ファムは途方にくれる
オキタ村は山間にある犬耳族が暮らす小さな集落である。
村は自然に恵まれた環境にあり、木の柵の囲いの中には約四〇の家族が暮らしている。木こりや麦の栽培、牧畜、採集など、生活に必要な様々な営みが行われていた。自給自足の生活が基本であるが、孤立しているわけではない。他の犬耳族の村との交流も盛んである。
ちなみに隣の村の名前もオキタ村である。さらには、その地域に点在する村もオキタ村である。同じ名前でも微妙に発音が異なるため、区別はつく。しかし、犬耳族以外にその微妙な違いを聞き分ける事ができる者はいない。そのため、集落の住民は他の種族の者たちには単に『集落』と名乗ることにしていた。
集落の住民、ファミーム・オキタことファムは、茶色で柔らかい毛並みの大きなたれ耳を持つ少女である。
彼女は友人の少女、サムエイム・オキタことサム、少年のニック・オキタと一緒に長老の家に向かっていた。
二人は同じ年齢で、幼馴染である。
3人とも同じ姓であるが、親戚関係ではない。その証拠として、サムには真っ白で丸みを帯びた逆三角形のたれ耳を持ち、ニックもサムと同じ形の垂れ耳だが彼の毛色は黒色である。
しかし、小さな村の集落なので、血の繋がりがある可能性は高い。オキタという姓については集落の住民、周辺の村の住民も全員がオキタである。誰もがオキタという姓に誇りを持っている。
村の中心には、守護神を祀った石碑がある。石碑には古い言葉とされる短い文字が刻まれているが、読むことができる者はいない。石碑の周囲には菊が群生しており、黄色の花が咲いていた。
ファムたちは石碑の前でお祈りをしてから、長老の家に向かう。彼女の家はすぐ近くだった。
彼女たちは木の扉をノックして中に入る。
「おや、サムとニックも来たのかい?」
長老の声に3人は頷いた。長老は年老いた老婆である。灰色の毛並みの耳は途中で折れている。目が隠れそうな長い眉毛である。彼女は「ふむ」と頷くと、安楽椅子から立ち上がり棚から取り出した4つの木製のカップを机の上に並べた。そしてアイランと呼ばれるヨーグルトに水と塩を混ぜた飲み物を注いだ。4人は椅子に座ってアイランを口にした。鼻の下を白くして、笑いあった。
「今日の仕事は終わったのかい?」
老婆の問いかけにファムとサムは頷き、ニックはそっぽを向いた。
「朝にお父さんと、山菜採りに行ってきました」
「私は馬の世話です」
ファムとサムの答えに老婆は満足そうにうなずく。
「さて、ファムを呼んだのはほかでもない。うちの集落のリリーと隣村のシュンのことだ。二人のことは知っているね」
ファムは頷く。リリーは今年16歳になる娘だった。黒く澄んだ瞳には清らかさがあり、彼女の微笑みは村の若い男たちを魅了した。さらには社交的で明るい性格のため、村の男たちから大人気だったが、特に村一番の力持ちのチッチと仲が良かった。二人が結婚することは時間の問題だと思われていた。
そんな彼女に隣村のシュンと尻尾の匂いをかぎあったという噂が立った。現在の若者は恥ずかしがってする者はいないが、これは犬耳族における古風な婚約の儀式だ。
この事についてリリーもチッチもシュンも何も話していない。しかし周囲には怒り出す者もいて、村同士の関係がギクシャクしはじめた。
「ファムも9歳になった。お前にはおだやかな性格と正しい事を見抜く感性がある。ここはひとつ、お前に裁定者になってもらって、今回の諍いをおさめてもらいたい」
その言葉に3人は驚く。
普段、長老が村の者へ直接依頼をすることはない。水くみなどの小さな事を子どもたちに頼むことはある。しかしこういった大きな頼み事をする時は、気持ちとして村長に伝え、村長は村役たちと共に解決策を練る。
村の運営は村長と村役によっておこなわれている。村長はみんなの遠吠えの大きさで、村役は当番制で選ばれる。長老は治す者として集落を見守り、村長をはじめ村役たちに助言を与える存在だった。
長老からの直接の依頼を受ける者は彼女の後継者のみだ。ファムは9歳にして長老の後継者として選ばれたことになる。彼女はびっくりして返事をすることができなかった。
「この話に関しては、村長や村役、お前の父親にも話は通してある。迷ったり、困ったことがあれば相談すればいい。大人たちは決してファムを一人にはしない。だが、最後はしっかりとお前が考えるんだ」
長老はファムの不安を拭うように付け足した。そして話を続ける。
