3-8 帰路
ネイサンに案内されたその場所は、ディルが知る酒場のイメージとはおよそかけ離れていた。
天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが、広くその空間を照らしている。
そこは、二階までが吹き抜けとなった円形のホールだった。並ぶ白い柱と群青色のビロードのカーテンが外周を囲い、床は白と黒が彩る幾何学模様のモザイクタイルで敷きつめられている。
ホール内には、群青色のクロスがかけられたテーブルや籐椅子などが余裕をもって並べられ、そこには両手の指で数えられる程度の客の姿が見られた。
話し声こそ聞こえども、喧騒や熱気などはない。ディルからすれば、酒場と呼ぶにはなんとも奇妙な空間だった。
ディルは周囲を見回すと、思わず呆れ、そして苦笑する。
「やっぱ、俺みたいのが来るとこじゃねえな」
「あちらです」
ネイサンが円形のホールの中央を指差す。
彼が示す先には、一際目を引く人の背丈の倍ほどはあろうかという、美術品とも工芸品ともつかないような物体が設置されてあった。
箱の枠組みだけのような鉄柵に囲われた巨大なそれは、その枠組みの中に大小異なる大きさの環状の歯車が組み合わされた機械で、それぞれの歯車は絶えず動き続けている。また、機械の上部には複数の鐘が掲げられ、下部には金属製の錘がロープで吊り下げられていた。
ここに来てからずっとコトコトと何かが鳴っていたが、どうやらその正体は、この機械が発する音のようだった。
そんな大きな機械の前にあるテーブル席に、男が一人座っていた。
「ネイサン、馬車を用意しておいて」
「かしこまりました」
ネイサンへ命じると、クローディアは靴音を立てながら、つかつかと男のもとへと向かっていく。
ネイサンは残った三人に一礼すると、反対の元来た方へと姿を消した。
ヴァレルは、立ち止まったままクローディアの様子を眺めている。ディルとフィオリトゥーラもその場に留まり、とりあえずその動向を見守った。
「ここ酒場だろ? 随分と人が少ねえんだな」
ディルがヴァレルへと訊ねる。
「誰かの紹介なしには入れない店だからな。それに、ホールでなく周りにある個室を使ってる客も多い」
言われてみれば、柱と柱の間の向こう、カーテンの奥からもかすかに人の気配が感じられた。
中央に視線を戻すと、丁度クローディアがこちらに向けて手招きしていた。彼女の横にいるレディシスと思われる人物は、まだ椅子に腰かけたままだ。
「それじゃあ、俺はそろそろ退散するぜ。あいつとはどうにも馬が合わないんでな」
唐突にヴァレルが言った。
「まあまた会えるだろう。どうせなら、さっさと〝A〟まで上がって来いよ」
「簡単に言ってくれるね。だけど、その頃にはもうあんたは〝ガーデン〟で闘ってるんじゃねえの?」
「さあな。そう簡単でもないだろう」
笑顔を見せるヴァレルにディルも笑みを返し、フィオリトゥーラも感謝の意を込めて一礼した。
「それじゃあまたな」
ヴァレルは歩きだし、その巨大な背中が、ホール端にあるカウンター席へと遠ざかっていく。
「よし、行くか」
ディルの隣で、フィオリトゥーラがうなずいた。
二人がクローディアのもとへ到着すると、籐椅子に深く腰かけていた男が、手にしていた金属製の足つきコップを、静かにテーブルの上へと置いた。
男にしては長い肩まである栗色の髪が、優雅に緩やかなウェーブを描いている。
色白で線の細い男だった。
少し垂れた目は睫毛が長く女性的でもあるが、顔全体を見ればそういった印象はない。精悍とはいえないが、秘めた力強さを感じさせる整った顔立ちをしていた。
――こいつだ、間違いない。
ディルは自らの記憶の中にある一人の剣闘士の姿を、目の前に座るこの男に重ね合わせ、そして確信した。
「この二人だ」
クローディアが言うと、男はまずディルを見て、次にその少し後ろに控えるフィオリトゥーラへと視線を移す。すると、その目が唐突に大きく見開かれた。
「素晴らしい……」
すかさず立ち上がると、男はフィオリトゥーラに向けて片膝をついて、うやうやしく礼をする。なかなか風変わりな洒落た服装をしていた。
