苦悩する女神
地上よりはるか上空の彼方にある世界、天界。数多の神々、天使、精霊たちの住まう荘厳な世界。
そんな天界には、地上の人々から寄せられた願い、祈り、感謝、そして苦情を受け付ける窓口が存在する。
もっとも、願いや祈りは各神殿へ届けられ、感謝は担当した神々の功績として記録される。
淡い金髪の髪をまとめ、胸元に天秤の意匠がある白を基調とした端正な装いをした女神テミス、法と掟を司る彼女の執務机に積み上がるのは、もっぱら最後の一つ、
苦情であった。眼を細め、書類をにらみつけるテミス。
「……また増えていますね」
テミスは、机の上に築かれた書類の山を見つめ大きくため息をついた。
無造作に書類の一枚を手に取る。
『雷を落とす場所は、もう少し慎重に選んでください。家畜が怯えて乳を出さなくなりました』
担当神――ゼウス。
次の一枚。
『狩猟の加護をお願いしたら、森の獣が元気になりすぎました。こちらが狩られそうです』
担当神――アルテミス。
さらに一枚。
『戦勝祈願はしましたが、隣村との水争いです。都市を焼き払う規模の加護は求めていません』
担当神――アレス。
テミスは、静かに書類を机へ戻した。
それから胃の辺りを押さえる。
「……どうして神々は、加減というものを知らないのでしょう」
その原因の大半は、神々による不用意な干渉に端を発していた。
善意による加護。
気まぐれな神託。
売り言葉に買い言葉で始まった天災。
面白そうだからという理由で人類へ授けられた、時代を数百年ほど先取りした技術。
そして、神々同士の私情を地上へ持ち込んだ結果として発生する、戦争、災害、英雄の誕生、怪物の増加。
一つ一つは神話として語り継がれる。
しかし、その後始末をする側から見れば、単なる重大案件である。
「お母様、また胃が痛むのですか?」
声をかけたのは、テミスの娘にして季節と秩序を司る三女神―ホーライ、その一柱で平和を司るエイレネ。
彼女は慣れた様子で、テミスの机へ温かい飲み物と胃に優しい菓子を置く。
「ええ。ですが、いつものことです」
「“いつものこと”で済ませてよい量ではありません」
「先月より二割増えています」
「なお、ゼウス様関連は四割増です」
「最後の情報は聞きたくありませんでした」
テミスは眉間を押さえた。
机の反対側では、同じくホーライの正義を司るディケーと秩序を司るエウノミアが苦情の処理を手伝っていた。
更に少し離れたところでは、机に向き合い、こちらもテミスの娘にして運命を司る三女神―モイライたちが苦情の整理を行っていた。
運命の糸を紡ぐクロートーが新たな案件を書き起こし、運命の糸の長さを測るラケシスが担当する神を振り分け、運命の糸を切るアトロポスが処理不能と判断した案件に容赦なく赤い印を押していく。
もっとも、運命を司る彼女たちをもってしても、神々の気まぐれまでは完全に予測できない。
「このままでは、苦情を処理している間に次の苦情が届いてしまいますね」
テミスは小さく息を吐いて言いエイレネが報告する。
「原因となった神を呼び出して、個別に注意してはいますが…」
「ゼウス様は?」
「聞いたふりをします」
「アレス様は?」
「反省した直後に、別の戦場へ行きます」
「ヘルメス様は?」
「注意した内容を、面白おかしく他の神々へ広めます」
「ポセイドン様は?」
「机を叩くと海が荒れるので、強く注意できません」
ホーライたちは顔を見合わせた。
八方塞がりだった。
そのとき、運命の糸を紡いでいたクロートーの手が止まった。
彼女は、何かに導かれたかのように顔を上げる。
「今、神々に必要なのは――」
室内の空気が変わった。
運命を司る女神の言葉である。
テミスもホーライたちも、固唾をのんで続きを待つ。
クロートーは、厳かに告げた。
「話し合いです」
しばし、沈黙が流れた。
テミスは瞬きをした。
「……話し合い」
「はい」
「これまでにも、個別に話はしていますが」
「個別ではありません。関係する神々を一堂に集め、問題を共有し、意見を出し合い、今後の方針を決めるのです」
ラケシスも頷いた。
「一柱ずつ注意しても、自分だけが責められていると思うでしょう。しかし全員を集めれば、互いの行いを見て多少は省みるかもしれません」
アトロポスは、赤い印を押した大量の書類を見下ろした。
「少なくとも、誰が原因か分からないまま、すべて私たちが後始末をする現在よりはましでしょう」
「なるほど……」
テミスは考え込んだ。
神々の行動には、それぞれの領分と理屈がある。
雷を落とす神。
戦を司る神。
知恵を授ける神。
火を与える神。
愛を振りまく神。
冥界を治める神。
それぞれが独自に人類へ干渉すれば、異なる加護や思惑が衝突するのは当然だった。
ならば、干渉する前に話し合う。
問題が起きた後も、全員で原因と対応を検討する。
独断専行が過ぎる神々への対処としては、実に単純な答えであった。
あまりにも単純すぎて、これまで誰も実行しなかったことである。
「では、会議を開きましょう」
テミスは立ち上がった。
その眼に、久しく失われていた希望の光が蘇る。
「主要な神々へ招集状を。議題は――神々による地上への干渉と、その調整方法について」
「全員、素直に来るでしょうか」
「来なければ正式な召喚命令に切り替えます」
「ゼウス様にも?」
「当然です」
ホーライたちは、母の覚悟を感じ取った。
こうして天界各所へ、秩序の女神テミスの名による招集状が届けられた。




