灰色魔女と護衛男
地に転がったヴァルダスが振り返るのと、リリィが火柱に包まれたのは同時だった。
「リリィーッ!!」
ヴァルダスは絶叫した。
温もりがまだ腕に残っている。
ローブに包まれた身体は驚く程華奢で柔らかだった。
抱き共に駆けながら、こんな時だというのに意識してしまう己を恥じつつも、故にヴァルダスは怖かったのだ。
彼女を失いたくない。
名を叫び、ヴァルダスは荷から敷布を引き出して駆け寄った。自分を助けてくれようとした彼女を救おうと、何度も絡みつく炎に向かって叩きつけた。
だが、幾度となく繰り返し布を打ち付けても、ドラゴンの炎は全く収まる気配がない。
「……ル、ダス……」
燃えさかる炎からか細い声が聞こえ、よろよろと白い手が伸びる。その手を取りかけ、ヴァルダスはぐっと拳を握った。触れては彼女の皮が破れる。
「待ってろ、もう少しの我慢だ」
励ましながら布を振るい続けるヴァルダスに、
「もう……やめ、て」
とリリィは言った。
「諦めるな!」
ヴァルダスの叫びに、
「違……の……」
とリリィは炎の中で呟いた。
「……ヴァル……ダ」
「俺はお前を連れて帰る」
ヴァルダスの声に震えが混じる。
「帰ろう、リリィ。俺は……まだお前の事を知らない……」
だが、どうやっても炎は消せなかった。
ヴァルダスは唇を切れる程に噛み締めた。そうして次の瞬間に彼は火柱に飛び込むと、リリィの身体を包み込むようにして抱いた。
炎がヴァルダスに燃え移る。めらめらと音を立てながら全身に燃え広がり、その縮れ溶けるような激痛に呻き声が漏れる。
その頬に、そっと手が置かれた。ヴァルダスが見下ろすと、リリィが微笑んで見上げていた。解けた緑の髪が頬にかかり、その淡い灰の瞳は火の輝きを照らしきらきらと光っている。
ヴァルダスはリリィの瞳を見ながら何かを呟いたが、それは彼女の耳まで届かなかった。
近付くその顔にリリィは瞼を閉じて応えた。最初のそれとは全く違う、流れ込む熱い想いを受け取りながら、
(――馬鹿な人)
とリリィは思った。
せっかく助かったのに、わざわざこうして飛び込んでくるなんて。
馬鹿な人。
けれど、出会ったばかりだというのにこうして応える自分はきっと、彼を愛してしまっているのだ。
だからそろそろ種明かしをしないと。魔法に耐性の無い彼では、そのうち死んでしまうだろうから。
「――そうでしょう? ミスター・ドラゴン」
唇を離し、リリィは言った。
途端に、ぴたりと辺りが静まり返る。時間が止まったようだった。
「ヴァルダス、目を開けてみて」
リリィの優しい呼び声に、ヴァルダスはゆっくりと瞼を上げた。
彼は無傷だった。爪先一つ、髪の毛一本すら燃えていない。そうして、それは目の前の彼女も同じだった。
「これは……?」
信じられず身体を調べるヴァルダスに、
「私達が受けたのは、同じファイア・ブレスでも、幻覚効果のブレスだったみたい」
とリリィは言った。
「幻覚だということは受けた瞬間に分かった。けれどあなたのように普通の人は、気が触れて死ぬこともあるわ。
彼は本来攻撃的なドラゴンではなく、むしろ穏やかで陽気な気質。私達をからかいたかっただけ」
『ふぅむ。よう分かったな』
満足気な声と共に煉瓦色のドラゴンがゆっくりと全身を現す。その巨体は変わらず恐ろしげではあったが、よくよく見れば最初の印象とは全く瞳が違っていた。今は楽しげな光を宿している。
次の瞬間にはドラゴンの姿は消え、そこにいたのは一人の男性だった。長く赤い髪に浅黒い肌、額に小さなサークレットを付けているが、印象的なのは火のような色の瞳だった。
「久しぶりの客だったからな。楽しいもてなしをしようと思ったのだ」
「――楽しいだと?」
呆れた口調でヴァルダスが呟く。あれだけの苦痛を与えておきながらよくも言えたものだ。
「しかし、こうも早く分かってしまうとは思わなんだ。そなたは優秀な魔法使いだな」
「目が合った時に分かりました。私の魔法は透視の力ですから」
リリィは眼鏡を上げようとして、外れていた事に気付き戻した。
「そうか。その灰の瞳に心を読む力があるのだな。便利なものだ」
「いえ。あまりいい思いをしたことはありません」
目を伏せたリリィにドラゴンは不思議そうな顔をした。
「まあ良い良い。結果、合格したのだからな。
そなたらを我が屋敷に招待しよう」
そうして、洞窟内のお屋敷に招待された帰り道。
「――すっかり遅くなっちゃったわね」
薄暗くなりかけた山道を二人はドラゴンに渡されたカンテラを手に下っていた。泊まっていけと何度も言われたが、明日も早くから仕事だからとリリィは断り、こうして急ぎ山道を降りている。
「きゃっ」
