三話
暖かな光を分け与える年季の入った暖炉。使い込まれた様子のテーブルの上に、四つの暖かい飲み物が置かれた。
二階には幾つかの部屋がある。質素な食事を終えた後、疲れていたルルとシアは同じ部屋で仲良く眠り、ライヤーはどこかへ出かけていった。
残った四人での話は他愛の無いものだった。
それこそ、重要でも何でもない話。リズはアリスナの街の事や、子供の頃にあった小さな事件。クロネは今年の川で行われた漁での出来事。英二は所々ぼかしながら、学校の友達がやった一世一代の告白の話をした。女性陣は面白そうに聞いていたが、本当に意味なんて無いただの世間話だ。
あまりスピナは喋らなかったが、それを補ってリズとクロネは言葉を交わしていた。意味の無い会話だからこそ、部屋には透明な楽しみが満ちていた。
リバリー姉弟の家は上等とは言えなかったが、二人で暮らすには十分過ぎるほど大きい。クロネの望んだ歓談の途中でも、他の人が住んでいる気配は聞こえない。
湯気を立てるカップを両手で包み込むように持ち、リズはゆっくりと口を付けた。
「美味しいね。単純だけど、とても優しい」
「あ、どうも」
向かいに座りながら、スピナは短い髪を大きな手で撫でつける。女性に話しかけられるのに慣れていないのか、やたら落ち着きが無い。
そんな隣の弟を一瞥した後、クロネは小さく欠伸をした。
「ああ、今日は良く話したわ」
もう長いことテーブルで話し続けている。英二が曖昧に頷くと、クロネは小さく笑った。
おとなしそうな見た目と話し方に反して、クロネは良く喋る。裏も何も無く、単純に人と話す事が好きらしい。
凝り固まった背中をほぐすように英二が上を向くと、クロネは相変わらずのゆったりとした話し声を出した。
「この町にはどの位いるの?」
「多分、明日には次の場所へ出発すると思う」
英二とリズ。どちらともなく投げかけられた言葉に返したのはリズだ。
クロネは残念そうに眉を曲げる。
「急がなくても、もう少しいたら良いのに」
「クロネ、彼女達を困らせるような事は言わないでよ」
スピナは語気を強めて言うが、その効果はまるで無い。クロネは英二に無言の交渉を仕掛ける。
じぃ、っと動かない翡翠色の瞳。英二はたじろいだ。
「え、えっと、り、リザ。ちょっとくらい、ゆっくりしてもいいんじゃないか?」
助けを求められたリザことリズは、顎に指を当てて考え始める。そちらに移るクロネの視線。ひとまず止んだ猛撃に、英二は安堵の息を吐く。
そしてふと前を見ると、スピナの覗き込むような目とかち合った。
「ん?」
「あ、いや」
慌ててそっぽを向かれ、英二は首を傾げる。続くようにリズが口を開いた。
「そうだね。あまり長くは留まれないけど、この辺りで少し休もうか。私達はともかく、シアとルルは大分疲労してるみたいだし」
この旅は子供や女性にとって、体力的に厳しいものがある。我慢と負けん気。正反対の理由だが、二人とも中々本音を吐かない。
休息はどこかで必ず取らなければいけない。
英二が頷くと、それよりも大きくクロネが頷いた。
「うん。じゃあ、明日から毎日お話ししましょう」
クロネの中では、明日からもこの家に泊まる事は決定しているらしい。英二とリズは目を合わせた後、苦笑した。
リザさんがいいならいいけど、と言いながらもどこか嬉しそうなスピナ。そんな弟を横目で見て、クロネは思い出したように言った。
「そうだ。明後日にはちょっとした催し物があるの。どうせだから、みんなで参加しましょう」
反対する者はこの場にいなかった。
ケートの町の催事は、とても簡単な恵みへの感謝の儀式だ。
町のすぐ横を流れる広大なコクナロース川。その川の恵みで得た財貨で買った麦を、町人達が一斉に水辺へと投げる、というもの。こうして流れを循環させ、次も変わらぬ恵みを願う。そうしてこの町は生きてきた。
