第10話 鈴はもう鳴らない
翌朝
ミヤザキ・油津の空は、やけに澄んでいた。
昨夜の地獄みたいな騒ぎが嘘みたいに、
潮風は穏やかで、波はいつも通り岸を叩いている。
人間ってのは勝手なもんで、
こういう朝になると、全部なかったことにしたがる。
けどな。
“なかったこと”には、ならねぇんだよ。
商店街の連中は、静かに集まっていた。
誰も大きな声は出さない。
ただ、それぞれのやり方で、ひとりの女を見送っていた。
「……いい人だったよな」
「よう笑う人やった……」
「最後まで、町のこと考えてたんだな……」
誰かが言うと、
誰も否定しない。
それで十分だった。
なつこは、“この町の人間”だった。
それだけでいい。
【理髪 なつこ】
その看板は、もう下ろされていた。
木の扉は閉じられ、
あの軽やかな鈴の音も、聞こえない。
カラン、と鳴ることは、もう二度とない。
アルは、ゆっくりと扉を開けた。
誰もいない店内。
椅子も、鏡も、ハサミも、
全部そのままだ。
まるで、昨日の続きを待っているみたいに。
「……入るぞ」
返事はない。
当たり前だ。
わかってる。
わかってるが
言わずにはいられない。
アルは、あの椅子に腰を下ろした。
ギシ、と音が鳴る。
「……ふむ」
鏡を見る。
そこには、
いつもの自分がいる。
変わらない顔。
変わらない年寄り。
「……髭が伸びたな」
少し間を置いて、
ぽつりと呟く。
「なつこ殿」
静かだ。
静かすぎる。
いつもなら、
後ろからあの声が飛んでくる。
「ほんとですねぇ、アルさん。ちゃんと手入れしないとダメですよ?」
……来ない。
来るわけがない。
アルは、ゆっくりと目を閉じた。
あの夜の温もり。
指先の感触。
刃を当てられた喉の冷たさ。
全部、まだ残っている。
「……まったく」
小さく笑う。
「最後まで、手のかかる女じゃった」
怒ってるわけでも、
責めてるわけでもない。
ただ、
どうしようもなく、優しい声だった。
立ち上がる。
店の奥へ歩く。
そして、天井を見上げる。
魔法の鈴は、もうない。
当然だ。
それは今、
アルの懐にある。
そっと取り出す。
小さな銀の鈴。
何の変哲もない、
ただの飾りみたいなものだ。
「……結婚の鈴、だったか」
鼻で笑う。
「とんだ迷信じゃな」
少し間。
「……いや」
指で軽く触れる。
カラン、と小さく鳴る。
「悪くはなかった」
その音は、
やけに静かな店内に、
やけに優しく響いた。
外に出る。
潮風が吹く。
少しだけ、秋の匂いが混じっている。
商店街は、少しずつ日常を取り戻し始めていた。
焼き鳥の煙。
魚を焼く匂い。
子どもの笑い声。
あの女が守りたかったものだ。
「……見事じゃよ」
誰にともなく呟く。
「ちゃんと、残っとる」
空を見上げる。
青い。
やけに、青い。
「……ミヤザキの風は、やさしくも、残酷だな」
ポケットの中で、鈴が小さく触れる。
「だが確かに――」
少しだけ、目を細める。
「この音は、人の心を揺らす」
歩き出す。
振り返らない。
それが、この男の流儀だ。
港を抜ける。
あの場所を、ちらりとだけ見る。
並んで魚を食った場所。
笑ってた場所。
――普通の、幸せがあった場所。
「……また来るか?」
自分で言って、
自分で首を振る。
「いや、来んでいい」
少し笑う。
「来たら、未練になる」
そういうもんだ。
旅は続く。
出会って、笑って、
少しだけ心を預けて、
そして去る。
それでいい。
それがいい。
「終わらん恋、か……」
ぽつり。
「そんなもんはな」
空を見ながら、言う。
「記憶の中にだけ、あればいい」
風が吹く。
カラン――
どこからか、魔法の鈴の音がした気がした。
気のせいだ。
きっとな
だが、それでいい。
魔界のおっさん、471歳。
またひとつ、終わらない恋を、抱えて歩き出す。
『アイゼンハワードの魔族のおっさんはつらいよ5
~ミヤザキの風と理髪店の鈴~』
【完】