上品なモスグリーンのチュニックは、袖が極端に大きく広がったフレアスリーブとなっていて、ベルト下のスカート部分は左右の長さが異なるデザインに仕立てられている。非対称のスカートの短くなっている左腰の方には、ディルのシミターに似た曲刀が下げられていた。
「レディシス・ムーンライトと申します。まさか貴女のような方にお会いできるとは、この聖地での殺伐とした生活も捨てたものではない」
フィオリトゥーラは一瞬戸惑いを見せたものの、すぐに微笑み、そして軽く礼を返した。
「光栄です。フィオリトゥーラ・ランズベルトと申します」
ディルはわずかに振り向き、そんな彼女を横目でちらりと見た。
彼女のレディシスへの対応には、どこか普段と違う手慣れた様子が見受けられるような気がした。ラスタート貴族たる彼女は、こういった類の者のあしらいには慣れているのかもしれない。
レディシスは、顔を上げてからゆっくりと立ち上がると、あらためてフィオリトゥーラの姿を眺めだす。
その視線は、まず背負われた両手剣へと向かい、そこから活動的なチュニック姿の彼女の服装を見るべく、襟元から足先まで移動していくと、最後はまた上に戻って、しばらくフィオリトゥーラの顔で留まった。
レディシスは目をつむると、はあ……、と深い吐息をもらす。嬉しいのか悲しいのかよくわからないような、切なげな表情をその顔に浮かべていた。
「実に素晴らしい……。その勇ましい恰好も素敵ではあるが、相応のドレスをまとえばさらに比類なき華麗さが見られることだろう」
感動した様子でレディシスが語りだす。
「ドレスは深緑、いや赤がいいか。ふうむ。白金の髪、瞳の色も奇跡としかいいようがない。まさに珠玉の芸術品だ。聖地での筆頭といえば、世にも名高き第三皇女アギネス様かと俺も疑わなかったが、まさかこのような方が埋もれていようとは……」
「おい」
レディシスの隣から、冷めた視線を向けたクローディアが声をかけた。
「急いでるって話しただろ?」
「ああ、悪かった。いいよ、馬車を出そう。フィオリトゥーラさんの力になれる機会があるというならば、それを断る理由などあろうはずもない」
そこでディルが、一歩前へと出る。
「悪いね。俺はディル。四の刻までに戻るって仲間と約束しちまったんだ」
レディシスは一瞬眉間にしわを寄せ、あからさまに表情を渋くさせると、今度はディルの姿を興味なさげに眺めはじめた。
「……ふむ。君も悪くはない、かな。そこらに転がっている石ころが自然の力で荒々しく磨かれてマシになったという程度だが、うん、悪くはない。道端に生えた雑草にしては、見過ごせない何かは感じる。君は彼女の従者かい?」
ディルは呆れ、思わず眉をひそめる。
褒められているのかけなされているのかもはや理解不能だったが、まともな会話は期待できそうになかった。
「……ああ。まあそんなもんだ」
答えながらディルは、クローディアがプレシャスの部屋で言っていた言葉を思いだした。
――フィオリトゥーラを連れていけば、喜んで馬車を走らせるだろう。
その言葉が意味するところはなかば予想できていたとはいえ、なるほどねと思いつつ、ディルもまたクローディア同様に冷ややかな視線をレディシスへと向ける。
フィオリトゥーラはと見れば、彼女もまた何かしら思うところがあるのか、控えめながらも警戒するような様子を隠さなかった。
そんな彼女にクローディアも気がつく。
「ああ、安心していい。こいつは別に女好きってわけじゃない。ちょっと変わり者でね。人も美術品の一環ってところらしい。言ってることを適当に聞き流していれば、思いのほか無害な生き物なんだ」
隣であからさまにそんな風に言われても、レディシスはまるで意に介していないようだった。
「クローディア、それは少し違う。絵画も彫刻も素晴らしいものだが、俺は人の造形こそこの世で最高の芸術品だと考えている。さらに言えば、女性の造形のそれに敵うものはない」
そう語る彼の眼差しは揺るぎなく、思わず呆気にとられてしまうフィオリトゥーラだったが、剣闘士や剣に強い関心を見せるディルと今のレディシスの姿にどこか重なるものを見て、なんだかそれが微笑ましくも感じられた。
