シーン2:【覇王の甘すぎる庇護】「君はもう、誰の道具でもない」
毎日投稿チャレンジ挑戦中です。
20時に投稿しますので、よろしくお願いします。
コツリ、コツリ、コツリ。
開け放たれたマホガニーの扉の向こうから、重厚なブーツが石の廊下を踏みしめる音が近づいてくる。
その足音が一つ響くたびに、部屋の空気がピンと張り詰め、目に見えない巨大な圧力が空間を満たしていく。
メイドたちが弾かれたように立ち上がり、壁際へと下がって深々と頭を下げる気配がする。
絨毯の上に這いつくばったままの私の視界の端に、夜の闇を切り取ったような漆黒のマントの裾と、磨き上げられた革のブーツが入り込む。
「……何をしている」
頭上から降ってきたのは、地鳴りのように低く、威圧感に満ちた声。
ビクリと、私の肩が大きく跳ねる。
顔を上げることもできず、私は絨毯の毛足に額を擦り付けるようにして、さらに体を小さく丸め込む。
心臓が警鐘のように打ち鳴らされ、耳の奥でドクドクと血流の音がうるさく響く。
怖い。怒られる。
せっかく与えられた綺麗な部屋と服を汚して、床に這いつくばっている無様な姿。
祖国でザイードに見つかれば、間違いなく顔を蹴り上げられ、「目障りだ」と罵倒されていた場面だ。
「も、申し訳ありませんっ! 今すぐ、お仕事に向かいます! 地下室はどこですか!? 魔石の浄化でも、お水の生成でも、なんでもしますから……っ! だから、見捨てないでください!」
喉が引きつり、声が裏返る。
震える両腕で頭を庇い、必死に許しを請う。
私が生きるためには、役に立つことを証明しなければならない。
私の価値は、私の命の対価は、絞り出す魔力の量でしか測られないのだから。
「……下がれ」
頭上から、再び短い命令が落ちてくる。
それは私に向けられたものではなく、控えていたメイドたちへの言葉だった。
「かしこまりました」という衣擦れの音が響き、静かに扉が閉ざされる。
広い客室に、私と、圧倒的な覇気を纏う覇王の二人きり。
逃げ場のない密室。
ゆっくりと、彼のブーツが私に向かって一歩、踏み出される。
黒い影が、絨毯に這いつくばる私の体をすっぽりと覆い隠す。
(叩かれる……っ!)
私はギュッと目を閉じ、全身の筋肉を強張らせて、これから降ってくるであろう暴力と痛みに備える。
しかし。
いつまで経っても、私を打ち据える衝撃はやってこない。
代わりに聞こえてきたのは、微かな衣擦れの音と、カチャリという剣帯の鳴る音。
そして、私のすぐ目の前で、何かが床に崩れ落ちるような気配。
「……ルリア。もう、目を開けていい」
すぐ耳元で、甘く、驚くほど優しい声が響く。
先ほどまでの、部屋の空気を凍りつかせるような威圧感はどこにもない。
恐る恐る、震える瞼を薄く開く。
視界に飛び込んできた光景に、私は息を呑み、そのまま完全に硬直してしまう。
「へ……?」
私の目の前、ふかふかの絨毯の上。
あの猛禽類のように鋭い金眼を持つ精悍な青年――砂漠の帝国を統べる若き皇帝レオンが、片膝をつき、私と同じ高さにまで視線を落としていたのだ。
泥にまみれた罪人のように床に這いつくばる私に対して。
絶対的な権力者であるはずの彼が、自らの膝を折り、目線を合わせている。
あり得ない。
祖国の王族たちは皆、私を見下ろすことしか知らなかった。
高いバルコニーから、あるいは豪華な玉座から、路傍の石ころを見るような目で私を見下ろしていたのに。
「怯えさせてすまなかった。君が目を覚ましたと聞いて、急いで政務を抜け出してきたんだが……俺は元々顔立ちが厳つくてな。無意識に威圧感を与えてしまったらしい」
困ったように少しだけ眉尻を下げて、彼が苦笑する。
その表情は、砂漠で私を抱き起こしてくれた時の、あの温かいものと全く同じだ。
信じられない光景に、私の頭は完全に処理能力を超え、ただ口をパクパクとさせることしかできない。
「お、お仕事は……私、地下室へ……」
「地下室なんてない。君に浄化させる魔石も、こなすべきノルマも、この城には一つも存在しない」
レオンが、静かに、けれど絶対に揺るがない断固たる響きで言い切る。