ただ、今となってはそんな真面目な催事では無く、町人達のささやかな祝い事の意味合いが強い。別に投げる物は麦でなくてもいいし、町人達も本命はその後の催事にかこつけた酒だ。
そんな話をクロネから聞いたシアは、琥珀色の瞳を輝かせた。ケートの町は今、その準備の真っ最中らしい。
張り切って手伝おうとしたシアだが、旅の疲れはしっかりと小さな体に溜まっていた。朝、足の筋肉痛でふらふらしている所で、リズに留守番を命じられている。
現在、シアの代わりに、という訳でもないが、英二は催事の準備を手伝っていた。初めこそクジュウの容姿のおかげで注目を集めたが、仕事が始まれば気にならなくなった。
「エイジさん、そっちに行ってくれ」
長い板の端を持つスピナが、向かいの英二に指示を出す。
大量の台、気持ち程度の椅子。結構な人数が青空の下、この広場で作業をしている。
明日、川に麦を投げた後、ここで大多数が飲み食いする。そう考えればこの量は当然だが、準備は椅子と台を出すだけだ。まだ日も高いのに、もうすぐ全て終えてしまう。
英二は指示された場所に横歩きしながら、周囲の人達を見た。明日の事を思ってか、皆の顔は明るい。しかし、同時に疲れも色濃く表れている。
それと、英二には気になることが一つ。
「なあ、俺の顔に何かついてるか?」
「えっ! い、いやっ」
スピナの態度だ。昨日から感じていたが、どうもちょくちょく英二の顔を見ては、何かを考えているらしい。
恨みを買うようなことが出来るほど、まだ出会ってから時間は経っていないし、そもそもそういう感じではない。
検討がつかないまま、英二は地面に板を置いた。朝から働き詰めだったおかげで、一応英二達の仕事はこれで終わりだ。
近くの木材に腰を降ろし、英二は手持ち無沙汰のまま、近くの町民であろう親父達の手際の良い組み立てを眺めた。柱の立った土台を作ったかと思えば、それはひっくり返されて大きなテーブルになる。見ていて面白い。
「あ、あの、エイジさん」
スピナに呼ばれ、英二は顔を向ける。首が痛いほど視線を上げると、窺うような強面。力を込めれば人一人くらい殺せそうな顔だが、その片鱗も見えない。
おかげで特に萎縮することも無く、英二は真っ直ぐに見返した。
「ん?」
「その、一つ訊きたいことが……」
「訊きたいこと? 俺が知ってることならいいけど」
その内容がまったく想像出来ないまま、英二は次の言葉を待った。しかし、スピナの目線は泳ぐばかりで、一向に質問が来ない。大きな男が自分を前にもじもじしている姿は、ちょっと不気味だった。
ようやく定まる焦点。スピナは大きな手で頭を掻いた。
「単刀直入に聞くけど、り、リザさんとライヤーさんってどんな関係?」
予想以上に突っ込んだ質問だった。今度は英二が言葉に詰まる。
正直に話せば『皇女と反帝国組織の頭領です』だが、それを馬鹿みたいに何も考えずに言うほど、英二は愚かではない。それに、スピナが求めている答えもそういうものではない。
質問した後、恥ずかしそうに遠くを見るスピナ。特別色恋に敏くないエイジだって、ここまでわかり易ければ感づかざるを得ない。
「もしかして、リザのこと」
「あーあーっ! ちがっ、変な意味じゃなくて、ただ純粋な疑問と言うか……そう! 家に泊めてるんだから、その位は把握しておかないと!」
大きな全身を精一杯使い、誤魔化すスピナ。英二はそんな外見とはかけ離れた純朴さに好感を覚えた。
とりあえず、当たり障りの無い答えを返す。
「まあ、スピナが思ってるような関係じゃないよ。なんていうか……好敵手、みたいな関係かな」
「好敵手? 一体何の?」
「だから、みたいな関係」
好敵手。言ってみれば、これほど二人を端的に表す単語は無い。
「……そっか。それならまあ、いいかな」
あからさまに安堵したスピナに英二は軽く吹き出した。それを見たスピナが首を傾げる。
