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旋律のアリアドネ-底辺ヒロインは王冠に手を伸ばす-  作者: 長谷川愛実(杉山めぐみ)
― 2章 8000回目の朝に目覚めよ ―
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第186話 マイフェアレディ

 澄み切った空気を吸い込めば、シダーウッドの清々しい香りが鼻腔を満たす。


 針葉樹に降りかかった淡雪、枝の先から垂れ下がる氷結……木々がキラキラと日差しを反射するさまは、まるで繊細なレース編みがふわりと森に掛けられたかのよう。


 雪原を取り囲むように立ち並んだ山領のうえには見果てぬ蒼穹が広がり、磨いたような青さが白銀に滲む。


 目にするだけで心が洗われるような、うららかな冬の朝である。


 ……ここが迷宮で、こちらが半袖の夏服でさえなければ。


「ざっ……! ざざざざむい゛よおおおお!」


 ガチガチと歯を鳴らしながら、フランシスは兄の腕にしがみついた。


 普段であればみっともない真似はやめろとたしなめるところだが、今に限ってはオーギュストにとってもありがたい。


 剥き出しの腕を全力でさすりながら、「ななななんでお前も飲み込まれてるんだ?」と、同じく歯の根の合わない問いかけをした。


「バッ……! バカにしないでよ兄さん!」


 ビスクドールのような少年は、キリッ! と兄を睨みつけた。


「ああ言われて、ぼくだけ逃げるわけにはいかないでしょ!」


「フラン……」


 ……本当は夜の森をひとりで戻ることなどできず、半泣きで立ちすくんでいるうちに触手に連れていかれたということは、秘密である。


「あの……クリステルさまは大丈夫ですか? お嫌でなければ、左腕をお貸しできますが」


 オーギュストはためらいながらも、前を行く少女に声をかけた。


 夏物のワンピース一枚に素足のパンプスという、雪中行軍には絶望的すぎる装束で、少女はズンズンと歩を進めていた。


 まるで何かに追われているような後ろ姿に、どこに向かっているのか尋ねる隙もない。


 チラリと振り向いたクリステルは、互いで暖を取る兄弟を見て羨ましそうな色を浮かべたものの、「け、結構です!」とたちまち顔をそむけた。


「淑女は殿方にくっついたりしないものです!」


「そうですか。ところで、どこに行こうと?」


「……」


 返答はない。


 思いつめた横顔だけを残し、再び少女は歩き出した。


 どこまでも続く森の中。雪に覆われていない幹の漆黒がいっそ鮮やかな、蒼天と白銀の世界。


「やだやだ。感じ悪」


 顔をしかめたフランシスは、ぐるりと周囲を見渡した。


「ていうか出口どこなの?  ……あるんだよね? ぼくら、出られるよね?」


 平静を装いつつも、隠しきれない不安を滲ませた懐疑。


「……」


 頷いてやれる根拠を持たないオーギュストもまた、沈黙を返すほかなかった。


 ガサリ!


 不意に茂みが揺れる。


「!」


 三人そろって息を飲み、なりたてほやほやの騎士はサーベルの柄に手を掛けた。


「……まあ!」


 蒼白になっていた少女の頬に、わずかな赤みが差した。


 茂みから覗いていたのはころんと丸い、真っ白な獣であった。


 ピンと立った大きな耳から仔ギツネかとも思われたが、よく見たらふわふわの尻尾は三又に分かれており、脚は六本。


「キュウン……」


 頭のうえにこんもりと雪を乗せ、ナナカマドの実のようにつぶらな赤い瞳を開いた小さな獣は、興味津々といった様子で子どもたちを見つめていた。


「なんて可愛いのでしょう!」


「うえっ!? どこどこどこ!?」


 フランシスも飛びつき、オーギュストも強張った顔をわずかに和らげた。


「うわ、ちっさあ……! おいで、おいで!」


「こっちよこっち!」


 少年少女たちは寒さも忘れ、夢中になって手招きをした。


 彼らの出身は西南部の辺境、緑豊かなグウェナエル領。


 しかし温室育ちゆえ、領都から出たことは数えるほどしかなく、アウトドアの経験も整備された低山での釣りやピクニックがせいぜい。


 知識だけは備えていたものの、目の前の状況と結びつけるには圧倒的に経験が不足していた。


 すなわち──幼獣あるところには親もまた、近くにいるのだということ。


 そして魔獣とはすべて、人を喰らうのだということを。


 パキ……と枝が落ちる。


 気づいたオーギュストが顔を上げた時、にわかに雲が増して晴天が陰った。


 いや、陽を遮ったのは雲ではなかった。


 樹上から見下ろす真紅の眼は、八つ。


 六本の長大な脚を樹と樹の間に掛けたそれは、獣とも昆虫とも蜘蛛とも言い難い異形。


 幼獣と同じ純白の毛皮が日を照り返す様は優美ですらあったが、こちらを食物として認識している爛々とした眼の輝きが、話の通じる相手ではないことを教えていた。


 ふるふると頭を振って雪を落とした仔ギツネが顔を上げると、毛皮の下に隠れていた残り六つの眼がパチリと開く。


 愛くるしい顔が一転、禍々しい捕食者の形相となった。


「……っ下がれふたりとも!」


 オーギュストはすぐさま腰のサーベルを引き抜いた。


 その動作は流れるように素早かったが、魔獣が前脚を払う速度はそのさらに上を行った。


 ──ギイン!


