14話
マリアンヌ様から茶会の招待状が届いたその日、私は陽が高くなってもまだ、布団の中に居た。
「エレン様・・お食事をお持ちしましたが・・」
私はベッドの上に寝転んだまま、こう答えた。
「んー・・。その辺に、置いといて下さい・・」
────人生で初めて、食欲がない・・。
アークは今どうしているだろう。栄えある近衛隊所属の有望騎士だった彼が、一兵卒に降格のうえ、辺境の前線送りに・・。私は彼の人生を台無しにした張本人だ。
それに・・
"貴方と居るのが、もう辛いです"
「・・・・・・怒りに任せてとはいえ、なんてこと言っちゃったのかな。私・・」
6歳の頃からずっと一緒に過ごしてきた殿下は、主君であると同時に、最も慣れ親しんだ幼馴染でもある。私にとっては最早、家族と同じくらい大事な人・・。その殿下との確執は、私の心に大きなダメージを与えた。何だかもう、全てが嫌になってしまって。一日中ベッドの上から動けなくなってから、早数日が経過している。ぼーっと窓の外を眺めていると、コンコンと寝室のドアをノックする音が聞こえて、扉から侍女の一人が顔を出した。
「お休み中失礼します。あの・・エレン様に、これを・・」
彼女が手にした盆に乗せられていたのは、皿に盛られたチェリーパイであった。食べやすいように半分に切られた丸いパイからは、美味しそうなブラックチェリーのジャムが覗き、甘酸っぱい匂いを漂わせている。食欲をそそられた私は、それに手を伸ばした。
口へと持っていくと、サクッとした香ばしい食感と、甘いチェリーの程よい酸味が口内に広がる。それは私にとって、とても懐かしい味だった。
「あの、これって・・『ジョブズ』のチェリーパイじゃないですか?」
思わず私が聞くと、彼女は満面の笑顔で答えた。
「お分かりになりますか? エレン様がお好きだからと、王子殿下が自ら街で買って来られたのだとか」
「え・・」
私は手にしたかじりかけのチェリーパイを見つめた。懐かしいその味は、私に過去の記憶を思い出させた。それは私と殿下が、学園の高等部に上がって間もない頃のこと。当時、街の一角にオープンしたばかりだったジョブズの味は、さっそく話題となっていたのだ────。
道ゆく学生たちの手に、度々ジョブズのチェリーパイが握られているのを見て、私はそれに釘付けになっていた。
「おい、エレン。聞いてるのか?」
「へ?」
視線を声の方へ向けると、同級生らの視線が揃って、私の方へ向けられている。その中心でジオラルド殿下は頬杖をつき、こちらへ白いような目を向けていた。
「すいません! 一文字も聞いてませんでした!」
殿下はズルッと頬杖をついていた肘をコケさせると、私を苛立ったような顔で睨んだ。
「周年祭のイベントだが、俺たちもエントリーすることにした。一学年だからと言って舐められては困るからな。ここは王家の威信をかけて優勝を狙って────」
お話をする殿下の後ろを、またパイを手にした二人組の学生が通った。まるで彼らの手が、金色の光を放っているように見える。
なんて美しい黄金色なんだ。いいなぁ・・。口に入れたらサックサクなんだろうなぁ。私も食べてみたいなぁ・・。
「────だから聞いてんのか!? さっきからどこ見てんだ、このバカ女!」
殿下の怒声が響き渡った。
その日の帰り、殿下は新しい万年筆を買うから、街へ行くと仰った。いつもの通りそれに同行した私。金粉でイニシャルを入れた高級万年筆を発注した殿下は、帰りがけ、こんなことを仰った。
「少し小腹が空いたな。そうだ。お前、あの列に並んで買ってこい」
殿下が指さしたのは、ジョブズのパイを買い求める列だった。評判が良い店のようだから土産にすると言って、10個を申しつけられた。列が進んでいくと、ガラス張りのショーケースの中に、あの夢にまで見る黄金色のチェリーパイが、山ほど積まれているのが見えた。
「アナタの胃袋、征服しちゃうぞ♡チェリーパイのジョブズです! おいつくでしょうか?」
紫と紺のチェリーを思わせる色味の、縞模様の制服に身を包んだお姉さんが、独特すぎる謳い文句と共に注文をとっている。自分の分も買いたいのは山々だが、うちは貧乏だから、私は自由になるお金など持っていなかった。
「10個でお願いします」
「10個入りましたぁ〜! お〜ねがいしまぁ〜す!」
「イエス! 虜にさせます、お客様!」
店員さんが一斉に、やはり独特すぎる掛け声を返す。店の中には「世界征服」と書かれた垂れ幕が掲げられ、その下では店員さん達が、制服と同じ柄の箱に、せっせとパイを詰めている。色々濃いお店のようだが、周囲には甘く香ばしい、なんとも食欲をそそる香りが立ち込めていた。
(いいなぁ・・人生で一度でいいから、お腹いっぱい食べてみたい)
でもうちは貧乏だから、そんな事はできようもない。口の中で溢れる涎をゴクンと飲み込み、私は欲望を断ち切って、店を後にした。ベンチに腰掛け、足を組んで待っていた殿下にそれを渡すと、殿下はこう言った。
「ご苦労だった」
そして彼は箱を開けると、その一つを私へ差し出した。
「列に並んだ褒美だ。やる」
ぶっきらぼうに渡されたそれ。今考えると殿下は、私の視線の行先に気が付いていたんだろうな。目の前に輝く黄金の光を遂に手に入れた私は、今すぐかぶりつきたい欲求をグッと堪え、それを包み紙に包んで鞄にしまった。
「食べないのか?」
訝しむ殿下の前で、私は頭を掻いた。
「すみません、持って帰ります。家族にも食べさせてあげたいので・・」
ほんのり甘いサクサクのパイに、甘く煮られたブラックチェリーがトロリと甘味を纏い、その下にひっそりと隠れている薄く敷かれたクリームが、それらを見事に調和させている・・。家に戻り、家族で分け合ったチェリーパイは、とんでもなく美味しかった。しかし、美味しすぎた。まだ幼かった二人の弟が、もっと食べたいと駄々をこね始めたのだ。
「イヤだぁ〜! もっと食べたい〜!」
「こんなちょっとじゃ味なんか分かんない〜!」
「わがまま言わないの。世の中には一口も食べられない人だって、たくさん居るんだよ? 感謝しなきゃ」
「嘘だ! うちは貧乏だからだろ!?」
「どうしてうちは貧乏なの? もっとお金持ちの家に行きたかった〜!」
「そんなこと言わないで、二人とも・・ね?」
私が途方に暮れた、その時だった。家のドアをドンドンと叩く音がしたのは。
「アナタの胃袋、征服しちゃうぞ♡チェリーパイのジョブズです! ご注文の品、お届けに参りました〜!」
ドアの向こうに現れた、あの縞模様の制服を着た配達員が、呆気にとられていた私の手に、大きな箱を手渡してきた。
「あ、あのっ。うち、注文してないですよ?」
「え? こちら、スペンサーさんのお宅ですよね。お代ももう頂いてますよ? あ、そうだ、伝言を頼まれてたんでした。『列に並んだ褒美だ』だそうです」
「え?」
「それでは、良い夜を〜!」
「・・・・」
手に抱えた大きな箱を開けると、中には山ほど沢山のチェリーパイが入っていて・・家族で泣いて喜んだっけ・・。




