誰かが悪いのか、誰も悪くないのか⑧
「レティシアじゃないか。どうしたの、こんなところで」
すっかり聞き慣れた艶のある甘い声に呼ばれ、心臓が早鐘を打ち始める。ライゼルのことを考えていたから、余計に動揺した。
「久しぶりだね。……なんだか、具合が悪そうだけれど」
エメラルドグリーンの瞳が、心配そうに彼女を見下ろしている。第三者から見れば不自然ではないだろうが、目に見えているものが如何に歪んでいるかをレティシアは思い知った。
「あ……少し、気分が優れなくて」
「まったく、こんな状態のレディを置いて、君の婚約者殿はどこに行っているんだ?」
「父を呼びに行ってくださっています」
ライゼルを庇うための言葉は、思いのほか強い口調になった。レティシア自身それに驚き、クラトはすっと目を眇めた。
「ああ、そうだ。こんな時に言うのもどうかとは思うけれど、お祝いを伝えていなかったね。
婚約おめでとう、レティシア」
わざとらしい祝辞に、レティシアの肩が微かに跳ねる。誰が見ても完璧な微笑の中に、怒りや憎しみといった負の感情がないか恐る恐る探ったが、宝石のような美しい瞳にはそうした感情が隠れているようには見えず、当たり障りのないお礼の言葉を口にした。
「ありがとうございます」
彼女が目を伏せた途端、クラトの表情からは瞳と同じように一切の感情が抜け落ちたが、レティシアに再び声をかけるときには元通りの微笑みを張り付かせていた。
「それはそうと、具合が悪い君をこんなところに一人でいさせるのは心配だな。僕が休憩室まで付き添おう」
「え……?い、いいえ、ここで父を待つように言われていますので」
「……そう?でも大丈夫、心配いらないよ。――ああ、そこの君」
クラトが声をかけたのは、先ほどライゼルがレティシアの様子を見るように頼んでいた給仕だった。彼は――おそらくライゼルにそう頼まれたのだろう――付かず離れずの距離で仕事をしつつレティシアの様子を気にしてくれていたようだ。クラトに声をかけられるとすぐにこちらへ歩み寄る。
「カークランド伯かディラム伯こちらにいらしたら、レティシアは僕が休憩室に連れて行ったと伝えてくれるかな」
「かしこまりました」
「クラト様……」
「これで安心だろう?二人のどちらかがすぐに追ってくる。おいで」
ライゼルの手を拒んだくせに、クラトの手を取ることは間違っている。
一方で、周囲から好奇の視線が過剰に気になった。
これまでクラトとレティシアはお互い以外にエスコート役を務めたことがないほどべったりだった。クラトにいくら婚約者がいると言っても、これだけ親密に振る舞えば、当然のように二人は恋人と目されていた。
それがここにきていきなりレティシアの婚約が決まり、そのお披露目ともいえるこの夜会に招待されていないクラトが参加し、今まさにライゼルが席を離れた隙を突くかのようにレティシアに話しかけている。このやり取りが衆目を集めないはずがないのである。
レティシアは、別の男性と婚約しておいてクラトと関係を持ってしまったことへの負い目から、それらの視線が二人の秘密を暴くようなものに感じて酷く居心地が悪かった。
ここに留まる時間が長引くほど関係が周囲に悟られるようで恐ろしく、早くこの場から立ち去りたいと願っていたところへ、クラトの申し出はさながら悪魔の囁きだった。
クラトがこうしてライゼル達へはっきりと伝言を残したことも彼女を後押しした。クラトが本当に彼女の体調を心配してくれているからこその言動だろうと、レティシアは都合よく解釈したのだ。
彼女はここで耐えるべきだったのだろう。少なくとも周囲の視線があればクラトは表立って何かすることは難しい。
そのうちにライゼルが父が伴って現れ、表向き何事もなく挨拶をかわし、レティシアの体調不良を理由に会場を退出する。それで済む話だ。
だが、レティシアはまた易きに流された。
彼女の流されやすさとは、自分自身を甘やかした結果なのだ。クラトが彼女に見せないようにしているものには気付かないように。深いところを覗き込もうとしなければ、彼からの溺愛に浸っていられる。
それは一種の自己防衛だったのかもしれないが、いずれにせよ彼女には自分が逃げているという自覚がなかった。
クラトは会場から出るまで、声をかけられた人々へレティシアの具合が悪いため休憩室に連れて行くことを話し、カークランド伯を見かけたらそう伝えてくれるようにと繰り返した。
