第16話 次のお休みに、一緒に
「高梨さん、少しいいかな」
佐久間に呼ばれ、千春は手元の資料を閉じた。
会議室へ向かいながら、今週の進捗を思い返す。
担当していた案件は、どうにか最後までまとめられた。途中で勤務時間を変え、何度も引き継ぎ方を直した。
反省するところも、次に変えたいところもあった。
「引き継ぎを工夫しながら、最後までよくまとめてくれたね」
「はい。みんなに助けてもらって」
佐久間がうなずいた。
「推薦、通ったよ。来期からは課長として頼む」
千春は顔を上げた。
昇進の話を、忘れていたわけではない。
けれど、夕方の定例を代わってもらいたいと相談したときから、期待しすぎないようにしていた。
今の担当を続けさせてもらえるだけでも、ありがたいと思っていた。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
佐久間は、勤務時間のこともまた相談しようと言った。
「今のやり方も続けられるように」
「はい。よろしくお願いします」
誰にも頼らず、全部自分でできるようになったわけではない。
夕方には真帆たちが引き継ぎ、朝には千春が集計する。迎えに間に合わない日は、永井が湊のそばにいてくれる。
その中でできることを探し、続けてきた仕事を見てもらえた。
席へ戻ると、机の上に引き継ぎ表があった。
最初に作った頃より、何度も書き方を変えている。
千春は次に確認する項目へ指を置いた。
来期のことは、また相談する。
まずは今日の仕事を終えて、湊を迎えに行こうと思った。
*
その夜、食卓には二人分の夕飯が並んだ。
千春のスマートフォンに、佐久間から改めてお祝いの言葉が届いていた。
画面を閉じても、口元が緩む。
「ママ、何かいいことあった?」
湊に尋ねられて、千春は顔を上げた。
「うん。課長になることが決まったの」
「前に言ってた、えらくなるやつ?」
「覚えてたんだ」
「うん」
あのときも、ここで夕飯を食べていた。
まだ三人で囲んでいた食卓だ。
その頃に話したことが、湊の中に残っていた。
「うん。まだちょっと、信じられないけどね」
「じゃあ、お祝い」
湊が箸を置いた。
千春は笑った。
「何がいい?」
「クッキー作りたい」
その言葉に、少しだけ昔の声が重なった。
千春も、休みの日くらいやってみたら。
仕事は頑張るのに、家のことになると余裕がない。
台所で過ごせる休日の長さを、誰かと比べられるのが嫌だった。
やりたいと思うことまで、できていない証拠に変えられてしまった気がしていた。
けれど、今ここにいる湊は、母親に点数をつけているのではない。
次の休みに、一緒にやりたいことを話している。
「今度の休みに、やってみようか」
「チョコ入れていい?」
「いいよ。何が必要か、一緒に調べよう」
湊は食べ終わると、千春の隣へ椅子を寄せた。
画面に並ぶ材料を見て、小麦粉を指す。
家にあるものと、買うものを一つずつ確かめた。
千春は日曜日の予定を見た。急がなくてよい午前中を、二人のために空けた。
*
土曜日の夕方、航平が湊を送り届けた。
その手には、どんぐりと松ぼっくりの入った透明な袋があった。
「これ、公園で拾ったんだ」
「工作に使う」
湊が靴を脱ぎながら言った。
「じゃあ、洗って乾かそう」
千春が袋を受け取った。
湊は家へ入る前に、航平を振り返った。
「またね、パパ」
「うん。また連絡する」
息子の足音が居間へ向かう。
千春は航平へ礼を言った。
「今日はありがとう。次の予定、あとで送るね」
「分かった」
玄関の扉が閉まった。
航平は、その前に少しだけ立っていた。
中から、袋をどこへ置くか相談する声がした。
自分が靴を脱いで加わる時間は、もう終わっていた。
階段へ向かい、一人で歩き出した。
*
日曜日の台所に、小麦粉の白い跡が増えていった。
千春も湊もエプロンをつけていた。
材料を量り、生地をまとめる。湊はチョコチップを入れるところを、自分でやりたがった。
「全部入れる?」
「書いてある分だけにしよう。残りは、次のときにも使えるよ」
湊は袋の中を名残惜しそうに見て、うなずいた。
千春がめん棒を渡すと、両手で持って生地を押した。
片側だけ薄くなり、二人で向きを変えた。
「丸い型もあるよ。使う?」
「恐竜にしたい」
「じゃあ、首の長いのにしようか」
湊は丸めた生地に細い首をつけた。
持ち上げると、途中から切れそうになる。
「ここ、折れそう」
「ママが押さえてるから。ゆっくりね」
千春は指先で首を支えた。
湊が慎重に動かし、ようやく天板へ載せる。
二人で顔を見合わせて、ほっと笑った。
焼いている間に、粉のついた台を拭いた。
湊は何度もオーブンを見たがり、千春に熱いから離れていようと言われた。
甘い匂いが部屋に広がる。
うまく焼けているだろうかと、千春も気になっていた。
出来上がった天板を出すと、クッキーの大きさはまちまちだった。
薄いものの端が、少し黒くなっている。
「黒くなってる」
「焼きすぎたかな」
「こっちは大丈夫」
湊は焦げていないものを指した。
千春は天板を置き、恐竜を探した。
「形も、みんな違うね」
「あ、恐竜の首!」
苦労して載せた長い首は、横へ曲がっていた。
「曲がっちゃったね」
「おなか、見てるみたい」
言われてみれば、本当にそう見えた。
「ほんとだ。おなかすいたのかな」
湊が笑った。
千春も笑った。
きれいにそろわなかったことより、湊が見つけた恐竜の顔がおかしくて、しばらく二人で見ていた。
「熱いから、少し待とう」
「次は、もっと大きいの作る」
「じゃあ、次のお休みに」
「ママも一緒?」
千春はうなずいた。
「うん。一緒に作ろう」
食卓には、形のそろわないクッキーが並んでいた。
湊はどれから食べるか迷いながら、次の恐竜はもっと大きなしっぽをつけたいと話し始めた。