 いともたやすく弾き飛ばされた剣が宙を舞い、木々のあいだに消える。


 獣が真っ赤な口を開けば、なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらい、濃厚な血の臭いが降りてきた。


 幾人もの命を屠ったに間違いない、むせ返るほどの死の臭い。


「……走れええ!」


 形勢を悟ったオーギュストは、身を翻しざま弟と令嬢の手を掴んで駆けだした。


(ど、どうすればいい!? どうすればいいんだ!?)


 とはいえ、叫んだ彼自身が理解していた。


 鬱蒼と茂る夏の森を不死鳥から逃げた、懐かしいあの夜とは違う。


 ここは比べ物にならないほど広大な森で、葉の落ちた木々の隙間に身を隠せる場所もなく、敵は縦横無尽の六本脚で、何より、逃げ込むべき屋敷も助けに来てくれる大人たちもいないのだ。


 全員生き延びることは、不可能。


(考えろ! 考えろ考えろ考えろ!)


 崩れ落ちたいほどの恐怖をこらえ、オーギュストは必死で自分を奮い立たせた。


(教えてください、アリアさま……! 武器を持たないあなたがどうして、敵に立ち向かえたのか!)


 左右に握った手のどちらも、手放すことはありえない。


 だが万に一つの勝算もない状況で、諦めずに戦う術を教えてくれる少女はここにいないのだ。


 令嬢のパンプスはもとより、少年たちの革靴も、雪上での全力疾走に耐えるようにはできていなかった。


「あっ!」


 まずクリステルが足を滑らせて転び、ついでフランシスもつんのめる。


「……うっ、うう……!」


 雪に顔から突っ込みながら、少女の空色の瞳にじわっと涙が盛り上がった。


(こ、こんなことになるなんて……!)


 母の著作を読んで育ったクリステルは知っていた。


 迷宮の内側から脱出することが、いかに困難を極めるか。


 一度閉ざされた口は風景に擬態し、飲み込んだ獲物が逃げ出すのを阻止する。


 雪に接触し、燃えるように痛む足を叱咤して歩き続けたのは、この第一階層のどこかにある出口を探すためだった。


 だがどれほど目を凝らそうと、見渡す限り広がるのは非現実的に美しい雪景色ばかりで、本で読んだ通り、外界に繋がる穴など影も形も見いだせない。


 移動する小さなポートを広大な幻から探り当てるのはまさに、海中に落ちたガラス片を得ようとするがごとき難行。


 只人が生還できるケースがあるとしたら、それは軍事作戦級の兵力を擁しているか、一騎当千の英傑が共に降下する幸運に恵まれた時だけである。


 ──自分たちはもう、帰れない。


(わたくしのせいで……!)


 そのことを彼女は、どうしても言い出すことができなかったのだった。


「ふたりとも、早く手を!」


 兄の手を掴んで立ち上がったフランシスの横で、「……行ってください」と小さな声がした。


「わ、わたくしなら心配いりません」


 肩で息をしながら、クリステルは雪にぺたりと座り込んでいた。


「実は……父がくれた魔道具がありますの。お父さまの発明品さえあればあんな魔獣ごとき、敵ではありません。でもそれには……あ、あなた方は邪魔なんです」


 青ざめた唇をキュッと噛み締めて、迷いを振り切るように少女は少年たちを睨みつけた。


「ですから足手まといのおふたりは、さっさとどこかに行ってくださいまし!」


 泣くのをこらえた顔に書いてあるのは、嘘をついていますという正直な白状。


「は……はあ!?」


「バカげたことを言うな!」


 フランシスは絶句し、オーギュストはカッと怒鳴りつけた。


「この上さらに無謀を重ねてどうする!」


「仕方ないでしょう‼︎」


 怒鳴り返したついでに、カイヤナイトからぽろりと涙がこぼれ落ちた。


「だって……だってこれが、たったひとつの解決策なんだもの! だれかひとりが食べられている隙にほかのふたりが逃げ切って、なんとか出口を探す……! わたくしだって、死にたくなんかない! ほかに方法があるのなら、教えてくださいまし!」


 ガサガサと木々が揺れ、雪が落ちていく。


 樹上を渡る捕食者は悠々と近づいてきている。


 飛び掛れば今にも息の根を止められるのにそうしないのは、三匹とも疲れ果てて動けなくなったところを狙っているから。


「……フラン。レディーを連れていけ」


 オーギュストは腕をまくって背を向けた。


「クリステルさま、あなたは誇り高い人だ。ですが……おれのプライドもあなたのそれと同じくらい、バカげた高さをしてるんですよ」


 後ろ頭で語りながら、利き手を硬く握りしめる。


 剣を奪われた今、使えるのは自分のこぶしだけ。


「に、兄さん?」


「ぼさっとするな!」


 凍り付いたフランシスの背を、兄の叱咤が強く叩いた。


「お前がレディーを守るんだ! 早く行け!」


「……!?」


 フランシスは額を押さえてよろめいた。


(う、嘘だこんなの。悪い夢だ……!)