会場を出るまでにライゼルか父とすれ違うかと思ったが、不思議と姿が見えない。
そのまま会場から出て人目がなくなったところで、クラトはレティシアの体調を気遣って横抱きにした。一応抵抗はしたのものの、「会場では人目を気にすると思ったから体を支えるくらいしかできなかっただけだよ。体調が悪いのだから無理はしないで頼って」という思いやり深い声に押し切られてしまった。
二人で休憩室に入り、カーテンがクラトの手で隙間なく閉められた時にも、レティシアに危機感はなかった。
この時点で、すでに使用人すら周囲にいない状態だったというのに。
彼女が不味い状況に置かれていることにようやく気が付いたのは、クラトがソファにレティシアを抱いたまま腰かけ、膝に乗せた彼女に徐に口付けた時だった。
驚いたレティシアは彼の胸を押して離れようとしたが、そんなことはもちろんお見通しのクラトにあっさり両腕をまとめて捉えられる。体が反転させられ、彼女はあっという間にソファに押し倒された。
「君は隙だらけだね、レティ。僕たち、あんなことした仲なのに……もしかして、もう忘れてしまった?」
そう言って下唇を舐めて見せる彼の滴るような色気に当てられ、レティシアは思わず赤面する。しかし、すぐにそんな場合ではないと、体を起こそうとした。
「クラト様、こんな……こんなところ、誰かに見られたら……」
彼の目的が分からず、レティシアは混乱した。
反射的に出入り口に目を走らせる。鍵のかかるような扉ではなく、カーテンで仕切られているだけ。声を上げればすぐに誰かがとんでくるだろう。だからこその安心材料であったはずなのに、体勢一つでそれは逆転してしまった。
レティシアに覆いかぶさって抵抗を封じたクラトは、彼女の婚約を祝ったときと全く同じ笑みを浮かべる。やはりその瞳はどこか無機的で、レティシアは遅まきながらそこに彼の憎しみに似た激しくも冷たい怒りを見た。
「ねえ、レティシア。カークランド伯は僕らの関係を知らないみたいだね」
レティシアの表情が凍り付いた。その間に、クラトは片手で器用に彼女のドレスの背ボタンを外していく。咄嗟に体を捩って逃れようとしたが、びくともしない。
「あれだけ念入りに伝言を残していったんだから、あのカーテンを最初に開くのはきっとカークランド伯だろうね?」
首筋に唇を落としながら、弛んだ襟元を際どいところまで摺り下げていく。
これはクラトが、ライゼルに不貞の現場を直接見せつけるための計略なのだと、嫌でも察した。
――本当に、なんだってしてしまうのね、クラト様……。
レティシアは唐突に、クラトの気持ちが――そして自身の気持ちがどこにあるのか、見えなくなった。眦からとめどなく涙が零れる。
「……レティ」
クラトは啜り泣くレティシアを、うっとりと眺めた。エメラルドの瞳に映る、彼女への愛憎……。
レティシアは目を背けた。けれど、そうしたところでクラトは逃してくれない。
「ん……レティ、愛してる……」
頬、喉、鎖骨……。レティシアを追い詰めるように、大袈裟に音を立てて口付けを落としていく。
ライゼルに見せつけることが目的としても、いったいどこまでするのだろう、と疑問に思った瞬間、彼の手がするりとレティシアの膝を撫でた。布越しではない、素肌の。
いつの間に、と思う余裕さえない。勝手知ったる動きで撫で上げてくるクラトの指の感触。ただただこの後に起こることへの想像に凍りつく。
「……お、お願い、やめて……」
何とか絞り出せた懇願だったが、クラトは忍び笑いを返すだけだった。
彼が、この場において彼女の願いを何ひとつ叶える気がないことを悟ると、レティシアの虚ろな目から涙が零れ、ぐったりと体から力が抜ける。どうにもならない。何もかも。
――もう、全部クラト様の好きにしたらいい。
レティシアごときの抵抗が、本気でかかっている彼に敵うわけがないのだ。それは今この場に限ったことではなく、レティシアがいくら悪足掻きをしたところで、それよりもずっと強い流れが彼女の意志を押し流す。
クラトは物理的にも精神的にも彼女を囲い込む檻を完成させつつあった。
レティシアが仮にクラトを嫌い、憎むようになったとしても、逃げようとは思いつきもしなくなるような。
その時、カーテンが音を立てて開いた。
急に射し込んだ光が、暗闇に慣れたレティシアの瞳に、やけに眩しく感じられた。




