを願ったが、けんもほろろに断られる。


 しかしヴィクトルは、ここでアレクシアを捕まえなければ他に手段がなかった。


 家族にはアレクシアには関わるなと事あるごとに言われ、リヴィエール邸への手紙はもちろん受け取ってもらえない。

 研究室の教授に頼み込んでも、肝心のアレクシアがカレッジに顔を出さない。




 迷惑そうな顔をされながら数時間門の前で立ち塞がっていると、後ろで車が止まった。




 夜の闇が夕焼けを侵食し尽くす、少し前だった。







 あの日、アレクシアを救ったのは、エドガー・ロッシュという三つ年上の侯爵家の子息だった。


 アレクシアは意思を持って姿を消したわけではなかった。

 あのまま家に帰り、家族に破局を伝えるのを延ばしたかったのだ。



 少し遠回りのつもりで人の多い道を避けて歩き、マレ川にかかる橋の上で息をつく。

 見るともなしに水面に映る両岸の明かりを眺めていたら、女性を連れたエドガーに声をかけられた。


 飛び降りでもするように見えたのだろう。


 名前を聞かれたが、ぼんやりとその整った顔を見つめていたら、諦めたように笑って連れ合いの女性と共に車に乗せられた。


 そこからは、あまり覚えていない。


 少し暗い、天井の低いバーのようなところに連れられ、勧められた飲み物を飲んで、

「おいしい」

と呟いた。


 隣のエドガーが、喋れるんだ、とまた軽い笑顔を見せた。

 



 気づいたら見たことのある男性の車に乗せられ、自宅の前だった。

 

 降りる直前、色んな意味で名の知れたラファエル・シュヴァリエが、

「辛いことがあったら、二番街のサルヴァティオというお店においで」

と言い、とんでもない騒ぎになっていた実家に手を引いて連れ帰ってくれた。



 阿片を使用したことと、エドガーに体を許したことは、朧げながら記憶にあった。


 後悔はなかった。


 あの時彼がいなかったら、ラファエルにも会えなかったし、サルヴァティオでステファン夫人に繋がりを持つこともできなかったのだから。



 ただ時々、居合わせたラファエルがアレクシアの顔を知らなければ、自分はもしかしたら阿片中毒になって誰かの情婦にでもされていたのかな、と他人事のように考えた。


 実際その後エドガーに聞いたら、まぁそうかもね、と肯定していたので、かなり際どい橋を渡っていたのだろう。



 ステファン夫人とラファエルに出会い、アレクシアは今までの自分の世界がどれだけ狭かったのか実感した。


 彼女たちの周りは華やかで煌びやかで、飛び込んできた無垢なアレクシアを面白がって飾り立てた。



 ステファン夫人の元には、親の支配に悩む令嬢や夫の暴力に怯える夫人など、人には言えない事情を抱えた女性が何人かいた。


 彼女は女性たちに、戦う術ではなく逃れる術を教えていた。




 エドガーは赤みのかかったブロンドに薄茶の瞳の典型的な遊び人で、毛色の変わったアレクシアをそばに置きたがった。 


 彼の友人とも親交を深め、危ない遊びに足を踏み込みかけると、ラファエルがどこからかやってきてエドガーを嗜めた。


 そんな関係にも波風は立たず、彼らは彼らでよくわからない距離感でうまく付き合っていた。



 彼らの刹那的な世界は、アレクシアをとにかく優しく包んだ。


 アレクシアは、この微睡のような時間がずっと続けばいいのにと願った。




 エドガーに連れられて、慣れてきたステファン夫人のサロンに顔を出すと、彼女は魅惑的な珊瑚の唇でにっこりと笑った。



「アレクシアにお客様よ」



 ステファン夫人はブルネットの小柄な美女で、年齢は十歳以上上のはずだが見た目にはまるでわからない。


 アレクシアと同じくらいにも見えたし、母と同じくらい円熟した表情も見せた。




 ホールの奥のカウチに一人所在なく座るヴィクトルと目が合い、アレクシアは一瞬固まった。


 周りの男女は、スーツ姿の明らかにそぐわない男を、遠巻きにしている。

 

「君の恋人かい?」


 愉快そうに覗き込むエドガーを軽くいなし、アレクシアは首を振った。


「前の婚約者よ」


 ヒュウ、とエドガーは口笛を吹く。

「いい男じゃないか」


 その不躾な仕草に咎める視線を向けて、ステファン夫人はアレクシアに振り返った。

 

「何度か手紙をいただいていたのだけど、返事をしそびれていたの。そうしたら我慢ならなくなったのでしょうね。今日は昼から門の前に張り付いて動いてくれなくて」


 苦笑をこぼし、ステファン夫人はヴィクトルの隣に座った。

 対面の席をアレクシアとエドガーに示し、使用人に酒肴を命じる。


 サロンでは二十人ほどの男女が社交を深めているが、ここに集う人々は皆無駄な干渉はしない。


 使用人がアレクシアの飲み慣れたスパークリングを用意し離れていくと、エドガーと三人でグラスを掲げて乾杯した。


 ヴィクトルは顔を上げなかった。


「アレクシアが悪い大人に騙されていないか心配しているのよね」


 笑い含みにステファン夫人が言った。


 その通りだった。


 現れたアレクシアを、ヴィクトルはようやく直視した。




 友人の言葉が蘇る。


 『彼女、驚くほど垢抜けたよな』


 肯定しかなかった。


 アレクシアはもともと清楚な顔立ちで、カレッジの女子学生の中でも目立つ方だった。


 言い換えれば、その程度だった。


 それほど自分を飾ることに興味もなく、侍女の用意した品の良いシンプルな服とイヤリングを身につけ、ダークブロンドの髪は編み込んで後ろでまとめていることが多かった。


 休日に出かけるときは細くゆったり波打つ髪を下ろしてやってきて、普段は着ない可憐なワンピース姿に目を奪われたこともあった。


 彼女の女性らしい姿を、自分だけが知っていたはずだった。


 


