ブラン・ニコラシカ(2)
「明かり良し、道良し。間違いはない……」
片手には明灯るランプを持ち、巨大なリュックを背負う。魔獣の硬い糸で裁縫された茶色の冒険服に身を包み、腰には水筒と長剣を携えている。
「もうすぐ、もうすぐだ……」
ぶつぶつと独り言を呟くブランは、周囲に気を配りつつ、ゆっくりゆっくりと、魔窟内の荒れ道を進んだ。
「取り敢えず、以前の踏破地点まで。取り敢えず、以前の踏破地点までは……」
実は、ブランはこのダンジョンに何度も足を運んでいた。
そもそも同じダンジョンに時間を掛けて挑むことは決して珍しいことではなく、何度もトライしてアタックをすることで、確実に歩みを進めることはダンジョン攻略における基本術の1つだからだ。だからブランは、前回踏破した地点まで、ダンジョン内の状況を頭に入れていた。
「大丈夫だ。まだまだ……」
一度ならず二度も三度も訪れている道、慣れた道だ。
しかし、だからこそ、ブランは若干の油断をしていた事に気づいていなかった。そう、慣れた道こそ、最も油断してはならないのだ。刻一刻とダンジョンの状況は変化しているのだから。
「ん、何だ? 」
ほんの僅かな緩んだ考えが命取りになる。
慣れた道に危険はないと踏んでいたブランが、
「何か聴こえたような……」
と、気づいた時には既に遅く。洞窟奥の暗闇の中から奴らは群れを成して現れた。
「なっ…! うわぁっ!!?」
現れたのは吸血蝙蝠ヒルバットの群れである。魔窟壕に生息する大型の吸血蝙蝠。体長は普通の蝙蝠の二倍以上、薔薇棘のような牙に噛みつかれればヒルバットが死してなお牙が体内に残り続ける醜悪さ。魔窟壕において最悪の魔獣である。
「ど、どうしてこんな場所に!!前にこんな場所に巣はなかっ……!」
こんな場所にいる訳が無いのに。
いや、もう現れた事実は変わらない。ブランは慌てて腰に携えた剣を構えるも、それより早くヒルバットたちは襲い掛かった。
(……しまった、やられるッ!!)
ブランは覚悟を決める。激痛が襲うだろう、肉を食われるだろう、血が出るだろう。あらゆる恐怖が肉体を支配し、筋肉が強張った。
しかしブランが覚悟を決めた、その時だった。
「……うらぁっ!」
洞窟内に響き渡る、巻き舌込の叫び声。一陣の風がブランの体を包み込んだかと思うと、あれ程いたヒルバットの群れが一気に洞窟奥へと吹っ飛んだ。
「なっ……!? 」
一体何が起きたのか。
驚いたブランが風の吹いた背後に目を向けると、そこには『大剣』を持った男が一人立っていた。
「おーう、今のは危なかったなぁ。大丈夫か、おい」
男は肩に置いた大剣をトントンと鳴らしながら言った。ブランはすぐに男が自分を助けてくれたんだと分って、慌てて頭を下げる。
「ぼ、僕を助けてくれたんですよね。有難うございます、助かりましたっ! 」
「構わんよ。どうせ俺もこの洞窟に用事があったからな……たまたまだが、助けられて良かったよ」
「とんでもないです。本当に助かりました……」
ブランはお礼を言いながら男を見た。
男の身長は180cm前後、黒の短髪。それなりに若く見える顔立ちは、男らしく整っていた。
(なんだ、雰囲気ある人だなぁ。大剣を持ってるし、この人も冒険者なのかな。随分と強そうに見えるけど……て、あれっ)
ブランは彼が冒険者だろうと思っていたのだが、どうやら格好がおかしいことに気づく。
(な、何……冒険者だと思ったけど、違うのかな……)
確かに男は大剣という武器は所持しているものの、その恰好は黒の半袖ワイシャツと鼠色の薄いズボンだけ。あまりにラフ過ぎた。自宅から「ちょっとその辺まで買い物行ってくる」と、そんな軽装であって、かつ、大剣を手にした妙な出で立ちだった。
「え、あの。貴方は冒険者さんです……よね? 」
「ん……。あ、いや。俺はー……」
男は問いに答えようとしたが、その時。
突然、男は「おっ!」、声を上げて、「あったあった!」と、子供のように喜びながら地面に転がった大きめの石を拾い上げた。
「え、どうしました?」
「ヘンドラーに間違いは無かったな。いやー、岩塩が無事に見つかって良かったわ」
「岩塩……岩の塩ですか?」
「そういうこと。この岩塩が中々に美味くてな。ほれ」
男は、手のひらに乗せた岩塩を見せる。
……なるほど、濃いローズピンク色で美しい岩塩が光っている。だけど、こんな場所に岩塩が採れるものなのか。
「こんな地下深くで岩塩が採れるもんなんですね」
「うむ。周辺は元々海だった場所で、地殻変動によってせり上がった場所だから、らしい」
「へぇぇ、知りませんでした」
「それに、ヒルバットが洞窟の壁を突くからツルハシいらずで岩塩が採れ……て、おい、待て。君、ココを見ろ」
ふと男は、ブランの右肘を指差した。
「おい、ここ血ィ出てるぞ。右腕のココ」
「えっ!血って……あっ、本当だ! 」
ブランが自分の右腕を見ると、頑丈な筈の冒険者用衣服が破れ、皮膚に出来た小さな傷から血が滲んでいた。
「あっ……さっきのヒルバットに傷つけられてたんだ」
「多分そうだな。薬は持ってるんだろ?」
「はい、止血剤はあります!」
ブランは背負っていたリュックを下ろして止血剤を取り出すと、さっそく傷跡に薬を塗ろうとしたが、男は「待て待て」と、それを止めた。
「そりゃ普通の止血剤じゃないか。さっきの蝙蝠群は深い階層にいる奴らが飛び出してきたモンだ。色が黒じゃなくて赤紫だっただろ。確か、深層の奴らは麻痺毒を持ってたはず。麻痺用の解毒効果を含んだ止血剤か、解毒薬自体を一緒に塗り込むんだ」
男の説明は的確だった。
……ところが、その説明を聞いたブランは唖然とした。
「や、やっちゃった……」
しまった。あまり深い階層に足を踏み込んだことがないこともあって、解毒剤なんて持ち合わせが無かったのだ。




