第7話 別れの朝と初めての選択
朝晩の風に、ほんの少しだけ秋が混じりはじめていた。
トキオーで過ごした数日間は、あまりにも静かで、あまりにもあっけなく、
気がつけば、終わりの手前まで来ていた。
出発前日の夕方。
「ちょっと、外行かへん?」
久美子が、軽い調子で言った。
「……今から?」
「うん。遠くじゃなくていいで。近くで」
二人が歩いたのは、家から少し離れた小さな公園だった。
ブランコが二つ。
錆びた鉄棒。
子どもがいない時間帯の、静かな場所。
「こういうとこ、好きなんよ」
久美子はそう言って、ブランコに腰を下ろした。
ギィ……と、軋む音。
カズヤは隣のブランコに座る。
少しだけ、揺らす。
足が地面を擦る音が、小さく響く。
「なんかさ」
久美子が言う。
「観光地もいいけど、こういう“なんでもない時間”のほうが、残ることあるよね」
「……はい」
カズヤはうなずく。
本当にそうだと思った。
雷門よりも。
夜景よりも。
今、この時間のほうが、なぜか胸に残る。
少しして。
二人は公園を出て、近くのコンビニに入った。
冷蔵ケースの光。
機械の音。
誰もいない深夜の店内。
「アイス、食べる?」
「……食べます」
外のベンチに座る。
コンビニの明かりが、二人を照らす。
「はい」
久美子が、半分溶けたアイスを差し出す。
「一口どうぞ」
「……え」
「いいからいいから」
カズヤは、少し迷ってから、口をつけた。
甘い。
冷たい。
でも、それよりも――
(……近い)
「間接キスとか気にするタイプ?」
久美子が、にやっと笑う。
「……いや……その……」
言葉が詰まる。
久美子は笑った。
「かわいいなあ」
その一言で、なぜか救われる。
“笑われること”が、嫌じゃなかった。
夜風が吹く。
少しだけ冷たい。
「明日か」
久美子がぽつりと言う。
「……はい」
それ以上、言葉が続かない。
カズヤは、言いかけた。
(行かないで)
喉まで出かかった。
でも――
言えなかった。
代わりに出た言葉は、まるで別のものだった。
「……気をつけてください」
「うん」
「……向こうでも、元気で」
「うん」
それで、終わってしまった。
家に戻ると、アイゼンハワードがリビングで紅茶を飲んでいた。
「ほう、夜遊びか」
「……近くまでです」
「そうか」
老人は、二人の顔を見て、少しだけ笑った。
「なあ、カズヤ」
「……はい」
「言いたいことは、言えるときに言っとけ」
カズヤは、答えられなかった。
その夜。
ベッドに入っても、眠れなかった。
頭の中で、何度も繰り返す。
(行かないで)
(もう少し一緒にいてほしい)
(好きだ)
でも、どれも言葉にならなかった。
そして、朝。
トキオー駅のホーム。
東京駅の空は、いつも通り慌ただしい。
東海道新幹線・のぞみ。
ナゴヤー行き。
久美子は、スーツケースを引いて立っていた。
「……じゃあ、またね」
「うん」
「手紙とか書かん人?」
「……LINEでいい?」
「そっか。現代っ子だわ」
少しの沈黙。
でも、それがちょうどよかった。
電車が滑り込んでくる。
風が吹く。
髪が揺れる。
久美子が、振り返る。
「ありがとう、カズヤ。……東京、いい街だった」
その瞬間だった。
カズヤの目から、涙が落ちた。
自分でも、驚くほど自然に。
止めることもできなかった。
久美子は、少し驚いた顔をして、
それから、ゆっくりとうなずいた。
何も言わずに。
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
ガラス越しに見える顔が、遠ざかる。
カズヤは、立ち尽くしたままだった。
涙も、そのまま。
(言えなかったな)
胸の奥で、静かに思う。
でも。
(それでも、いいか)
誰かを好きになって、
誰かのために外に出て、
ここまで来た自分がいる。
それは、確かな“選択”だった。
新幹線が見えなくなる頃。
カズヤは、ゆっくりと歩き出した。
その足取りは、昨日より、少しだけ強かった。