「でも……! 何もしていない給料泥棒は、生きていてはいけないと、そう教えられてきました! 役に立たない私は、砂漠で干からびるべきだと……っ!」
パニックに陥った私の口から、ザイードに叩き込まれた呪いの言葉が次々と溢れ出す。
私が役に立たないから、婚約を破棄された。
私が地味でつまらないから、地下室に幽閉された。
だから、ここで何かをしなければ、また同じように捨てられてしまう。
必死に訴える私の両肩を、大きくて温かい手が、そっと包み込むように掴む。
「ルリア、俺の目を見てくれ」
静かな、けれど有無を言わさぬ声。
ビクリと身をすくめながらも、私はゆっくりと顔を上げ、彼の黄金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
そこにあるのは、私を評価するような打算の光でも、見下すような冷たい光でもない。
ただひたすらに深く、熱を帯びた、純粋な怒りと……痛切なまでの慈しみの色だ。
「よく聞くんだ。君は、誰の道具でもない」
一つ一つの言葉を、私の魂の奥底に刻み込むように、彼がゆっくりと紡ぐ。
「君を無能だと罵り、地下室で魔力を搾取し続けたあの国の者たちが、絶対的に間違っていただけだ。君が自分を無価値だと思い込んでいるのは、あの愚か者どもが君の心に植え付けた呪いでしかない」
「呪い……」
「そうだ。君は、息をしているだけで、そこに存在しているだけで、途方もない価値がある。俺たちの国に、これほど澄み切った清らかな水をもたらしてくれた、奇跡そのものだ。だから……」
レオンの大きな手が私の肩から離れ、ゆっくりと私の頬へと伸びてくる。
硬いタコのある、剣士の指先。
それが、私の頬を伝う冷たいものを、ひどく愛おしげに掬い取る。
自分が泣いていることに、私はその時初めて気がついた。
「もう、何もしなくていい。誰かのために命を削る必要なんてない。君はここで、ただ君自身の幸せのためだけに、自由に生きていいんだ」
その瞬間。
私の胸の奥底で何重にも巻き付いていた太く冷たい鎖が、カシャン、と音を立てて砕け散るのを感じた。
『役に立たなければ生きていけない』という、長年私を縛り付けていた呪縛。
それを、目の前の不器用で優しい覇王が、たった一言で完全に打ち砕いてくれたのだ。
「あ……ああ……っ」
喉の奥から、嗚咽が漏れる。
もう、堪えることができなかった。
両手で顔を覆い、私は子供のように声を上げて泣きじゃくる。
今まで流すことすら許されなかった、痛みと悲しみ、そして……あまりにも温かい救済への安堵の涙。
ポロポロと指の隙間から溢れ出す涙は、絨毯に染み込む前に、私の内側に満ちていた純粋な水魔力と共鳴し、キラキラと淡い青色の光の粒子となって空気中へと溶けていく。
「泣きたいだけ、泣けばいい。今まで君が堪えてきた分、すべて俺が受け止める」
レオンが再び両腕を伸ばし、床に突っ伏して泣き崩れる私を、大きな胸の中へとすっぽりと抱き寄せる。
鼻腔を満たす、サンダルウッドの落ち着いた香り。
硬い胸板から伝わってくる、力強く規則的な心音。
誰かにこうして、ただ庇護されるためだけに抱きしめられたことなんて、生まれてから一度もなかった。
「……っ、ありがとうございます……っ、ありがとう、ございます……!」
私は彼の漆黒のマントの胸元を両手でぎゅっと握りしめ、ただひたすらに感謝の言葉を繰り返す。
私がどれだけ彼の服を涙と鼻水で汚そうと、彼は全く嫌がる素振りを見せず、ただ黙って私の背中を優しく、優しく撫で続けてくれた。
窓の外からは、砂漠の国特有の、明るく眩しい太陽の光が降り注いでいる。
私の長く、暗く、冷たかった夜が、ようやく本当に明けたのだと。
彼の温かい腕の中で、私は確かな実感と共にそう理解していた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
ルリアのお返し(復讐)を「応援したい」と感じていただけたなら、
評価や感想を入れていただけると、とても励みになります。
あなたの応援が、この世界をもっと広げてくれます。
次回もぜひ、お会いしましょう。