「明日の夜、パウの儀をする。色恋沙汰だけではない。村でおこっていることをしっかりと見極め、正しく考えたことを伝えるのだ」
集落ではいざこざが生じた時、その解決のために、第三者の立場から二人の裁定者が選ばれる。そして、パウの儀が行われ、その結果、二人のうち一人の意見が採用されるのだ。
パウの儀は、集落の調和を取り戻すための重要な儀式である。集落の者は、この儀式のもとで公正な裁定が行われることを信じている。この儀式により、これまでも幾度となく、争いや対立を解決し、進むべき道を照らし、集落全体の安定を保ってきた。
「今回のもう一人の裁定者はシュンの村から選ばれることになる」
ファムはやはり返事をすることが出来なかった。リリーはファムにとっていろいろな事を教えてくれ、困ったことがあったら助けてくれる優しいお姉さんだった。姉妹のいない彼女にとって、唯一の「お姉ちゃん」と呼べる存在だった。そんな彼女の恋に自分が踏み込んでもいいのだろうか。そして、裁定者と言う役割を果たすことが出来るのだろうか。不安だった。
そんな彼女の手をサムが握った。小さい手だが、暖かな体温に包まれた。
「長老さま、私もファムを手伝ってよろしいでしょうか?」
彼女の言葉に長老が満足そうにうなずく。
「サムエイム、あなたもファムと一緒に行動して、正しいことについて考えて見るといい」
「はいっ」
サムが元気よく返事をした。その声にファムも頑張ろうと覚悟を決めた。
「長老様、裁定者のお役目、受けてみます」
「そうか、そうか」
ファムの言葉に長老が優しい微笑みを浮かべた。
しかし、彼女らの中で一人、ニックは満足していなかった。
「けっ、どうしてこんなチビ助なんかにそんなお役目をやらせるんだ! どうせなら、俺のほうが上手く解決してみせるぜ!」
ニックは立ち上がってアイランを一気に飲み干した。
「長老さまになんてことを! それに、一気に飲むとお腹が痛くなるって!」
サムがニックを咎めた。だが、ニックは止まらなかった。
入り口の扉を勢いよく開く。そして木製のフライングディスクを取り出した。思わず、3人の耳がピクリと動き、尻尾が緩く揺れる。
「ニックやめてっ!」サムが叫んだ。
「それっ! 取ってこいっ」
ニックがフライングディスクを投げた。美しい軌道を描いて飛び去っていく円盤に、ファムとサム、二人の犬耳族としての本能が抑えきれなくなった。
二人は二匹となって円盤を追いかけて駆けていった。そして、その後ろをやはり本能に目覚めた長老が追いかけた。
集落の片隅に一つだけ木組みの独房がある。ニックはそこへ一晩入れられることになった。
長老は腰を痛めて寝込むことになった。
集落には3つの厳しい掟がある。
一つ目は、地中に食べ物を埋めてはいけない事。以前、食べ物を地面に埋めて隠す習慣が流行し、村人たちはこぞって地面を掘り起こして食べ物を隠した。その結果、誰が隠したものか分からず、また、埋めた者も隠し場所が分からなくなってしまい、放置されて腐敗した食べ物の匂いが村に充満した。そして周囲の村からは呪われた村として噂されるようになったのである。
一つ目の掟にはファムも苦い思い出があった。数年前、父親に魚の形をした木彫りのおもちゃをプレゼントしてもらった。ファムは嬉しくて、こっそりと隠しておこうと考えた。おもちゃなら地中に埋めても大丈夫だろうと考え、誰にも見つからないように裏庭に穴を掘った。思ったより大変な作業だったので、おやつの干し肉を食べながら作業をした。掘っていくうちにサムやニックの大切なものも隠せるようにしようと考え、さらに深く穴を掘り続けた。子供の身長が隠れるくらいの深さになったが、彼女は満足しなかった。結局、穴掘りは一日では終わらず、その日は、穴をわらで蓋をして見つからないように土をかけて作業を終えた。余っていた干し肉も穴の中に入れておいた。次の日、彼女の母が洗濯物を干そうとしてその穴に落ちた。ファムは父と山菜採りにでかけており、母も娘がそんなに深い穴を掘るとは思っていなかったので、ちょっとした騒ぎになった。その結果、父親は幼い彼女の代わりに一晩独房に入ることになった。ファムは独房の前で泣いて一晩を明かすことになった。