「四の刻か……」
レディシスは呟きながら、テーブルの前にそびえる歯車が組み合わされた大きな機械を見上げた。
「行き先は?」
「東部十番区だ。もう間に合わないのはわかってるけど、なるべく早く着きたい」
「十番区、第七教会の先ぐらいか……。〝十三時〟の鐘が鳴ってからまだそう経ってない。今からすぐ出れば、なんとか間に合うかもしれない」
「十三時?」
聞き慣れない言葉を耳にして、ディルが聞き返す。
「ん? ああ。こいつは一日を二十四の時刻に分けて報せてくれる。三の刻と四の刻の丁度間の時刻には十三回目の鐘が鳴る。それが〝十三時〟だ。君たちがここに現れる直前に鳴っていたよ」
レディシス同様に、ディルもその機械を見上げた。今も変わらずコトコトと音を立て歯車がゆっくりと動いている。
「なるほど。これは、時計だったのですね」
フィオリトゥーラもまた、二人と視線を同じくする。
時刻を示すための時計は極々希少な物で、彼女は一度だけ母国の教会で同様の機械を目にしたことがあったが、それは今目の前にある時計とはまた違う形状をしていた。
「へーえ。これが時計ってやつか」
ディルも時計の存在こそ知ってはいたものの実物を見たことはなく、大教会など限られたわずかな場所だけに設置されている時刻を示す機械、という程度の認識しか持っていなかった。
ディルは物珍しそうに時計を見つめるものの、それほど関心があるというわけでもなく、すぐに視線をレディシスへと戻した。
レディシスの言うとおりであれば、今は三の刻と四の刻の中間を少し過ぎた頃ということになる。
「間に合うって本当かよ?」
ディルの感覚からすれば、それはとても信じがたかった。ここが本当に北部七番区だとした場合、単純な距離だけで考えても四の刻までの到着はまず不可能で、ましてや途中で関所を抜けなければならないため、その手続きでさらに余計な時間もかかってしまうはずだった。
「さあね。急ぐのだろう。とりあえず外に出ようか」
大きな両開きの扉を抜けると、眼下に北部の街の風景が広がっていた。この「憂鬱な待ち人」は、小高い丘の上にあり、ここからは環状路付近の街並みが一望できる。
右手には、旧街区からも見えた東部と北部を隔てる城壁の姿が確認できるが、ともすればその壁の天辺よりもこちらの方が高所に位置しているかもしれなかった。
北部七番区は東部の旧街区とは壁を挟んだ向かい側に位置する街だが、東部側のすり鉢状の地形とは異なり、こちらは第三環状街の中でも一段高い場所にある。
そのためか、壁に面した街区にしては珍しく、ここは北部でも有数の高級住宅地となっている。
店の前庭は広場となっていて、中央にある大きな噴水を石畳の広々とした道がぐるりと囲んだ、駐車場兼ロータリーとなっている。路上には何台かの馬車が停められ、待機している御者や従者の姿なども見られた。
その中で、一際目立つ馬車があった。
黒々とした青毛馬に繋がれたその馬車は全てが黒塗りで、客車はしっかりとした造りのわりに余計な装飾の類がほとんど排され、のっぺりとした独特な外観をしている。
馬車の脇には、支配人のネイサンが姿勢よく直立し控えていた。
レディシスはその姿を見つけると、両腕の大きなフレアスリーブを優雅にたなびかせながら、颯爽と黒塗りの馬車へと向かっていく。
「あいつは変人だけど、剣術と馬車を操る腕に関してはそれなりだから安心していいよ」
クローディアが、レディシスの背を目で追いながら言った。
「そっちの事情はよくわからないけど、まあ頑張るんだね。ディルは苦手だろうけど、全て終わったらまたここに来るといい」
クローディアが優しく微笑む。あまりにも最初の印象とかけ離れた彼女を見て、ディルも笑みを返す。
「しかし、何か口止めとかしなくていいのか? 俺らが気にせず〝賢者〟の話をそこらでしちまって、その後で何かあるとか勘弁してくれよ」
「それなら大丈夫だ。プレシャスは人を見る。あいつが何も言わなかったのなら、それは好きにしていいって意味だ。二人とも気に入られたみたいだからね」
ディルは、ずるいなと思った。邪推かもしれないが、好きにしていいとはつまりこちらに考えろと言っているのと同じだ。