リズとライヤー。正反対のようで似ている二人。リズは文句なしの美人だし、ライヤーも信念を持った良い男だ。そう考えると二人ほどお似合い、という言葉が似合うペアはいない。言ったら間違いなく本人達からは大ひんしゅくを買うだろうが。
その場面を想像して出てくる笑いを抑えていると、スピナがまた英二を見ていた。今度は窺うような目ではなく、とても気軽さを持った表情だ。
「じゃあ、エイジさんとルルさんが恋人なのか?」
今度こそ、英二は声を上げて笑った。少し落ち着いてから答える。
「くくっ、いや、それは無いって。あのルルと恋人なんて、天地がひっくり返っても有り得ない」
結構お似合いだけどなぁ、とスピナは呟いた。笑いの発作に苛まれながら、英二は少しだけスピナと仲良くなれた気がした。
「くしゅんっ」
二つのくしゃみが重なった。クロネは金の尾と珍しい黒髪に、お大事に、と声をかけた。
英二達のいる広場の近くの食堂。いつもなら常連の男達が居座る時間帯だが、今その空間の大半を占めているのは熟れに熟れた可憐な淑女達だ。
淑女達は突き抜けるような声の大きさで世間話をしている。しかし、食材を仕込む手に乱れは無い。そのあたりは長年の経験が勝っているらしい。
鼻をすすって、恨み辛みをぶちまけるように、ルルは大鍋の頑固な汚れにタワシを突き立てた。
「なんでっ、あたしがっ、こんなことっ、しなきゃいけないっ、のよっ!」
「家にはライヤーが居るからいたくない、って言ったのはルルだろう? 丁度よかったじゃないか、暇を持て余さずに済んで。あ、失礼、もうすぐこっちは終わります」
くしゃみのせいで止まっていた手を動かし、リズは隣のおばさんに最後の食器を渡した。どこか夢見るような表情だったおばさんは、まるで少女の様に浮き足立って、受け取った食器を奥に持っていった。
一通り水場を綺麗にして、リズは洗われている大鍋を覗き込んだ。力の弱いルルではなかなか汚れが落ちないらしく、あまり捗っているとは言えない。
「手伝おうか?」
「いら、ないっ! くそっ、こうなったらとことんやってやるわよ!」
より一層体重をかけて、ルルはタワシに力を込める。リズは後ろに下がって、そんな様子を微笑ましく見守った。
そんなリズに、クロネが飲み物を差し出す。
「はい。お疲れ様」
「ありがとう」
リズは受け取って、一口啜る。隣のクロネは大鍋と格闘しているルルを見て、僅かに溜め息を吐いた。
その溜め息は小さく、誰の耳にも届かないはずだったが、リズは見逃さずに口を開いた。
「どうしたんだい?」
「え? ああ、何でもないわ」
クロネ自身、無意識だったのだろう。言われて不思議な顔をした後に、手元の盆を両手で持ち直した。
しかし、溜め息が何も無く吐かれることはない。年頃の乙女の溜め息は、いつだって憂いを帯びた花梨の香りなのだ。
「ねえ」
カップから口を離し、リズは声の主へと視線を移す。そこには、思いのほか真剣な翡翠色の瞳。
「やっぱり、男は綺麗な女性か、可愛い女の子が好きなのかしら」
リズは首を傾げてクロネを見つめ返した。
「なんというか、急な話題だね」
「そうね。でも、目の前にこんな綺麗な女性が居て、その連れがこれまた可愛いんだから、訊いておくべき質問だと思うの。やっぱり、今まで男からの求愛はたくさんあった?」
参ったな、とリズは指先で髪を摘んだ。熟れた淑女達もこの話題に興味があるのか、聞き耳を立てている。
「まあ、無かった事はなかった、かな」
きゃー、と後ろのほうで響いたおば様方の悲鳴。リズは余裕を持ってクロネに笑顔を見せた。
しかし、内心はボロを出さないように必死だ。
「でも、外見なんて飾りだよ。それに寄ってくる男に、ろくな人間は居ないさ」
それっぽいことを言うリズ・クライス・フラムベイン。男女の間柄を育むほど、これまでの人生、暇ではなかった。
納得したように頷くクロネ。リズは罪悪感から目を逸らす。知ったかぶりなどは最も恥ずべき行為。
だが、遂に真実は言い出せず、クロネの興味が尽きるまで、聞きかじりの知識を語る羽目になった。
