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叡智ノインシュタイン(16)

 

 クラクラする頭を、ゴンゴンと叩いて起こそうとするが、一向に霧がかった脳内は晴れることがない。


「こ、これは催眠の類か……。ぐっ……、な、なぜ……! どこで……! 」


 膝をついて、頭を押さえる。

 突然、目の前で寝転んでいたエリーが、カッと目を見開き、より赤く輝かせた瞳でアロイスを睨んだ。


「エ、エリー……? 」


 身体は限界で崩れて落ちて地面に倒れ、エリーは反比例のようにゆっくりと身体を起こした。

「……」

 彼女は沈黙したまま立ち上がると、浴室から飛び出した。そして、傍にあったネックレスを手にした瞬間、その気配が殺意に溢れた魔族のものに変貌する。


( エリー! まさか! )


 そして、掠れていく景色の中で、アロイスは彼女の半身がバキバキを変態するのが見えた。全身を黒く陰が覆って、背から漆黒の翼を生やす。瞳だけが真っ赤に鋭く浮かび、尖った八重歯、その口元から真っ白な息をハァァッ、と吐いた。


(馬鹿な、どう……して……! )


 エリーは此方をチラリと見る。その後、彼女は窓ガラスを割って外に飛び出していった。すぐにでも彼女を追いたかったが、身体が言うことを聞かず、眠りの世界に精神が落ちていく。


(このままでは……。く、くそがぁっ! )


 何とか、最後の力を。最後の力を振り絞り、ゆっくりと立ち上がった。傍にあった髭剃りようのカミソリを手に取ると、「うらぁっ! 」と大声を出し、自らの腹部に突き入れた。


「いっ! いでででぇっ! 」


 滴る血。しかし、そのおかげで意識は催眠から解き放たれた。その辺にあったタオルで傷口を塞ぎ、思い切り締め上げる。床は血塗れになってしまったが、仕方ないことだ。それと、忘れないうちにナナを風邪の引かないようにベッドで寝かせておかねばならない。ナナを抱き上げようと、身体に手を回す。


「……むっ! 」


 それで、気がついた。ナナの首筋に、小さな噛み傷があったのだ。


「ひょっとすると……」


 エリーと出会った日、彼女に自分も腕を噛まれている。あれから数日、妙な気だるさを感じ、買い物一つで体力も続かずに酷く眠い時があった。よもや、これが原因だったのか。


(ヴァンパイアは獲物を弱らせて血を吸うという。これがそうなのか。既に俺やナナは、気づかぬうちに……)


 いや、今は考えている場合じゃない。急いでナナをベッドに寝かせ、布団を何枚か羽織らせた。クローゼットに立って、動きやすいゴム製の黒いズボンと白の半袖シャツを身に着けた。靴には厚底気味の、踏ん張りが効くズックを履く。バックに仕舞っていたナイフを数本持ち出して、柄の穴に紐を通し、ベルトのように腰へ巻きつける。


(エリー、待ってろよ……)


 飛び出した窓ガラスに近づくと、エリーの残した黒の魔力がドロリと残っていた。その窓から外を眺めると、どうやら彼女は翼を用いても飛びきれないのか、手前の屋根上に点々と黒の痕跡が残り、向こう側に続いていた。


(あっちは森だな。今朝方、冒険者たちが話をしていたな。真っ黒な鳥の化物が出るっていうー…… )


 ……真っ黒な、鳥の化物。出会ったら、気絶をさせられてしまう、漆黒の、鳥の、化物。と、いうのは。


「そんなこと……おいおい、シャレになってねえぞ! 」


 割れたガラスを部屋の内側に叩き落として、縁に足をかけると、手前の屋根に飛び移る。時刻は23時。高い屋根から町を見渡せば、巨大な黄色い月が浮かび上がり、古風なレンガの町を淡く照らし映す。遠くには月とノインシュタイン城が澄んだ湖に反射して、逆転の写し絵のように幻想的な景色が堪能できた。


「こんな形で美しい風景を見たくは無かったな。エリー、今行くぞ! 」


 屋根から屋根へ飛び移り、黒の痕跡を追う。彼女は人の多い市街地を避け、森側に向かっているようだった。

 月夜の中、アロイスは全力で彼女を追った。もう、これ以上の犠牲を出さないために。彼女の優しい心を取り戻すために。


 やがて、西の森に近づくにつれて、黒の痕跡はより一層に強くなり始めた。彼女を助けるべく参じた自分だが、それでも相手は高貴たる一族の血を紡ぐ者。下手をして自分がやられ兼ねない状況に、とにかく集中を途切れないようにする。


(……近い)


 黒の気配は、すぐそこにある。いつ飛び掛ってきても対処出来るようナイフの一本を手に取った。

 ところが、次の瞬間。

「うああああっ!! 」

 誰かの叫び声が森に響き渡った。


 しまった。既にエリーは誰かを襲っていたのだ。


「何だと! くそっ! 」


 声の方に向かい、再び走り出す。深い森の木々を搔い潜って、黒の気配を前に、アロイスは、ようやくエリーを発見した。

 彼女は部屋を出た時と同様、全身を漆黒に覆って巨大な黒い翼を生やす。彼女の傍には、今朝、彼女の噂話をしていた冒険者の二人組みが倒れていた。


「エリー……」


 名前を呼ぶ。だが彼女は言葉無く、赤き瞳で此方を見つめた。


「俺が分かるか。エリー……」


 アロイスは訴えるが、エリーは首をコキコキと鳴らして、右腕に魔力を込め始めた。明らかな臨戦態勢に、アロイスも構えをとった。


(……やはり。カントリータウンやノインシュタインの森の巨大な鳥。それはエリー、お前のことだったんだな)


 深夜に現れる漆黒の巨大な鳥。それは、黒の魔力を纏い具現化した翼を生やすエリーのことだった。薄暗い場所で襲われた冒険者たちは、あっという間の事だったろうし、見間違えたのも無理はないだろう。


(俺に噛み付いた日から、夜な夜な俺やナナを眠りに落としてから都度、外に出ていたんだな)


 ノインシュタインに出発する前日頃から、買い物くらいで疲労感を覚えて眠ったことも、恐らく。


「……俺が出し抜かれるなんて思いもしなかったぞエリー。だからこそ油断だったのかもしれないがな」


 畏まった台詞を吐くが、決してアロイスは油断などしていない。常にエリーの動向は注目していたし、眠りも浅くいつでも動けるような態勢を取っていた。だが、それでも、エリーはアロイスを出し抜いた。それが伝説たる魔族の所以、叡智たる実力を持ったノインシュタインの血筋である。


(やはり戦うしかないのか。……しかし、今のエリーに俺が勝てるのか)



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