二つ目は、人前で爪楊枝を使って歯の隙間を掃除してはいけない事。歯を見せて「しーしー」する行為は、犬耳族にとって牙を剥いて威嚇する行為に見える。かつて、村で宴会が開かれていた時、一人の者が爪楊枝で歯の掃除を始めると、それを見た他の者が勘違いをして威嚇行動をとった。それが瞬く間に伝播して、村中の者が威嚇行動をとりあった。宴会は中断され、村の者は朝まで睨み合いを続けた。そのときに村を訪れていた商人たちによって呪われた村として噂された。
二つ目の掟にもファムには苦い思い出があった。これも数年前の出来事だ。彼女の両親は普段から仲がいいが、特に数日毎に二人がくっつきあって、ものすごく仲良くなる日がある。彼女もその中に加わりたかったが、そういう日に限って何故か早く寝かされた。その日も早く寝るように言われたが、歯に挟まったものが気になってしまい、つい、両親の前で「しーしー」をしてしまった。そのあと、両親は夜通しで威嚇行動を取って睨み合い、翌日、彼女の家の者が洗濯場に現れないことを気にして様子を見に来た隣人まで威嚇行動に加わり、ちょっとした騒ぎになった。その結果、父親は幼い彼女の代わりに一晩独房に入ることになった。ファムは独房の前で泣いて一晩を明かすことになった。
そして三つ目が、集落の柵の内側でフライングディスクで遊んではいけない事である。ある祭りの際にフライングディスクを使った遊びが提案され、採用された。そして村に大量のフライングディスクが持ち込まれた。これに興じた村人たちは興奮しすぎ、抑制を失ってしまった。その結果、畑は踏み荒らされ、家畜は逃げ出してしまった。集落の貧困を知り救援に駆けつけた教会の者があまりの惨状を見て、やはり呪われた村として噂が広まった。
この三つ目の掟にもファムには苦い思い出があった。数年前、父親に手製のフライングディスクをプレゼントしてもらった。自分で投げて自分で掴むという遊びを繰り返していると、いつの間にか、それを見た村の人たちも参加して、ちょっとした騒ぎになった。その結果、父親は幼い彼女の代わりに一晩独房に入ることになった。ファムは独房の前で泣いて一晩を明かすことになった。
全ての掟を破ったのはファムが始めてである。彼女は「悪い犬」として村中から恐れられたが、今では裁定者として選ばれるまでに成長した。
今回のニックの独房入りは、彼が9歳の少年とはいえ、ある意味当然の結果と言えた。
リリーの件については、ファムとサムの二人で調査することになった。
二人はまず、リリーの家に向かうことにした。彼女の家はファムの家の隣である。
村では早朝から午前中にかけて仕事をする。今は仕事を終えた者たちの午睡の時間帯で、静かだった。出会った人との挨拶ものんびりとしたものだった。
扉を叩くと彼女の両親が現れ、リリーを呼んでくれた。
秘密の会話なので、リリーと一緒に外へ出た。村の端を流れる小川の畔へと向かった。その場所は午前中の時間帯には洗濯や洗い物で賑わうが、今は誰もいなかった。三人は無造作に置かれた椅子に腰をおろす。リリーが家から持ってきたりんごを配り、3人で頬張った。糖度が高く美味しかった。しゃりしゃりとした食感も心地良い。
季節は晩秋から冬へ移り変わろうとしていた。間もなく雪が振り始め、集落は春まで閉ざされた世界となる。しかし、今日はいつになく暖かく、穏やかな天気だった。
「まさか、ファムが裁定者に選ばれるなんてね」
リリーがいたずらっぽく笑った。リリーは長いたれ耳をしている。耳を覆う白い毛は柔らかく細い髪質で、櫛で梳かすとふわふわになる。ファムはリリーと二人でよく髪と耳の毛を梳かしあった。そしていっぱい話をした。リリーがシュンと結婚すると隣の集落に行ってしまう。そうした機会は失われてしまうだろう。ファムは悲しい気持ちになった。
「お姉ちゃんはチッチと結婚しないのですか?」
「うーん、いきなりその質問かぁ……」
彼女は困ったように空を見上げて呟いた。サムが意を決したように彼女の横顔を見つめた。
「リリーは、その、チッチとエッチなことをしたことがあるの?」
「キャー、チッチとエッチとか。サムはおませさんなんだからっ!」
リリーがサムを肘でついた。そして暫くの間、3人で突っつきあい、頬に手を当ててキャー、キャーと騒いで盛り上がった。
「した。チッチとした」
リリーが真面目な顔に戻って言った。ファムとサムが息を飲む。
「その時に、チッチが街で暮らしたいと言った」
犬耳族には3つの生き方があるとされる。それは、街犬、村犬、そして野良犬である。
