第12話 帰る場所の約束
「お母さん、少しそっちに帰ってもいい?」
夕方、莉奈は母親の大沢和恵へ電話をかけた。
航平はまだ仕事から戻っていない。陸は居間で遊んでいた。
「一人で?」
「陸も。あの部屋、まだ空いてる?」
「空いてるけど。どうしたの?」
莉奈は廊下へ出た。
「うまくいかなくて。毎日、お金の話ばっかり……」
「莉奈、この前結婚したばっかりじゃない」
分かっている。
その言葉を、誰より自分が思っていた。
幸せになると決めて家を出たのに、以前と同じように夫の帰りを待ち、以前にはなかった金の心配までしている。
「分かってるよ。帰ったら、話聞いてくれる?」
母はしばらく黙った。
「……分かった。布団は出しておくよ」
電話を切り、莉奈は息を吐いた。
少なくとも、帰れる部屋はある。
そう思うと、今の部屋を離れることが現実の予定になった。
けれど、実家でこれからずっと暮らしたいわけではなかった。
母に何から説明するのか。陸にどう話すのか。考えることは多い。
そんなとき、誠司と陸が発表会のあとで笑っていた姿を思い出した。
以前の家へ戻れれば。
陸も喜ぶはずだと考えると、その願いを自分だけの都合ではないように思えた。
*
陸を迎えに行った日、莉奈は誠司の家の玄関で足を止めた。
息子は奥の部屋で荷物をまとめている。
「少しだけ、話していい?」
「何?」
「陸、ここに来るの楽しみにしてる」
「俺も楽しみだよ」
誠司は、息子の上着を莉奈へ渡した。
前はこんなふうに、必要な物を確かめて持たせてくれただろうか。
今の彼なら、一緒に暮らしても違うかもしれない。
「帰りたくないって言ったりしない?」
誠司の手が止まった。
「……どうした?」
遠回しな言葉では先へ進めなかった。
莉奈は上着を抱き直し、顔を上げた。
「もう一度、三人で暮らせないかな」
誠司は黙っていた。
すぐに否定されなかったので、莉奈は続けた。
「前は、寂しいってばっかり言ってごめん。仕事、大変だったのにね」
「今の結婚はどうするんだ」
「誠司がいいって言ってくれるなら、別れる」
口にすると、誠司の顔が変わった。
「俺と別れて、あの人と結婚したんだろ」
「うん。だから、今度こそちゃんとする」
誠司は、視線を一度床へ落とした。
莉奈はその返事を待った。
失敗したことは謝っている。働いていた夫の大変さも、以前より分かったつもりだった。
今度なら、前と同じ間違いをしなくて済むかもしれない。
「……無理だよ」
短い答えだった。
「陸だって喜ぶと思う。一度、考えてくれない?」
「莉奈が俺を裏切ったこと、忘れられない」
莉奈は何か言おうとした。
けれど、誠司の目を見て言葉が詰まった。
陸に向けていた優しさを、自分にも向けてもらえると思っていた。
彼が今も傷ついていることを、十分に考えずに来てしまった。
「この話は、もう終わりにしてくれ」
奥から足音がした。
陸がリュックを背負って現れ、準備できた、と言った。
「……じゃあ、帰ろう」
莉奈は息子の手を取った。
玄関を出てからも、誠司が呼び止めることはなかった。
*
帰りに買った食材を食卓へ置くと、航平が尋ねた。
「今日、帰りが遅かったな」
「話が長くなったから」
「何の?」
「陸のこと」
莉奈は袋を開けた。
スマートフォンに、誠司から通知が来た。
『発表会の写真、送っておくね』
航平が画面へ目を向けた。
「最近、よく連絡が来るんだな」
「陸のことだから」
「今日も、そんなに話すことがあったの?」
「親なんだから、話くらいするよ」
航平は黙った。
その沈黙に、莉奈は袋を開ける手を強くした。
「……本当に、陸のことだけ?」
「何を疑ってるの?」
航平は、子どもの話を否定したかったわけではなかった。
自分も湊の迎えで千春と連絡を取る。
けれど、莉奈が誠司の名前を口にするとき、ただ予定を確認する以上の気持ちがあるように聞こえた。
それに、自分たちも最初は、子どもを理由に会っていた。
「そういう言い方するから、気になるんだ」
莉奈が食卓をたたいた。
「もう疲れた。お金のことか、あの人のことか、どっちかばっかり」
「じゃあ、俺は何を話せばいいんだよ」
「誠司とは、こんな言い合いにならなかった」
「また比べるのか」
「比べたくもなるよ。あっちに戻れたらって、思うことだってある」
航平は黙った。
莉奈は冷蔵庫へ向き直った。
背中を見ていると、そのまま別の家へ行ってしまいそうだった。
*
夜、航平は離婚のときに保存した誠司の連絡先を開いた。
莉奈は、戻れたらと言った。
向こうも、そのつもりなのだろうか。
二人の間で、自分の知らない話が進んでいるのではないか。
もう一度莉奈に聞けば、また口論になる気がした。
誠司に直接聞こうと思った。
『莉奈のことで、一度お話しできませんか』
すぐには返事が来なかった。
送った言葉を見ながら待っていると、画面が変わった。
『陸の件ですか』
航平は唇をかんだ。
子どもの名前が出るたび、かえって疑いが強くなった。
『莉奈から何を聞いているか知りたいんです。会って話せませんか』
返事は、土曜日、陸を送り届けたあとなら時間が取れる、というものだった。
航平は会う場所を相談した。
謝らなければならない相手だったことを、今は疑う気持ちが押しのけていた。





