第77話 黄金と約束
ほた……とエミリエンヌの手に、あたたかなしずくが落ちる。
「ごめんね……、置いて、いこうとして……っ」
朝焼け色の瞳から、ぽたぽたと涙がこぼれていた。
「恩知らずで、ごめんね……! あんなに手を、掴んでくれてたのに……っ、あんなに毎日、愛してくれていたのに……っ」
「……!」
鏡の中の少女は、しばらく小刻みに震えながら耐えていたが、やがてこらえきれなくなり、「ひくっ」としゃくり上げた。
『……ッう、うわあああん! あああああん! このっ、バカあああ!』
「……っ」
エミリエンヌは、手鏡ごと小さな身体を抱きしめた。
実の娘は鏡に魂がとらわれて、末の娘とは血の繋がりがない。
いびつな形をした集まりだったが、気がつけばいつの間にか、強固な絆の脈打つ、家族となっていた。
――残念ながら事務処理に追われるフレデリクは、仲間外れである。
「では、身体に気をつけて、……くれっっぐれも! 無茶をしないのよ!」
「はい、お母さま!」
エミリエンヌは、セレスティーネの入った鏡を手に抱いて、アリアに何度も言い聞かせた。
――昨夜。
アリアを抱きかかえたままさっさと連れ去ろうとしたニュクスから、なんとか引き出した譲歩が、目覚めるまで待つことと、この別れの時間である。
『あなた方のもとにこの子を置いていたのは、プランケットともあれば、人間の魔の手からこの子を守れると思ったゆえ。だが――すでに何度、この子は傷つけられた? 何度あなた方は、この子を貶めようとする敵に出し抜かれた? とんだ期待外れ……そう言う他ありません。人狩りのドブネズミどもが入りこむような家に預けておく理由を、逆に教えてもらいたいものです』
容赦のない皮肉に返す言葉を、フレデリクだけでなく、エミリエンヌも持たなかった。
――この別れが済んでしまったら、次にいつ会えるのかわからない。
運命の導く標によっては、もう二度と、会えないかもしれない。
「大丈夫よ、お母さま、お姉ちゃん! もうあんなことがないように、ゴッリゴリのムッキムキに鍛えてもらうから!」
「……! どうか、わたくしのお人形のままでいて……! 華奢で可憐なまま、強くなってちょうだい!」
「善処するわね!」
アリアのほうは、さみしいことなど何一つないようにピカピカとした笑顔を浮かべているのが、余計にさみしさを募らせる。
「あ、ちょこちょこ帰ってもいいかしら」
「『!?』」
「みんなの顔も見たいし……年末にはお姉ちゃん、年明けにはお母さまのお誕生日があるでしょ? そのあとにはサラのお誕生日もあるし、春にはミシェルとメラニーのもあるし。アンナはそろそろ婚約しそうなんだって! でも誰とかしら……? ヘルマンニおじいちゃんには二人目のお孫さんが生まれたらしいんだけど、バタバタしててまだお祝いできてないの。おめでたいことがたくさんあって、やることが目白押しなのよ!」
「……」
『……』
満面の笑みを向けられて、エミリエンヌとセレスティーネは、思わず気の毒なものでも見るように、かたわらに控える少年のほうを見た。
ニュクスは、頭痛をこらえるように額をおさえながら、「……すぐには無理ですが、時期が来れば」と、明らかにため息をこらえている声で答えた。
「夫人。この子がこう言っていることですし、例の件は早急に手配してください」
「……わかっていてよ」
秘匿された隠れ家に連れていくこと。
目覚めるまで待つのを許すこと。
その代わり魔法使いからは、星宿りの入っているセレスティーネの身柄に対して、きちんと落とし前をつけることを確約させられていた。
アリアは、そこに眩しいものがあるかのように目を細めて、母の手を取り、姉の鏡を握った。
彼女には当然、わかっていた。
エミリエンヌとセレスティーネが、何に心を痛めてくれているのか。
半年前、フレデリクに連れられて門扉をくぐった時には想像もできなかった、――あれほど乞い願った眩しい黄金が、自分と血の繋がらない家族の間に、たしかに根を張っているのだということを。
「大丈夫、安心して。――わたし、欲深いの。自分が手に入れたもの、ひとつも返す気はないのよ。プランケットはわたしのおうち。必ず帰ってくる。だから、さよならじゃなくて……いってきますが正しいわね!」
エメラルドグリーンの瞳から、とうとうこらえきれない涙がこぼれおちた。
「ほんとにあなたは、よく口の回ること……!」
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エミリエンヌたちを見送り、アリアとニュクスはサフランイエローの扉の家へ続く森の小道を歩いていた。
空は秋の夕暮れ。
二人の少年少女が並んだ影が、長く長く、行く先に伸びている。
「アリア。ぼくとの約束を覚えていますか。……取るに足らない、物語を聞かせると」
「もちろん! 楽しみに待ってるんですよ」
「いや、楽しみにするようなことではないのですが……」
無邪気にハードルを上げられて、ニュクスはやや頭を抱えた。
――指の間から、隣を歩く少女が元気に振っている腕を見る。
簡単に折れてしまえるだろう、細い腕。
(きみはいまだって、九つの子どもだというのに)
ニュクスはここに至っても、諦めたくはなかった。
だってこの子を楽園へ逃がすということだけが、彼の人生で唯一、輝く望みなのだから。
「きみはまだ、知らない。かつてイリオンがどのように敗れたのか。敵がどれほど悪辣で、――手段を問わぬ、怪物なのか。……それを聞いてから道を決めても、遅くはないでしょう?」
お読みいただきありがとうございます!
プランケット家とはここでお別れの予定でしたが、主人公の性格がこの結論を出しました。
アリアは、ディズニープリンセスに転生した田中角栄、またはバーフバリをイメージしています(とんでもねえ)
フレデリク以外にも忘れられている人がいますね…
運がないやつなので実際に作中人物に忘れられていますが、ちゃんと登場するのでご安心ください!
次の話からはニュクス視点での過去話となりますので、こいつがメインとなります。
女主人公タグですのに詐欺みたいなことをして申し訳ありません。
そう長くはかかりません(予定では)
二章に入る前に主導権はアリアに戻ります。お楽しみいただけますと幸いです!
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