第76話 烙印
ざわざわざわ……
やかましい葉擦れの音に、アリアは顔をしかめた。
(うるさい……)
目をごしごしとこすり、ぼんやりと開ける。
「……! あああっ……!」
こちらを見下ろすのは、たくさんの目。
「あ、あ、目……!? 目が開いてる!?」
「起きた、起きた! ニュクスさま、アリアが起きたよ!」
「アリア! アリア! わたくしがわかる!? お母さまよ!」
『お姉ちゃんはここよ……ッ!』
「……」
見覚えのない天井、触れた記憶のない寝具の手触り。
「……あはっ……」
だが馴染みのある顔、嗅ぎ慣れた匂い、聞き慣れた声を吸い込んで、――アリアは太陽のようなピカピカの笑顔を浮かべた。
「ラッキーなことに、命拾いしたみたいね!」
ここは地の露、ティルマティム。
ネメシス・ピュティアとニュクス・ピュティアの隠れ家である。
アリアの寝床を囲むのは、エミリエンヌとその娘セレスティーネ、それからイリオンの四人の子らとティルダ、――後処理に駆け回っているフレデリクと皇宮に連れ戻されたテセウスをのぞく全員である。
さて。
解呪品を納品に行くときも、調合した薬品を卸すときも、少し離れた森の外で転移魔法陣を使うという念の入れっぷりで秘匿していた隠れ家に、なぜ大勢の人間が集まっているのか。
それはエミリエンヌが、扇の平手打ちをぶちかました結果、――いや、交渉したためであった。
「さ。出て行ってください」
「なッ!?」
幾分、疲れた表情のニュクスが扉を開けると、ハンカチを手に涙ぐんでいたエミリエンヌがギャンッと噛みついた。
「一瞬じゃないの! いくら顔を見たら帰るって約束したからって、この人非人!」
「いや、怪我の治療をするので……。終わったら呼びますから、いったん外で待機してください」
「しっかり治して、ちゃんと呼ぶのよ!? いいこと!? わかったわね、ウィペル!」
「……」
いつもなら二重三重に皮肉を言い返す口は、ため息をこらえたまま死んだ魚みたいな目で、黙って外を指さすだけである。
幼いころより、年長の横暴な女子に振り回されてきた彼は、エミリエンヌにも強く出ることができないのだった。
ちなみに、エミリエンヌが男の名前を呼ぶというのは、彼女なりに認めたという証の現れではあるのだが、素直ではないこの貴婦人がそのことを教えることはないし、感情の機微にめっきり疎い朴念仁である魔法使いが、気付くこともない。
有象無象を追い出した部屋。
ニュクスはアリアの手を取ると、さっそく癒しの歌をうたった。
変形した指があるべき形に戻り、熱傷で変色した皮膚が、深く刻まれた裂傷が、新たな皮膚に覆われていく。
(……すごいわね……)
癒しの歌も、極歌の一つである。
莫大な魔力を費やすゆえ、大抵は歌い切ることすらできないが、それでも踏ん張って身に余る権能を振るったとしたら、昨夜のアリアのように術者自身が権能の炎に灼き尽くされ、命を対価として奪われてしまう。
ニュクスがこともなげに操る癒やしの歌が、その肌に炎のゆらめきを見せることすらなく従順に従っているのを見て、――アリアは胸中で(うんうん)と頷いた。
(やっぱり、先輩はなんでもできるのね! さすがわたしの先輩……! 顔もいい、面倒見もいい、頼もしい、――三拍子揃ってるなんて、世界一に違いないわ!)
「あ。烙印は消さなくていいですよ」
「……」
背中へと及びつつある癒やしを感じて制止したアリアに、ニュクスは表情を曇らせた。
(これだけ深い火傷は……長く、痛むだろうに)
当然、大事な女の子の肌に押された烙印など、跡形もなく消し去りたい。
忌々しい敵を象徴する百合の花。
奴隷を意味する三文字のアルファベット。
いまだ血の滲む熱傷。
だが新しい皮膚に入れ替えたとしても、もう前のように、――何も知らなかったころのようには戻せないのだと、ニュクスも悟っていた。
記憶を消すことは、当然可能だ。
だが烙印すら残せと命じる誇り高い少女が、そのような怯懦を望むわけがない。
「……せめて、痛みだけは消しておきます」
「ダメです。残しておいてください」
「……」
「ふふっ、そんなしょんぼりした顔しないで」
黙り込んでしまったニュクスを振り向いて、アリアは笑った。
「こんなの、なんてことないんですよ。……だって、わたしの敵は、苦痛の果ての果てまで、味わい尽くして死んだわ。できそこないの動物に変えられて、かっこいいヒーローにボコボコにされて、奈落へ送る火柱で、骨まで残さず灰になったもの!」
可憐な唇が楽しげに語る言葉は物騒で、朝焼け色の瞳には、獰猛な黄金の炎が揺らめいている。
「かわいそうなんて思いません。当然の報いだわ。――そして、まだ足りないの。だって、まだ息をしてるもの。だからこの奴隷の烙印が、何度だって思い出させてくれなくちゃ。わたしの敵が、一匹残らず灰にしないといけない獣だってことを」
その眼差しの苛烈なひたむきさを見て、ニュクスはきつく目を閉じた。
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「お母さまっ、お姉ちゃん!」
パタパタパタ……と駆けてきた小さな足音。
エミリエンヌの目に涙の膜が張り、それを見せまいと覆いかぶさるように養女を抱きしめた。
「このッ馬鹿娘! どれだけ心配したことか!」
『そうよ! 無茶なことばっかり、痩せ我慢ばっかりして!』
気の強い養母と義理の姉それぞれの怒鳴り声が、聞こえすぎる耳にグサグサと刺さってきて、アリアは従順にうなずきながらも耳を抑えた。
「セレスから聞いたわよ、命を捨てようとしたって! もう二度とそんなことをするのはおやめ! よいわね!」
『いいわね!?』
「……」
果たせないかもしれない約束は、しない主義である。
とたんに頷くのをやめたアリアを見て、二つのツリ目がさらにつり上がった。
「! むぎゅっ」
エミリエンヌがアリアの頬を両手で挟み込んだ。
「『わかったって言えーーー!』」
母と姉の叱りつける声が重なり合う。
そのあまりの勢いに、森のコウモリたちが驚いて飛び立っていった。
常人離れした聴覚を持つアリアは、キ―――――ンと鼓膜がしびれるのを感じていた。
「……ぷっ、あはははは! もう、耳がどうにかなっちゃうわ!」
「笑いごとじゃなくてよ! 真面目に聞きなさい! あなたにもう会えないかもしれないと思って、わたくしがどれだけ、……どれだけ、死にそうになったことか……ッ!」
『そうよ! お姉ちゃんの言うことも聞かないで、ひとりで突っ走って! ……と、とんでもない遠いところまで、一人で、行こうとした……ッ』
「そうね。……助けてもらって命拾いしたから、やっと……謝れる」
――笑っていたはずの声音の、その末尾のほうが妙にうわずっていることに、二人は気が付いた。




