プロローグ
雲ひとつない晴天の下、街路樹の葉を焦がすほどの直射日光が容赦なく照りつけている。
青年は額から流れ落ちる汗を腕で拭い、アスファルトから照り返される陽光の眩しさに眼を細目めていた。
路面は高熱により陽炎が揺らめき、熱風が襲うたびに目眩に似た感覚が絶え間なく続いている。
青年は高校生になって初めての七月の夏休み初日を迎えいた。
思い返せば、小学二年生の頃も今日のように熱波を掻き分けて同級生の家へ向かったことがあった。
その当時、一番親交を持っていた友人の名は誰だったかと思い出そうとしていた。
一番仲が良かった友人のはずなのだが、顔の面影は思い出せるがなかなか名前が思い出せなかった。
やっとの思いで記憶の糸を手繰り寄せて一つの名前が明らかになったのだった。
その名前は横田総一郎である。
なかなか記憶の中から出てこなかった理由も名前と一緒にはっきりした。
横田総一郎は小学三年生になる前に突然居なくなったのだ。
何故、忘れてしまっていたのだろうと流星は考えを巡らせたが思い出せなかった。
なぜ、居なくなったのかは誰も知らなかった。
家族全員が夜逃げでもしたかのように、ある日突然居なくなっていたのだ。
当時、横田総一郎の家族は市営住宅である団地の一階に住んでいた。
父親は技術職で電気工事士として民間会社に勤めていた。
母親は専業主婦である。
市営住宅は2DKの間取りとなっており、小学生の流星と総一郎は子供部屋として使われている和室でゲームをしながら遊んでいたのだった。
そこで、総一郎が流星の興味をとても掻き立てる話を聞かせてくれた。
それは、誰も居ない時に学校の個室トイレに入ると扉を激しく叩く子供の幽霊が出るというものであった。
流星は恐怖心よりも好奇心が勝り、怖い話は興味があるためにその刺激的な感情を楽しんでいた。
「お母さんが怖い話をもっとしてくれるよ。話を聞きたい?」
総一郎は得意気な笑みを浮かべてそう言った。
流星の中で葛藤が渦を巻いていた。
怖い話を聞いたら、夜トイレに一人で行けるだろうかという不安ともっと怖い話を聞いてみたいという
子供心の純粋な好奇心のせめぎあいが暫く続いた。
そして流星の中で大きく膨らんだ好奇心が勝った。
肥大化した好奇心は流星の自制心までも呑み込んでしまったのだった。
流星は覚悟を決めた表情で静かにそして力強く頷いた。
流星は総一郎に連れられて隣の部屋へと移動した。
玄関と直結になっている畳一畳ほどの廊下を通った。
廊下にはトイレの扉があり、通路自体は日中でも陽が入らず薄暗くてじめじめした湿気が木製の床材に感じられた。
誰も自分を認めない誰も自分を変えられないそんな言葉がその陰鬱な気分にさせる廊下から伝わってくる。
昭和の時代に建てたれた市営住宅には、そこに住む人たちの想いが家の柱や床そして畳に染みこんでいる。
それらが見聞きできる人間へ直接語りかけてくる。
横田総一郎の母親もそれを知ることができる人間の一人であった。
擦り硝子のはまった重い扉を開けると、そこは木材を使用したフローリングの居間であった。
陽射しを遮るためなのか、外界からとの関わりを遮るためなのかは分からないが厚いカーテンに閉ざされた薄暗い部屋であった。
エジプトのミイラのように骨と皮しかないのではないかと思えるほど痩せ細っている女性が床の上に正座した姿で座している。
「お母さん、流星君が怖い話を聴きたいんだって!」
息子の総一郎の声に力なく擡げた頭を上げると、生気のない眼で流星を見つめた。
「こ、こんにちは。瀬戸流星です。お邪魔しています」
一瞬、悪寒が全身に走ったのだが失礼があってはいけないと思い日頃母親から躾けられているように挨拶をした。
「流星君……総ちゃんのお友達の流星君ね。こんにちは。おばさんの怖い話を聞いても大丈夫なの?お母さんに怒られないかい?」
「……はい……」
流星は嘘をついた。
母親に確認したわけでもないが、怖い話を聞いて怒られることはないと勝手に判断したのだ。
総一郎の母親はそんな流星の嘘など直ぐに見抜いたが、怖い話を聞く覚悟があることを確かめるためにわざとそう言ったのだ。
流星と総一郎は並んで床の上に座った。
そして総一郎の母親からの恐ろしい怪談が始まったのだった。
昔は田舎の古い校舎ではトイレは汲み取り式であり、底へ落ちてそのまま汚濁の排泄物の中に沈んでしまい亡くなってしまった学生がいたという。
総一郎の母親の出身地は道内の山深い場所であったそうだ。
今は廃校となっているその学校で勉学を学んでいた小学生時代に総一郎の母親はトイレで用を足していると突然足を引っ張られたというのだ。
小学校の放課後の薄暗い校舎のトイレで独り恐怖に耐えたそうである。
足首を掴む白い小さな手は小学生の女の子の手であり、それは冷たく氷のようにただ凍てついていたという。
暫くの間、その場で恐怖が過ぎ去るのをひたすら祈っていると足首を掴んで放さなかったその手は姿かたちがなくなっていた。
総一郎の母親は自分の足首を見たらどうなっていたかと流星に質問してきた。
流星は友人の母親から聞かされた話に恐怖のあまり放心状態であった。
「おばさんの足首には赤く手の跡がついていたの。その部分を触ってみるととても冷たかったわ」
総一郎の母親はそういうと話を終えた。
流星は怖くなりこの場から早く立ち去りたくて帰ると伝えた。
そんな流星の様子を総一郎の母親は生気のない眼でじっと見詰めていた。
「流星君も……見えるんでしょ?」
流星の去り際に総一郎の母親が独り言のように呟いたのだった。