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第13話 断られたあとの部屋

 土曜日、誠司は約束の時間に喫茶店へ来た。

 航平の向かいへ座ると、先に用件を確かめた。


「陸は、家に送りました。それで、お話というのは?」


 航平はカップに触れず、誠司を見た。


「神崎さん。莉奈が、そちらに戻りたいと言っています」

「……そうですか」

「二人で、やり直す話になってるんですか」

「なっていません」


 即座の返事だった。

 それで安心すればよかったのかもしれない。

 けれど、莉奈の言葉も、たびたび来る連絡も気になっていた。


「でも、何度も会ってますよね」

「陸を迎えに行ったり、送ったりしていますから」

「それを口実にしてるんじゃないんですか」


 誠司が黙った。

 航平は、否定されなかったように受け取った。


「そちらから、戻ってこいと言ったんですか」

「いいえ。莉奈から、やり直したいと言われました」


 航平は息を止めた。

 戻れたらと思うこともある、というだけではなかった。

 本当に、相手へ頼んでいた。


「その場で断りましたけど」

「断った?」

「そのあとも連絡が来たので、同じことを伝えています」


 誠司がスマートフォンを操作し、画面を向けた。

 莉奈の名前と、見慣れた文の調子があった。


『もう一度だけ考えてほしい』


 その下に、誠司の返事が並んでいる。


『復縁するつもりはありません。陸の予定は、これまでどおり連絡してください』


 航平は画面から目を離せなかった。

 莉奈は、断られて家に帰ってきた。

 あの日、食材の袋を開けていたときには、もうこの返事を聞いていたのだ。


「……すみません。俺、何も知らなくて」

「本人に聞いてください。私から話せるのは、ここまでです」


 誠司はスマートフォンを戻した。

 妻を奪い返そうとしている男など、ここにはいなかった。

 陸との約束を守っている父親を、自分が勝手に疑って呼び出しただけだった。


 航平は目を伏せた。

 千春に、子どもたちも遊びたがっていたと言った自分の声が、嫌なほどはっきり思い出された。

 子どもを口実にしていたのは、最初から自分だった。


     *


「神崎さんと話した」


 夜、帰宅した航平が言うと、莉奈は食卓で顔を上げた。


「……勝手に?」

「復縁を頼んだんだってな」

「何て言われたの」

「断ったって。連絡も見せてもらった」


 莉奈が唇をかんだ。

 否定する言葉は出てこなかった。


「向こうがいいって言ったら、俺とは別れてたんだな」

「私、もう限界だったの」

「仕事も変えたのに、まだ足りないのかよ」

「それで毎日、私の話も聞かずに寝るじゃない」


 航平は食卓へ手をついた。


「もっと稼げって言うから、俺は……」

「もういい。その話、何回するの」

「お前が言ったんだろ!」


 大きな声が部屋に響いた。

 莉奈は航平から顔を背けた。

 以前なら、子どもが寝たあとに二人で座るのを楽しみにしていたソファが、今は視界の端で場所を取っていた。


「しばらく、実家に帰る」

「いつから決めてた?」

「母にはもう話した。陸も連れていく」


 自分と話す前に、帰る場所まで決めていた。

 航平は廊下を見た。奥に旅行かばんが置かれている。


「実家に帰って、それから?」

「離婚したい」

「向こうに戻れないのに?」


 莉奈がこちらを見た。


「あなたとも、もう嫌なの」


 航平は、すぐには言葉を返せなかった。

 誠司に断られたのなら、自分のところにいるしかない。

 そう考えていたことを、見透かされたようだった。


「ちょっと待てよ。離婚って言われても……」

「母が、迎えに来てくれる。明日、出るから」


 莉奈は食卓を離れた。

 航平は追いかけなかった。何と言って引き止めればよいのか、もう分からなかった。

 ただ、廊下のかばんから目を離せずにいた。


     *


 莉奈と陸が出ていくと、部屋は広く感じられた。

 床の積み木がなくなり、食卓の椅子を戻す必要もなくなった。

 帰宅しても、迎えで何があったかを聞かされることはない。


 航平はベージュのソファで弁当を食べた。

 テレビをつけていたが、内容はほとんど頭へ入ってこなかった。

 箸を止め、スマートフォンを見る。


『土曜日は十時に迎えで大丈夫? 湊、楽しみにしてる』


 千春からだった。


『大丈夫。迎えに行く』


 返事を送っても、その画面を閉じられなかった。

 過去のやり取りを、少しずつたどる。

 出かけた日の連絡、夕飯の相談、残業で遅れるという知らせ。


『お疲れさま。ご飯、残してあるよ』

『いつもありがとう』


 何度も届いていた言葉だった。

 もらったときには、もっと認めてほしいと思っていた。

 今は、その短い言葉さえ誰からも来ない。


 湊の誕生日の写真を開いた。

 ケーキの前で、三人が笑っている。

 千春が指についたクリームを気にして、撮り直そうと言った日の写真だった。

 湊が早くろうそくを消したがり、航平はこれでいいと笑った。


 あの家に帰りたい。

 思った途端、胸の奥が苦しくなった。

 湊のいる部屋へ帰り、千春に今日のことを話したかった。

 自分から、その暮らしを終わらせてほしいと言ったことは覚えていた。

 それでも、千春なら話を聞いてくれるのではないかと思った。


     *


 土曜日、湊を送り届けると、千春が玄関へ出てきた。


「ママ、ただいま!」

「おかえり。楽しかった?」

「滑り台、何回もやった」


 航平は息子の靴を見た。


「少し汚れた。帰りに拭いたけど」

「うん。ありがとう」


 その言葉が、昔と同じ調子に聞こえた。

 湊が家の中へ入ってから、航平は口を開いた。


「少し、話したいことがある」

「湊のこと?」

「いや、俺たちのこと」


 千春の顔から、さっきまでの笑みが消えた。


「別の日でいい。二人で話せないか」

「何の話?」

「やり直せないかと思ってる」


 千春は、すぐには答えなかった。

 家の中で湊が何かを動かす音がした。


「ここで、その話はしないで。湊に聞こえるから」

「……うん」

「日時は、あとで送るね」


 航平はうなずいた。

 会ってくれる。

 そのことだけを、帰り道で何度も考えた。

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