6 鏡界に潜む者 陸
鏡面の縁から泥々とした汚濁のようなものが、満水のマンホールの蓋から溢れる水のように絶え間なく噴き出していた。
流星は慌ててその場から立ち上がると、すでに踝まで闇色の液体に浸かっていたのだ。
全ての鏡が共鳴するように振動して、甲高い金属音が耳を擘く。
その鏡面からは複数の人間の声で、流星の名前を呼び続けているのだ。
頭が粉々に砕けてしまいそうなくらいの頭痛が流星を襲う。
「もう、俺に構わないでくれ!!」
ぬかるんで一歩踏み出すのも相当な体力が必要であり、動く度に全身から命そのものを削り取られているといった脱力感が更に恐怖心を煽った。
「こんな所で死んでたまるかよ!」
気づけば膝上まで、生温かい血の海に浸かっていた。
闇色をしたタールのような液体は、命が宿った無数の触手を伸ばすように流星の体を這い上がってくる。
生暖かさが余計に悪寒を感じさせ、シャツの外側のみならず内側からも触手は忍び込んできた。
直接肌の上を這い回る血の流動体は、不快そのものであった。
流星の首筋を舐めるように這い上がり、顔の前まで迫ってきた。
生暖かい血液の鉄分の臭いが鼻をつき、顔を背けて必死に抵抗した。
だが、抵抗も虚しくその液体は流星の口腔や鼻腔から体内へ侵入してくるのだ。
「助けてくれ!! 誰か!!」
叫び声は届かなかった。
「誰も来ない。誰も気づいてはくれない」
闇の中の道化師は嘲笑いながら言った。
「く、苦しい……息ができない……」
「これからオレとお前が入れ替わって、俺がお前としてここから出て行く」
流星は呼吸ができない苦しさで、自然と涙が溢れた。
このままこのミラーハウスで死んだら魂はこの場に囚われてしまい、自分の肉体を奪ったこの道化師の姿をした悪魔がこの廃園から解き放たれてしまうのだと、理解した。
何て愚かなことをしてしまったのだろう。
肝試しなんかに来なければ、こんな目に合わずにすんだはずなのにと後悔をした。
薄れ行く意識の中で、もがけばもがくほど血の海に沈んでいる気がした流星は手に持っている携帯電話の操作でカメラ機能を起動させていたらしく、眩しい閃光が鏡面を照らした。
その眩い光は鏡面に反射し、流星の周囲が一瞬陽光に照らされたような明るさに満たされた。
再び獣の叫び声のような絶叫がミラーハウス内にこだました。
先程までの血の海は跡形もなく消滅し、そこには流星独りだけが残された。
目の前にはミラーハウスの出口があった。
そこから涼しげな風が吹き込み、流星の頬を優しく撫でた。
いったいどれ程の時間、意識を失っていたのだろうか。
気がついた時には、屋外のベンチの上に仰向けで寝かされていた。
微睡んでいる意識と視界に浮かぶのは、自分を心配している同級生たちの姿であった。
「俺はいったい……どうして……ここにいるんだ!?」
一般的なプラスチックや樹脂製ではなく、モルタル製のコンクリートに似た素材からできた簡素なベンチから上体を起こしてみた。
だが、支える細い腕に力が入らずに、体位のバランスを崩して前のめりによろめいた。
「無理するなよ! 流星がなかなかミラーハウスから出てこないから心配していたんだ。そしたら出口付近で倒れている姿を見つけたんだよ」
託生はそう言いながら、流星の背中から腕を回して支えるように隣に座った。
「そうか……皆が俺をここまで運んで助けてくれたんだ……」
「まあね、流星は軽いから大した事じゃないけど。でも、何であんな所で気絶したんだよ?」
託生の質問に流星は何と答えていいのか悩み、言葉に出せずにいた。
あの体験はもしかしたら、全て錯覚かもしれない。
自分だけが異質な体験をするなんて、どう考えたって考えにくいのだ。
この閉鎖的な空間のミラーハウスの中で自分だけが恐怖心を肥大化させて錯乱し、ありもしない錯覚や幻覚を体験したのかも知れない。
もしかすると、ミラーハウスの出口付近でずっと気を失っていて、今まで夢でも見ていたのかも知れないのだ。
どちらにしろ、率先して話すような内容ではないような気がした。
「寝不足と腹減っていたので貧血起こして、具合が悪くなって倒れていたのかもな」
それらしい言い訳は幾らでも考えられるが、疲れきった心身ではこれが限界であった。
「大丈夫か? 何かあったのか?」
星矢が姿を現してそう言った。
「兄貴! 何処行ってたの? 皆で探したんだよ!」
莉菜は凄い剣幕で星矢に詰め寄った。
「俺は……そこら辺を探索してきた帰りだ」
悪びれた様子もなく星矢は妹へそう言った。
莉菜はやっと話が終わったかと、無骨な表情で流星を一瞥した。
「ミラーハウス制覇した記念に皆で写真を撮ろう!」
莉菜は観光にでも来ているように楽し気である。
「俺が撮ってやるよ」
星矢は莉菜から携帯電話を受け取ると、高校一年生たちに集まるように言った。
ミラーハウスの前で流星たちは適当に並んで立った。
暗闇に眩しい閃光が一度だけ走った。
「星矢さん、次は俺が撮すんで皆の所へ行ってください」
流星がそう言って携帯電話を受け取るように手を差し出した。
「俺は……いいんだ。写真が嫌いなんだ」
「遠慮しないでください」
「オレはいいって言っているだろう!!」
「す、すみません……」
「いや、オレこそ言い過ぎた。ごめんな」
星矢は表情は苦笑いを浮かべているが、瞳の奥底には怒りがマグマのように熱く煮え滾っていた。
頑なに写真を拒むため、流星は拍子抜けしてしまった。
皆は別のアトラクションへ向けて歩き始めたために、流星もそれに倣った。
思い出したように、携帯電話を取り出すと写真を保存してあるホルダーを開けた。
ミラーハウス内部の鏡の前で無意識に写真を偶然撮ったものが一枚保存されている。
それを開くと液晶画面に画像が大きく表示された。
埃で薄汚れた鏡面に映っているのは、狡猾さを湛えた醜悪な存在の邪悪な星矢の顔であった。
星矢の眼は山羊のような黄色い眼をしていたのだった。
その眼からは狂気しか感じられない。
流星が顔を上げると、そこには星矢の顔があった。
「これは、オレとお前との秘密だからな。誰にも話すんじゃないぞ」
邪悪な何かが優しくそう流星の耳元で囁いた。
星矢はそう告げると、流星の前を歩き出し何事もなかったかのように振舞っていた。