第15話 買えなくなったもの
実家の部屋には、莉奈が昔使っていた棚が残っていた。
陸の着替えを引き出しへ入れると、自分の服をしまう場所は少なくなった。
旅行かばんを閉じ、壁へ寄せる。
ひとまず帰ってきただけだと思っていた荷物が、部屋のあちこちへ広がっていった。
母の和恵は、莉奈の話を聞いた。
航平の帰りが遅くなったこと。生活費が足りなかったこと。毎日同じ喧嘩をしていたこと。
けれど、誠司のところへ戻れないなら、ここで何をするのかという話は避けられなかった。
ある日、和恵が求人のチラシを置いた。
スーパーの品出しスタッフ。日中の短時間勤務も可能と書かれている。
「買い物のお金までは、出してあげられないよ」
莉奈はチラシを見た。
母は追い出そうとしているわけではない。布団を用意し、陸の食事を作り、帰ってきた二人の分まで洗濯をしている。
けれど、これまでどおりの暮らしを、そのまま渡してくれるわけでもなかった。
「……うん」
「お迎えは、できる日は行くから」
隣には、五万八千円で買ったバッグがあった。
買ったときは、生活費は残してあると航平へ言った。
今は、そのバッグを持って出かける予定よりも、来月何にいくら必要かを考えなければならなかった。
莉奈はチラシの電話番号へ指を置いた。
「まず、電話してみる」
働くかどうかを、誰かへの不満として話していた時間は終わっていた。
自分が働ける曜日と、迎えに間に合う時間を、母に確かめた。
*
航平と莉奈が選んだ部屋では、ベージュのソファに引っ越し業者の保護カバーがかけられていた。
二人は離れた場所に立っていた。
運び出す家具と、処分する物を確認する。あれほど楽しみにして買った物についても、今は費用と日程を話すだけだった。
「離婚の話、進めよう」
航平が言うと、莉奈は少し間を置いてうなずいた。
「……うん」
どちらかの元配偶者が受け入れてくれるなら、という条件は、もうつけなかった。
千春も誠司も、戻ってよいとは言わなかった。
二人が始めた暮らしを、二人で終わらせるしかなかった。
その後、二度目の離婚が成立した。
部屋を引き払い、航平は一人で暮らすための小さな部屋へ移った。
食卓を置く場所を決めると、残る床はわずかだった。
前の家のように廊下へ紙飛行機を飛ばす場所はない。
荷物の中から仕事の資料を出し、明日の分を机へ並べた。
*
午後十一時。
航平は仕事の資料を閉じ、以前の会社の採用ページを開いた。
収入が減るとしても、前の働き方に戻れればと思った。
通勤に使う時間が少なく、夕方に子どもを迎えに行けた。仕事が残れば、家で予定を調整できた。
千春と暮らしていた頃は、その余裕がどれほど多くのことを支えていたのか、あまり考えていなかった。
翌日の昼休み、人事の岡崎へ電話をかけた。
「高梨です。以前いた職種で、今、募集はありますか」
久しぶりだという挨拶のあと、岡崎は少し待つように言った。
航平は手元の仕事の資料を折らないよう、膝の上で持ち直した。
戻れると言われたら、どう説明しよう。
退職のときは、新しい環境で挑戦したいと話していた。
「申し訳ありませんが、現在、その職種では募集をしていません」
航平は目を閉じた。
責められたわけではなかった。以前の働き方を否定されたわけでもない。
ただ、空いていなかった。
「……そうですか。分かりました」
通話が終わった。
昼休みは、まだ少し残っていた。
航平はスマートフォンをしまい、今の会社の資料を開いた。
明日も、こちらの仕事へ行かなければならなかった。
*
数週間後、莉奈はスーパーの休憩室で給与明細を開いた。
差引支給額、六万三千円。
売り場の場所を覚え、商品を並べ、分からないことを何度も聞きながら働いた分だった。
最初は、短い時間だから何とかなると思っていた。
実際に働くと、帰宅してから座り込んでしまう日もあった。陸の迎えまでに買い物を済ませ、夕飯を考える。
和恵が迎えに行けない日は、自分の勤務と園の予定を確かめた。
誰かが代わってくれれば、その人にも予定があることが分かるようになった。
「莉奈さん、午後、品出しを一緒にお願いしていい?」
同僚の川島佳代が休憩室の入口に立っていた。
「はい」
「分からないところは聞いてね」
「佳代さん、ありがとうございます」
莉奈は明細を机へ置き、スマートフォンを開いた。
以前よく買っていたブランドのバッグが、画面に表示された。
六万八千円。
明細へ目を戻した。
一か月働いても、これ一つ買えない。
たった五千円の違いなのに、その間を埋めるためには、また働く時間が必要だった。
しかも、六万三千円をすべて買い物に使えるわけではない。
母へ渡すお金も、自分の生活に必要な物もある。
航平に、多めに生活費を入れてほしいと頼んだときには、出せないと言う彼を冷たいと思った。
今、同じことを言われても、自分もこの明細以上の金額は渡せなかった。
莉奈は画面を伏せた。
仕事用の軍手を手に取り、立ち上がる。
午後の仕事を、一緒に進める人が待っていた。
*
夜、航平のスマートフォンに、次の土曜日の予定が届いた。
千春からの文章は、以前と同じように簡潔だった。
迎えの時刻と、帰る時刻。それから、湊が外で遊びたがっていること。
航平は画面を見つめた。
もう、別の言葉が続くのを待ってはいけないのだと思った。
千春の家へ戻る返事ではなく、湊との約束への返事を書く。
『分かった。十時に迎えに行く』
送信してから、翌朝のアラームを確かめた。
部屋の電気を消すと、仕事のかばんだけが椅子の背で形を残していた。