ずるり。幾度目かに滑ったその身体を、すかさず逞しい身体が受け止める。
「ありがとう」
礼を言って離れようとしたが、ヴァルダスはその手を離してくれなかった。
「いい加減我慢の限界だ。危なっかしくて見ていられん」
初めから手を繋ぐべきだと言われていたが、リリィは大丈夫だと言い張っていたのだ。
「ここからは、このままで下るぞ」
握られたままの手にリリィは慌てた。
「私、自分の事くらい自分できるわ。足手まといにはなりたくないの」
「そうじゃなくて」
ヴァルダスは握った手に少しだけ力を込める。
「――俺がそうしたいのだ」
リリィは何も言い返せず、そのまま黙って二人は歩いた。
「あっれえ? カーマイルさん、届けられなかったの?」
リリィがいなかったため残業していた集荷課の二人が驚いたように二人を出迎える。不思議そうなフェントンの声に、
「いいえ、ちゃんと届けてきたわ。サインももらってきた」
とリリィは記録紙を見せた。
「じゃあ、一体全体何だって君はまだそいつを抱っこしてるんだい?」
ロイの言葉にリリィは苦笑いする。
「ドラゴンから『暫くはよろしく』って頼まれちゃって。この子、やっぱり私から離れようとはしなかったから」
「「何だってぇー!?」」
ピュルィ、ピュルィ!
抱っこ布から顔を出した子ドラゴンが、元気良く返事をする。青い瞳は餌で腹が膨らみ、たっぷり睡眠もとったため、非常に機嫌良さげに鳴いている。
「タマゴを置いていったのは、おそらく母ドラゴンだろうと聞いたわ。身体が病弱だったらしいから、父である自分に託そうとして途中で力尽きかけ、こうした手段を取ったのだろうと。
育て方を聞いたら意外と難しくなさそうだったから、一年約束で里親を受けたの。こんな機会滅多に無いでしょうし」
ピュルィ!
「滅多にって……」
「いや、誰も無いと思うよ……」
呆然とするロイとフェントンを尻目に、にこにことリリィは微笑む。その鼻には少しばかり歪んだ金縁眼鏡がかけられていた。
賑やかな集荷課を後にし、ヴァルダスはそっと外に出た。
仕事はこれで終わりだ。城に戻り、報告書の作成が待っている。
今日はなんとも貴重な一日だったと、ヴァルダスはゆっくりと歩みつつ思う。
幻覚魔法の感覚は勉強になった。この先どこかでまた受ける機会があるかもしれない。後で城の図書室で調べておこう。
ドラゴンの住む屋敷の造りもなかなかに面白かった。通常時と人間時とで間取りを分けて生活し、しもべは無給で奉仕していると聞いた。いつでも遊びに来いと言われたが、それはおそらく彼女に与えられた特権だ。
武人として、仕事としての一日を振り返りながらも、ヴァルダスの脳裏から彼女の姿が離れない。
キスに応じてくれたからといって、それが答えだとは限らない。
自分より多くの経験を積んできた相手に押しを通せるほど、ヴァルダスは世慣れていない。
これでいい。無事に帰って来れたのだから。
――自分の仕事は、これで終わりだ。
繰り返すと、その事実が風を伴いヴァルダスの胸に冷たく響いた。
「あら?」
ヴァルダスの姿が見えないことにリリィは気付いた。
黙っていなくなってしまうなんて、彼は自分の事を気に留めてなかったのかしら。
あのキスは、その場の勢いだけだったってこと?
そのままにしようか、と思った。そのまま互いに別れてしまえば、接点の無い者同士、互いの日常に戻るだけだ。
それが大人の付き合いというものなのかもしれない。
ヴァルダスのいない日常。
そう考えただけで、じくりと切なく胸が痛む。
今朝まではそれが当たり前だった筈なのに。
「ちょっと出てくる!」
リリィはドラゴンの子を抱いたまま外に飛び出した。
息を切らしながらも決して走る足を止める事はせず、夜の道をリリィは走る。
『この子の名付け親になってくれないかしら? 私ってそういうセンスが無いから』
『餌には魚が好物って聞いたけど、私釣りってしたことないの。あなたはある?』
『良かったら今日のお礼がしたいの。その、まだ何をするかは考えていないけれど』
他には何があるだろう。
何て言えば彼を誘えるかしら。
――どうしたら、魔法ではなく彼の心が分かるのかしら。
リリィはまだ知らない。
あの時炎の中でヴァルダスが囁いた、
「好きだ」
という一言を聞き逃したことを。
遠くに高い背を見つけ、リリィは笑顔で声を上げた。
<集荷チェッカー、リリィ おわり>
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
後日談として「リリィ・カーマイルの恋旅行」シリーズをはじめましたので、よろしければそちらでもお付き合いいただけることを願いつつ。