↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/16

第15話 買えなくなったもの

 実家の部屋には、莉奈が昔使っていた棚が残っていた。

 陸の着替えを引き出しへ入れると、自分の服をしまう場所は少なくなった。

 旅行かばんを閉じ、壁へ寄せる。

 ひとまず帰ってきただけだと思っていた荷物が、部屋のあちこちへ広がっていった。


 母の和恵は、莉奈の話を聞いた。

 航平の帰りが遅くなったこと。生活費が足りなかったこと。毎日同じ喧嘩をしていたこと。

 けれど、誠司のところへ戻れないなら、ここで何をするのかという話は避けられなかった。


 ある日、和恵が求人のチラシを置いた。

 スーパーの品出しスタッフ。日中の短時間勤務も可能と書かれている。


「買い物のお金までは、出してあげられないよ」


 莉奈はチラシを見た。

 母は追い出そうとしているわけではない。布団を用意し、陸の食事を作り、帰ってきた二人の分まで洗濯をしている。

 けれど、これまでどおりの暮らしを、そのまま渡してくれるわけでもなかった。


「……うん」

「お迎えは、できる日は行くから」


 隣には、五万八千円で買ったバッグがあった。

 買ったときは、生活費は残してあると航平へ言った。

 今は、そのバッグを持って出かける予定よりも、来月何にいくら必要かを考えなければならなかった。


 莉奈はチラシの電話番号へ指を置いた。


「まず、電話してみる」


 働くかどうかを、誰かへの不満として話していた時間は終わっていた。

 自分が働ける曜日と、迎えに間に合う時間を、母に確かめた。


     *


 航平と莉奈が選んだ部屋では、ベージュのソファに引っ越し業者の保護カバーがかけられていた。

 二人は離れた場所に立っていた。

 運び出す家具と、処分する物を確認する。あれほど楽しみにして買った物についても、今は費用と日程を話すだけだった。


「離婚の話、進めよう」


 航平が言うと、莉奈は少し間を置いてうなずいた。


「……うん」


 どちらかの元配偶者が受け入れてくれるなら、という条件は、もうつけなかった。

 千春も誠司も、戻ってよいとは言わなかった。

 二人が始めた暮らしを、二人で終わらせるしかなかった。


 その後、二度目の離婚が成立した。

 部屋を引き払い、航平は一人で暮らすための小さな部屋へ移った。

 食卓を置く場所を決めると、残る床はわずかだった。

 前の家のように廊下へ紙飛行機を飛ばす場所はない。

 荷物の中から仕事の資料を出し、明日の分を机へ並べた。


     *


 午後十一時。

 航平は仕事の資料を閉じ、以前の会社の採用ページを開いた。

 収入が減るとしても、前の働き方に戻れればと思った。

 通勤に使う時間が少なく、夕方に子どもを迎えに行けた。仕事が残れば、家で予定を調整できた。

 千春と暮らしていた頃は、その余裕がどれほど多くのことを支えていたのか、あまり考えていなかった。


 翌日の昼休み、人事の岡崎へ電話をかけた。


「高梨です。以前いた職種で、今、募集はありますか」


 久しぶりだという挨拶のあと、岡崎は少し待つように言った。

 航平は手元の仕事の資料を折らないよう、膝の上で持ち直した。

 戻れると言われたら、どう説明しよう。

 退職のときは、新しい環境で挑戦したいと話していた。


「申し訳ありませんが、現在、その職種では募集をしていません」


 航平は目を閉じた。

 責められたわけではなかった。以前の働き方を否定されたわけでもない。

 ただ、空いていなかった。


「……そうですか。分かりました」


 通話が終わった。

 昼休みは、まだ少し残っていた。

 航平はスマートフォンをしまい、今の会社の資料を開いた。

 明日も、こちらの仕事へ行かなければならなかった。


     *


 数週間後、莉奈はスーパーの休憩室で給与明細を開いた。

 差引支給額、六万三千円。

 売り場の場所を覚え、商品を並べ、分からないことを何度も聞きながら働いた分だった。


 最初は、短い時間だから何とかなると思っていた。

 実際に働くと、帰宅してから座り込んでしまう日もあった。陸の迎えまでに買い物を済ませ、夕飯を考える。

 和恵が迎えに行けない日は、自分の勤務と園の予定を確かめた。

 誰かが代わってくれれば、その人にも予定があることが分かるようになった。


「莉奈さん、午後、品出しを一緒にお願いしていい?」


 同僚の川島佳代が休憩室の入口に立っていた。


「はい」

「分からないところは聞いてね」

「佳代さん、ありがとうございます」


 莉奈は明細を机へ置き、スマートフォンを開いた。

 以前よく買っていたブランドのバッグが、画面に表示された。

 六万八千円。

 明細へ目を戻した。


 一か月働いても、これ一つ買えない。


 たった五千円の違いなのに、その間を埋めるためには、また働く時間が必要だった。

 しかも、六万三千円をすべて買い物に使えるわけではない。

 母へ渡すお金も、自分の生活に必要な物もある。


 航平に、多めに生活費を入れてほしいと頼んだときには、出せないと言う彼を冷たいと思った。

 今、同じことを言われても、自分もこの明細以上の金額は渡せなかった。


 莉奈は画面を伏せた。

 仕事用の軍手を手に取り、立ち上がる。

 午後の仕事を、一緒に進める人が待っていた。


     *


 夜、航平のスマートフォンに、次の土曜日の予定が届いた。

 千春からの文章は、以前と同じように簡潔だった。

 迎えの時刻と、帰る時刻。それから、湊が外で遊びたがっていること。


 航平は画面を見つめた。

 もう、別の言葉が続くのを待ってはいけないのだと思った。

 千春の家へ戻る返事ではなく、湊との約束への返事を書く。


『分かった。十時に迎えに行く』


 送信してから、翌朝のアラームを確かめた。

 部屋の電気を消すと、仕事のかばんだけが椅子の背で形を残していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

漫画版もKindleで配信中

イクメンの処刑日
~妻と子どもを捨てた男の末路~

漫画版 イクメンの処刑日 表紙

Kindle Unlimited対象作品
会員の方は、追加料金なしで
お読みいただけます。

千春と湊の物語を、漫画でもお楽しみください。

Amazonで漫画版を読む

『夫たちの処刑日』シリーズ

こちらの完結作品もどうぞ

食い尽くし夫の処刑日
~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~

全12話・完結済

妻と娘の取り分まで奪う夫。食卓で我慢を重ねてきた妻が、娘との暮らしを取り戻す物語。

インスタ夫の処刑日
~妻を悪者にして三十万人に愛された男の末路~

全13話・完結済

三十万人の前で「悪妻」にされた私。夫の嘘に傷ついた妻が、自分の言葉と暮らしを取り戻す物語。

さくらこの作品一覧を見る

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。