 叱られた内容は、大切なあの夜とまるきり同じ。


 だがあの時と違い、背を向けたら最後、もう二度と生きて会うことはできない。


「ふ、ふざけないでよ……! カッコつけも大概にしてよ‼︎」


「やめて! お願いだからやめてください、オーギュストさま!」


 必死に制止するふたりを背に、オーギュストは迫りくる捕食者をひたすら見据えていた。


 弟も令嬢も逃げる素振りがないが、気にしても仕方がない。


(目の前で引き裂かれるおれを見れば、きっと彼らも諦めて走り出すだろう)


 正直言えば、素直に泣き叫びたかった。だれかがこの場所を代わってくれるというのなら、騎士の矜持も何もなく、脱兎の勢いで逃げ出していた。


(だが仕方ない。……おれは兄だからな)


 少年は息を細く長く吐いて、震える身体を宥めた。


 苦痛と恐怖で泣きわめく兄の死にざまは、きっと立ち直りようもないほどに弟の魂を傷つける。


 だからオーギュストは、痛みも恐れも感じない英雄のように潔く、堂々と死ななくてはならない。


 それが無謀な探検隊をノコノコ発足させてしまった最年長の、最初で最後の大仕事だった。


「お前の兄であることを誇りに思うよ、フラン」


「……!」


 横顔で告げられた別れの言葉に、零れ落ちそうな瞳が絶望に染まった。


 捕食者はすでに、いつでもオーギュストの命を刈り取れる距離に接近していた。


 血の臭いが鼻腔に触れる。


(お許しを、父上母上……!)


 仰ぎ見るほど巨大な獣を前に、少年は両の手を合わせる代わりに、硬くこぶしを握った。


 家族として分かり合えるようになるまで、あまりにも長い年月を要した。だが脳裏を駆けていく思い出は、辛かった日々すら慕わしい黄金色に染まっていた。


 掛け違えを正してくれたのは、夏の短夜。


 贈ってくれたのは、朝焼け色の小さなレディー。


 かけがえのない大切な家族と彼女を思えば、耐え抜ける。きっと、最期まで。


(アリアさま、どうか! 死をも恐れぬあなたの勇気を一欠片、おれにください!)


「ギュスト!」


 その声は、凍てつく大気を切り裂いた。


 後ろから迫る風切音に振り向けば、こちらに投げられた銀色の閃光が視界に入る。


 思わず伸ばした手が受け取ったのは、大剣。


 あの少女と同じクレイモアだと気づくと同時に、少年は鍛えぬいた反射神経を以て魔獣の脚を防いだ。


「くっ……!」


 敵の攻撃はもちろん、両手持ちの大剣自体、自分の手には余る。


「そのままこらえて」


 命令は尊大で、容赦がなかった。


放て(バロー)!」


 視界外から飛んできた網が、六本脚を絡め取る。


稲妻(ケラウノス)! 稲妻(ケラウノス)! 稲妻(ケラウノス)!」


 もがく獣に弾丸が立て続けに撃ち込まれ、口から血泡が噴き出した。横倒しに昏倒して雪煙が上がる。


 振り向いて仰ぎ見れば、かつて目にしたこともない奇妙な乗り物が中空に浮いていた。


 白い台座の上にぐるりと手すりが伸びた形は、立位式のソリに近い。


 台座の下にはプラムを逆さにしたような動力部が備え付けられ、淡い青色に光る丸い通気口がかすかな駆動音を立てながら大気を吸い込んでいる。


(ゆ、夢か……?)


 現実感のない光景に、三人はぽかんと口を開けた。


 奇妙な乗り物の上、磨いた青空を背に日を遮るのは、プラチナブロンドをなびかせた小さな影。


 大きなゴーグルを装着している顔は半分以上が隠れ、強い逆光を受けて影に浸った表情はわからない。


「キュウン……!」


 親を倒された幼獣は、背を向けて逃げ出した。


稲妻(ケラウノス)


「「「あ」」」


 躊躇なく幼獣を仕留めた一撃に、つい声が出た。


「まーったく。だれのお友だちを泣かしてくれてるのかしら?」


 構えた施条銃の銃口から白煙が立ち上る。


 獲物をすべて仕留めた狩人はジャキン! と撃鉄を戻し、大きなゴーグルを外した。


 現れた顔を見上げて、それぞれの碧眼にどうしようもなく涙が滲む。


「ちょっとくらいモフモフしてるからって、わたしは甘くないわよ!」


 不敗、不滅、不退転。


 白銀の地獄にあってなお、いつもどおりに快活な朝焼け色の少女は、まるでおとぎ話の英雄のように勇敢で、おとぎ話の姫君のように可憐だった。


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