3.死者の帰る日(2)
部屋を照らす朝の柔らかな光で目を覚ましたマイラは、体中がぎしぎしと痛むことに気づいた。
硬い板の感触に気付いて起き上がると、ギルの治療をしながら床で寝入ってしまったことを思い出した。せめて暖炉前の絨毯で眠れば良かったと、体の痛みに耐えながら後悔する。
起き上がったマイラの隣で眠っているのは、包帯の巻かれた大きな犬だった。額から背中にかけては茶褐色をしているが、手足や腹は真っ白な毛に覆われている。その毛の模様もマイラの良く知るものだ。
ギルが帰ってきたのは夢ではなかったのだと、喜びで胸が震えた。
触れば起きてしまうかもしれないとは思ったが、目の前のギルが本物かどうか確認したくてそっと頬を撫でた。触れられた感触に驚いて目を開けたギルが、体を強ばらせてじっとマイラを凝視している。
「起こしてしまってごめんね。体は大丈夫?」
ギルの褐色の目を覗き込みながら、マイラが耳の後ろをゆっくりと何度も撫でると、気持ちがいいのかギルが目を閉じた。
「ちょっと傷を見せてね。包帯に血が滲んでるから取り替えるわ。ご飯はその後よ」
前足に巻かれた包帯を丁寧に取り外すと、短くなった毛の間から傷口が見えた。赤黒く血に染まった傷に薬を塗ると傷にしみるのか、ギルがくんくんと鳴いた。
鳴き声があまりに悲愴に聞こえたため、申し訳ない気持ちになったマイラがギルの頬を両手で包む。
「このままじゃ怪我が悪化してしまうから、我慢してね」
前足だけでなく、傷すべてに薬を塗り直したマイラは、ギルの横に腰を下ろす。
「ギルが死んでから、何度も帰って来て欲しいと願ったの。祭りが終わっても死者の国には戻らないで」
ギルの怪我に障らないように、傷のない額をマイラが何度も撫でている。ギルがちらっとマイラを見ると、マイラは微笑を浮かべてギルを見ていた。
傷の手当てを終えると、ギルの前に葉の野菜と芋のスープが用意された。ギルは余程空腹だったのか、がっつくように浅型の皿に前足をかけた。
スープが零れそうに見えて焦ったマイラは、急いで皿を横に避けると落ち着くようにと宥めた。
「ご飯は逃げないから、落ち着いて」
マイラは笑いながら皿を元の場所に戻すと、ハムを挟んだパンを食べ始めた。ギルはマイラのパンに興味を惹かれたのか、浅皿から離れて立ち上がるとマイラにパンをねだった。
「お祭りの間は家から出ないつもりだから、家でゆっくりしましょうね」
ギルは差し出された小さくちぎられたパンを食べると、手の平に当たる舌の感触がくすぐったかったのか楽しそうにマイラが笑った。
食事を終えた頃、玄関から扉を叩くような音が聞こえてきた。マイラは様子を窺っていたが、微かに聞こえてきた声に反応して立ち上がった。
「モニカだわ。ギルがいたら驚かせてしまうから、少しの間こっちで我慢してね」
ギルを隣りの台所へ移動させると、扉を閉めて玄関へと向かった。自分より別の相手を優先したことが気に入らないギルはピスピスと鼻を鳴らしながら、恨めしげにマイラの後ろ姿を見送っている。
「マイラ。起きてる?」
居間と作業場の間の扉を開けると、モニカの声がはっきりと聞こえてきた。
「今開けるわ。ちょっと待って」
扉を開けたマイラを見たモニカは、いつもと何かが違うと思ったが、そのまま勝手知ったる足取りで家の中へと入っていった。
お化け屋敷として知られたこの家に、初めこそ怖々とやって来ていたモニカだが、マイラが余りに平然と暮らしているのですっかり慣れてしまった。
建物自体は古いはずだが、整頓されていて清潔感があるため余りそれを感じることはない。むしろ落ち着いた雰囲気の部屋にそぐわないのは、今のモニカの方だ。
作業場を抜けて居間へと足を踏み入れると、低めのテーブルと木製の長椅子が一脚目に入る。マイラは部屋の隅に置いていた一人掛けの椅子を運ぶと、モニカに座るようにと勧めた。