村の男子は15歳になると、「おかげ犬」として社会勉強のために集落を離れて1年間を過ごす風習がある。おかげ犬の持ち物は首からぶら下げた巾着に入ったお金のみという厳しい試練だった。
この期間は、彼らが自らの生き方を選択するためのものである。尊敬できる者や、魅力を感じる者に仕えることを望む者は街犬を選ぶ。一方、村に戻って集団で暮らすことを好む者は村犬となる。そして、野良犬として自由な生活を望む者もいるのである。多くの者が街犬や村犬を選ぶが、中には野良犬を好む者もおり、その決断には年長者たちも苦悩していた。
かつて、旧帝国が世界を支配していた時代には、おかげ犬は男女を問わずの修行だった。その帝国は幾多の種族や文化を受け入れ、寛容で拡張性に富んだ国家であった。歴代の皇帝の中には犬耳族の皇帝もいた。犬耳皇帝の尊称で知られる皇帝もまた、その一人であり、50年にわたる長き治世で戦乱や内紛を回避し、平和な時代を築いた賢明な統治者として讃えられた。そして、彼の血を引く者たちが、ミグルットの街の四摂家の一つであるワンランド家として知られている。
旧帝国の末期は、日刊内紛、週刊防衛戦、月刊新皇帝誕生の状態だった。
寛容性ゆえに旧帝国は内紛を抱え続け、東西の広大な支配地域を失って小国となり、滅亡した。東には魔族が支配する魔王国が生まれ、西には人族が支配する現在の帝国が生まれた。魔王国は他種族に対して比較的寛容であるが、それでも旧帝国の人種の坩堝を思わせるような寛容さはなく、1つの種族が支配する不寛容な国家となり、犬耳族は世界の辺境へと追いやられたのである。犬耳族が女子を一人で街に向かわせることはなくなった。それはまた犬耳族も寛容性を失ったのだと嘆く者もいた。
「チッチは浅葱色の腕輪を誰にも見つからないように着けている。私には街の暮らしでも大丈夫だと言ってくれたけど……」
リリーが言い淀んだ。犬耳族は生涯をかけて仕えるべき主人を見つけると、浅葱色の服や装飾品を身につけるのだ。チッチは自らが仕える人を見つけたといいう事だ。それを聞いたファム達も、彼が街へ行きたいという気持ちを抑えることはもはや不可能だと思った。
だが、集落で暮らそうとする村犬にとって、その感覚は理解しがたいものでもあった。リリーは不安だったのだ。その気持はファムにもよくわかった。恋人でもなく、お父さんやお母さんよりも大切な人がいると言うことがよく分からなかった。
「それで、リリーはシュンとエッチなことをしたことがあるの?」
サムが聞いた。うずうずとしていて、あふれる好奇心を隠しきれていない。
「キャー、サムは相変わらず、おませさんなんだからっ!」
再び、リリーがサムを肘でついた。そして、3人で突っつきあい、頬に手を当ててキャッ、キャッと騒ぎあった。
「していない。本当はチッチのことが好きだから」
リリーの返事にファムの胸が締め付けられた。だが、なんとなく本当のことであり、嘘でもある気がした。
「お姉ちゃんは、シュンのことも好きなのでは?」
ファムの言葉に虚を疲れたようにリリーの動きがとまった。
「最初は街の話を聞くだけだった。チッチが行きたいところは彼がおかげ犬で行ったところだったから。でも……、でも、彼は優しくて、そして私と同じ思いを共有していて、穏やかな集落の匂いがして」
チッチは街犬。だけど、リリーは村犬。そしてシュンも村犬だ。
リリーは迷った挙げ句、自分がどこにいるのか分からなくなってしまったようだ。
ルナがいれば良かったのにと、ファムは思った。ルナはリリーより一つ年下で小さく尖った三角の耳を持つ娘だ。
ファムにサムがいるように、リリーにもルナという大親友がいる。彼女がいればリリーは悩みを打ち明けることができたはずだ。しかし、彼女は病気で家の外へ出ることが出来なかった。見舞いには行けても、このような内容の会話はできない。
ルナの病気は守護神による試練である。
集落は守護神の加護により守られている。その加護のおかげで、集落は平和で穏やかな日々を過ごすことができた。しかし、その代償として守護神は集落の者を一人選び病気にする。
病気の期間は決まっていないが、4年間ぐらいだと言われている。この病気は治癒するものの、その後、また別の者が守護神に選ばれて病気にかかった。
病気を克服した者には『壬生狼』という上級の職業につくことができた。
ルナはまもなく病気を克服すると言われているが、ファムも早く元気な彼女の姿を見たかった。