 どうしてしまったんだ、と思った。


 会わなくなって半年も経っていない。

 少し頭の硬い、感性の豊かな知的な女性だった。



 それなのに、この退廃的な雰囲気はなんだ。



 ドレスの胸元は大きく開き、鎖骨の上までレースで覆われているが、肌が透けて余計に艶かしい。

 コルセットのないタイトなドレスは昨今流行りだが、彼女の体に沿うようにドレープが流れていて、華奢な腰のラインが容易に想像できる。


 アレクシアの白い肌を際立たせている紅い口元だけが、禁欲的にきつく結ばれていた。



 ヴィクトルは歯噛みした。



 煙るような睫毛の下で、サファイアの瞳が硬質な視線を自分に向けていた。




「俺は外そうか?」


 エドガーが耳元で囁く。

 それを、アレクシアは拒絶した。


「ここにいて」


 距離の近い男女のやり取りに、ヴィクトルは不快を覚えた。




「研究室に行かず、夜会を渡り歩いていると聞いた」


 突然の本題に、夫人とエドガーはアレクシアに視線を向ける。

 彼女は事も無げに答えた。


「そうね」


「デュラス教授も心配している。こんなことはもう止めるんだ」


「あなたには関係ないわ」


 アレクシアのさらりとした拒絶に、ヴィクトルの胸が軋む。


「ご両親やエディット嬢はなんと言っているんだ。頼むから、元の君に戻ってくれよ」


「両親は毎日、部屋の窓から私が飛び降りるんじゃないかと気を揉んでいたわ。ここに来るようになって安心したんじゃないかしら」


 皮肉に、ヴィクトルは傷つく。

 追い詰めたのはあなたなのだと突きつけられて、覚悟のない心が挫けた。



 自分が手を離したせいで、アレクシアはこの泥濘(ぬかるみ)のような世界に堕ちてしまった。




「…当てつけのつもりなのか…」


 夫人とエドガーが軽く眉を顰めたが、ヴィクトルは止まない。


 ずっと思っていた事だった。


「身を持ち崩せば僕が気に病むと知って、こんなことを続けているのか?どうかしている」


 エドガーが何か言おうと口を開いたが、それよりもアレクシアの方が早かった。



「要らないって捨てられた私を、エドガーは求めてくれたわ。夫人は素晴らしい居場所をくれた。それがどれだけ私を救ってくれたか。あなたにだけは非難されたくないわ」


 アレクシアは立ち上がった。


「少し、風に当たってきます」


 歩き去ったアレクシアを、エドガーが追う。



 ヴィクトルは動けなかった。




 アレクシアの言葉は全ての噂の肯定だった。





「あなた、何しにここにきたの?」


 ステファン夫人の邪気のない問いに、ヴィクトルはゆるゆると視線を向ける。


 思慮深い焦茶の瞳がひたりと自分を見つめていた。


「捨てた婚約者の心配の割に、ずいぶん入れ込んでいるわね」


「自分のせいで堕落してしまった恋人ですよ。親身にもなるでしょう」


 ふふ、と夫人は無邪気に笑う。


「人がいいのね。手紙を寄越して、無理だと分かったら自ら足を運んで。それも何度も。手放したんだから放っておけばいいのに。あなたは今の恋人を大事になさいな。アレクシアは大丈夫よ」


 責任のない言葉に苛立ちが募る。

 どこが大丈夫なんだ。


 自分に向き合っている間中、一切の感情を見せなかったアレクシアを思う。


 まるで精巧な人形がしゃべっているようだった。





「エドガー、あなただけ帰ってきたの?」

 

 叱る言葉に、戻ってきたエドガーは肩をすくめた。


 体格のいい男が先ほどの場所にどさりと座る。


「ラファエルが来たので渡しました。奥の部屋を使ったけど、いいかな?」


 ひくり、とヴィクトルの目元が隠せないほど歪む。

 それを敏く見つけて、エドガーは皮肉に笑った。


「落ち込んだときは俺のように強引で激しいタイプの方がいいんだろうけど、最近ラファエルが離したがらないんだよな」


 露骨な言葉に、視界が殴られたように揺れた。


 目の前の男に触れられるアレクシアが脳裏に浮かび、嘔吐にも似た拒絶感が迫り上がってくる。


 咄嗟に手のひらで口元を抑えた。




 紛れもない嫉妬だった。





 アレクシアは、彼らを受け入れているのだ。きっと、何度も。






「…彼女をどうしたいんです」


 低く唸るような声にも、エドガーは動じない。


「どうって?」


「アレクシアを、共有しているんですか。なんて(むご)いんだ」


 握り込んだ拳がヴィクトルの激情を物語っていて、エドガーは笑みを深くする。


「俺たちはいろんな女性たちのもので、女性たちも俺たちのものだよ。アレクシアもね。もともと、愛は自由だ」



 信じられない言葉に声も出ない。


 ここにいたら頭がおかしくなる、とヴィクトルは思った。



「エドガー、アルディ卿を挑発するのはやめて」


 理解するのは無理だ。


 心は冷え切っているのに、怒りで血が沸き立った。





 大切な宝箱の中身を目の前で踏みつけられているような、激しい怒りだった。









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