「とまあ、そういう事で、男は狼なのさ……」
「やっぱり、都会は凄いわね」
ははは、とリズは乾いた笑いを零す。大半が恋愛小説の話、ということは誰にも言えない。
リズが台に置いていたコップに手を伸ばす。その拍子に、肘を机にぶつけた。
痛くは無い。しかし、同時に眩暈がリズを襲う。
「……っ!」
揺らぐ体を強引に元に戻し、台に寄りかかる。異常を感じたクロネが心配そうに覗き込んだ。
「なんだか、本当に疲れてるわね。昨日は眠れた?」
「勿論。ただ、やっぱり慣れない旅の分だけ、私も疲れが溜まっているみたいだ。この辺りで休む、というのは、何にせよ必要だったかもしれないね」
眩暈は抜けない。こんなことで倒れていては、この先もやっていけるはずが無い。
クロネの静かな瞳に、リズは目をつぶって答えた。そして、ゆっくりと魔術で黒くしている目を開く。
訊きたいことがあるのは、クロネだけではなかった。
「それに、疲れてるのはクロネ達も同じだろう?」
初めて、クロネは動揺したように視線を逸らしたが、リズはそれ以上追及せず、残ってい飲み物を飲み干した。
本来、ケートの村はもっと若者が多い。だが、若者が人口に比べて極端に少ない。特にこういう行事には親が強制してでも参加させるものだが、ここにはクロネの他の若い女性が数える程しかいなかった。外でも、若い男を余り見かけない。
クロネは何も言わないまま、外へと出ていってしまった。失敗したかな、とリズは思ったが、すぐに戻ってきたクロネの姿にその考えを改めた。
「あの、ちょっといい?」
真剣な瞳。未だ鍋と組み合っているルルを背に、リズとクロネは外に出た。
今、この町は崩壊の危機を迎えている。
最初にクロネはそう言った。
「何が悪い、っていうのはみんなわかってる。一昨年から領主を継いだイページのせいよ」
人通りの少ない店の裏。それでも周りを警戒するようにクロネは慎重に話した。
「最初は、小さなことだったわ。今年の税収が少ないから、別途に徴収したの。それは別に良かった。今までだって何度かあったし、そんなに大きな額でもなかったから。問題は、どんどん要求が大きくなって、仕舞いに起こしたある事件」
その事件は、余りにも稚拙な顛末だった。
税を上げ、更には必要の無い宴まで開催するようになったイページ。その内、イページに反する者も出た。
しかし、イページはその者に『娘を差し出せ』と無茶な要求をした。その家族は呆れ果て、ついにこの町を出てしまった。それでもイページの態度は変わらず、子供の遊びのような統治をするばかり。
まだこの町から出て行く元気のある若者から流れるように出て行き、この町の若い世代は激減した。戻りたいと望むものも多いが、イページが領主でいる限りは叶いそうも無い。
リズはそのイページの間抜けさに呆れた。暴政を強いるでもなく、ただただ我侭を言うような領主など、実在しているのが不思議なくらいだ。
「で、結局、私に何を望むんだい?」
ただ、間抜けさで済ませられるほど、町が弱るという事は小事ではない。国を変えるには、こういう所から良くしていくべきだ。
リズの胸中は固まっていたが、それでも訊いた。いざとなれば、直談判でも解決できそうだ。
クロネはそっと、打ち明けるようにその名を言った。
「この催事が終わってからでいい。ラクセルダスのいる街まで、私を連れて行って欲しいの」
頼るべき旗の色。突き付けられた現実の求める標に、リズは頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
同時刻。英二の目の前に、小太りの男が立っていた。冴えない顔に薄くなりかけの髪。
その男は両脇に肌の浅黒い女性を侍らせている。
わかりやすい。英二は気分が悪くなった。
「おい、そこのクジュウの民。暇だから踊れ」
両脇に陰鬱そうな表情の奴隷を従えた領主――イページは、妙に高い声でそう言った。