2話 脆い日常
第2話をお読みいただきありがとうございます。
命からがら逃げ帰った翌日。
榮の日常と、再び交差する非日常のお話です。
――生きている。
自室のベットの上で、俺は泥のように重い体をどうにか起こした。
カーテンの隙間から、容赦のない夏の朝の光が差し込んできている。
昨日の夜、あの狂っていた路地裏からどうやって我が家まで逃げ帰ってきたのか、正直覚えていない。
布団にくるまって、心臓が壊れるような音を立てるのをただ耐えていた。
結局、一睡もできないまま朝を迎えてしまった。
「夢、じゃねえよな……」
自分の手のひらを見つめてみるが、当然、何の答えも返ってこない。
あの不気味なほど綺麗な黒髪の女性、澪華。
そして、暗闇の中で爛々と輝いていた、あの少女の淡い黄色の目。
瞼を閉じるたびに、脳裏にあのおぞましい圧迫感が鮮明に蘇ってきて、肌に冷たい汗が滲む。
自分の目が人より少し特別だからといって、調子に乗ってあの白髪の少女を追いかけてしまったツケは、あまりにも大きなすぎた。
「……はぁ」
重い足取りで一階のリビングへ下りていくと、トーストと味噌汁の匂いが漂ってきた。
「あら、榮。おはよう……って、ちょっとどうしたのその顔?目の下にもの凄いクマよ」
台所から朝食を運びながら、叔母さんが俺の顔を見てピタッと動きを止めた。
食卓で新聞を広げていた叔父さんも、メガネをずらして怪訝そうな顔でこちらを見てくる。
「なんだ榮、ちゃんと寝てないのか?親戚の家に居候してるからって、あんまり遠慮して夜更かしするんじゃないぞ。飯はしっかり食え。」
いつものように、少しぶっきらぼうだけど俺の体を気遣ってくれる叔父さんと叔母さん。
親を亡くした俺を引き取ってくれた二人の、あまりにもありふれた言葉が、今の俺には酷く温かかった。
もし、昨日の奴らがこの家まで押し寄せてきたら――そう思うだけで、手にした箸が微かに震えた。
恐怖と混乱に頭を支配されたまま、時計の針だけが冷酷に進んでいく。
世界がどれだけ狂おうと、俺の現実が待ってくれるわけじゃない。気づけば外はすっかり薄暗くなり、夕方を過ぎていた。
「おい神代、入るなり死相が出てんぞ。ちゃんと飯食ってんのか?」
バイト先のコンビニに到着するなり、更衣室で夜勤の引き継ぎをしていた先輩が、俺の顔を見るなり呆れたように声をかけてきた。
「若いんだからしっかりしろよ。ほら、チキン一個廃棄出たから食って元気出せ。じゃ、あと頼んだぞ」
「……ありがとうございます。お疲れ様でした」
先輩は俺の方をポンと叩き、そのまま店を出ていく。
そこから始まった、深夜のワンオペバイト。
自動ドアが開くたびに「まさかあの二人が来るんじゃないか」と心臓が跳ね上がる。
だが、やってくるのは仕事帰りのサラリーマンや、酔っ払った若者だけだ。
彼らの放つ、ありふれた人間の気配に触れているうちに、俺の荒んだメンタルは少しずつ現実の世界へと引き戻され、救われていくのを感じていた。
やがて夜勤のシフトが終わり、深夜の冷たい空気が街を包み込む。
無事にバイトを生き延びた安堵感と、張り詰めていた緊張が解けたことで、俺の胃袋が限界を訴えるように小さく悲鳴を上げた。
このまま真っ直ぐ帰る気には、どうしてもなれなかった。
なにか甘いものでも食べて、この脳裏にこびりついた恐怖を綺麗に上書きしたかった。
そうして俺が足を向けたのは、帰り道にある、夜遅くまで営業している小さなお気に入りのケーキ屋さんだった。