「お酒は出ないの?」
薬草茶を盆に載せて戻ってきたマイラに茶化すようにモニカが声をかけると、呆れた顔をしたマイラはモニカの対面に腰を下ろした。
「お祭りで散々飲んでるんでしょう?」
「そうなのよ。おまけに食べてばかりいるから胃が重たいわ。今晩に向けて魔法薬をちょうだい」
モニカは無類の酒好きで、昨夜も祭りの酒を堪能したはずだ。更に今晩に向けて体調を万全にしておきたいと、マイラの魔法薬をねだっている。苦笑したマイラは作業場から魔法薬の瓶を持って来くると、モニカに渡した。
「マイラは祭りには行かないの?」
「酔っぱらいに絡まれたら面倒だもの」
確かにねと言いながら、モニカは去年の死者の祭りを思い出していた。
マイラの実家の祭りでも、大酒を飲んで体調を崩したり、二日酔いになる者を多く見てきた。恐らくこの町でもそうに違いないと、二日酔いや胃腸の薬を作って店を開けていると、酔っぱらった若い男達に店に押しかけられた。
受付用の台から内側へ入って来ることはなかったが、管を巻きながら店に居座られ随分と怖い思いをした。出て行って欲しいという頼みも無視され困り果てていたところで、通りがかった自警団が男達を連行していってくれた。
手酷い目に遭わされたわけではないが、一人暮らしの家に押し入れられたことは恐怖以外の何物でもなかった。
やっと戻った静寂にマイラがほっと胸をなで下ろしていると、事の顛末を誰かに聞いたのだろう。モニカが目を剥いて店に飛び込んできたのだった。
「あの時は本当に肝を冷やしたわ」
「話は通じないし何かされるんじゃないかと怖かったわ」
それまでは殆どの魔法薬をモニカの商会に卸して、店では細々と売ることにしていた。しかし、店を開いていると歓迎せざる客もやって来ることが分かったので、魔法薬はすべて商会を通して売ることに変更したのだった。
実のところ、マイラが北の町に住むようになってから、何度も男性の誘いを受けている。都会の町からきた見目のよい若い女ということで、当初は注目の的だった。
ところがマイラは警戒心が強く性格が頑なで、誘いをかけても言下に退けられるため、いつしか男性の人気はすっかり下落したのだった。
逆に今でもマイラを気にしているのは、浮ついた気持ちではなく本気でマイラに好意を持っている者なのだが、いつ見ても隙を見せないマイラに中々近づけずにいる。
「マイラを気にしてる人も結構いるのに、もったいないわね」
死者を迎えるための祭りではあるが、若者の間ではそれはすでに形骸化され、実際は若い男女が出会いを求めて参加する祭りになりつつある。年輩の者はけしからん振る舞いだと眉をひそめるが、世代間の意識の差は大きい。
隣の台所で息を殺して様子を窺っていたギルの耳がぴくりと動いた。顔を上げて二人の話に耳をそばだてる。
「実はマイラとの仲介役になって欲しいと、結構言われるのよ」
それを聞いた途端、マイラが眉間にしわを寄せた。
「そういうの困るの」
「嫌がるの分かってるから断ってるわよ。実は今日も祭りにマイラを連れ出して欲しいと言われてるの」
「行かないわよ」
そう返されるのが分かっていたモニカは、本当に頑なねと苦笑いした。
扉の開く音が聞こえたかと思うと、タタタッと軽快な足音とともに茶色の影が現れた。
駆けてきたギルは長椅子に座ったマイラの太ももに前足をかけて、不満を告げるようにキャンキャンと鳴いた。
突然現れた大きな犬に驚いたモニカは、思わず椅子から立ち上がると壁際へと身を避けた。
「ちょっと、これどこの犬よ!?」
「モニカって犬苦手だった? ギルは大人しいから怖がらなくても大丈夫よ」
ねぇとマイラがギルを覗き込むと、嬉しそうにギルが尻尾を振っている。マイラに撫でてもらうことをねだるように、すりすりと腕に顔をすり寄せた。