そんなディルをよそに、フィオリトゥーラがクローディアを見つめる。
「クローディアさん、お世話になりました」
「いいよ、大して何かしたわけでもない。幸運を祈ってる。フィオリトゥーラほどの力があれば、きっと良い結果が得られるよ」
「ありがとうございます」
微笑み礼をするフィオリトゥーラの隣で、ディルがくるりと向きを変えた。
「じゃあな」
「それでは失礼します」
馬車へと歩いていく二人の姿を途中まで見届けると、クローディアは小さく手を上げ、そして扉の奥へと姿を消した。
建物の影から出て、数刻ぶりに全身で受ける強い陽光に、二人は思わず目を細めた。
馬車の前では、レディシスが黒塗りの扉を開けて待っていた。
「フィオリトゥーラさん、どうぞ」
「ありがとう。よろしくお願いします」
フィオリトゥーラは会釈し、ステップに足をかけて馬車へと乗りこむ。向かい合わせで四人が座ることができる客車の中は、外装同様に飾り気は少ないものの、精巧で頑丈そうな造りをしていた。設えられた座席の座り心地もよい。
レディシスは、フィオリトゥーラが席に座ったのを確認すると、早々に御者席へと移動してしまう。
そんな彼の様子に苦笑しつつ、ネイサンが残されたディルを案内する。
「ディル様もどうぞ」
ディルは立ち止まり、その馬車を眺めた。
「なかなか挑戦的な見た目だよな」
聖剣教において、黒という色はあまり好まれていない。
禁止こそされていないものの、聖剣教に属する者は基本的には使用しない色であり、この聖地ではあまりに黒い物ばかりに執着したりすれば、時には反教主義などを疑われてしまうこともある。
この馬車は通常ありえないほど全てが黒く塗られ、それを牽く馬さえも見事な艶かな黒い毛並みを持っている。そのせいか、上品さを持ち合わせながらも、どこか不気味で威圧的な印象を放っていた。
その中で唯一、御者席の上に位置する場所に掲げられた何かの紋章のような装飾だけが、鮮やかな金色で、妙に際立っている。
「別に反教を唱えるつもりはないよ。美しいと思わないか?」
御者席のレディシスが言う。
「ああ、悪くはないね」
ディルはフィオリトゥーラとは向かいの席、御者席に背を向ける側へと座った。
ネイサンが扉を閉めると、馬車はすぐに動きだした。
頭を下げた礼の姿勢のままの支配人の姿が、窓越しに左に流れていく。馬車は前庭のロータリーを右回りにゆっくり進むと、都市の環状路へ向かって真っすぐに伸びる下り坂へと入っていった。
ディルは窓から顔を覗かせ、少しずつ遠ざかる「憂鬱な待ち人」を眺めた。
どこぞの貴族の豪邸かと見まがうようなその佇まいは、知らなければ到底酒場とは思えない。青や緑の石が綺麗に組み合わされた外壁が鮮やかだった。
「揺れるのでお気をつけを」
御者席の方に空いた小窓からレディシスの声がした。柔らかなその口調から察するに、それはフィオリトゥーラにのみ向けられたものだろう。
そして、馬車の速度が急激に上がる。
ディルは覗かせていた顔をひっこめ、姿勢を戻す。その向かいでフィオリトゥーラは、自身にもたれかけさせていたカルダ=エルギムの両手剣をしっかりと支えた。
下り坂にもかかわらず、加減する様子もなく、馬車は見る見る加速していく。
二人は、それぞれ自身に近い窓から外の様子をうかがった。坂道に並ぶ石造りの建物たちが次々に流れていく。
先日利用した辻馬車も速かったが、今レディシスが走らせる馬車の速度はそれと変わらないか、ともすればいくらか上まわっているようにさえ思えた。
だが、先日の辻馬車とは決定的に違う点があった。
ディルとフィオリトゥーラは、車内に視線を戻すと顔を見合わせる。互いにどこか拍子抜けしたような表情を見せていた。
予想していたよりも遥かに揺れが少ないのだ。もちろん振動がないわけではなかったが、あの壊滅的な辻馬車の揺れとはまるで比較にならない。
ガタガタとした不快な振動は少なく、客車は大きくゆったりと揺れる。
東部の環状路と比較して路面状態に大した差があるようには見えず、おそらくこれは、この馬車の車輪やその軸と客車を繋ぐ機構などに、何かしら工夫がされての結果なのだろう。
こんな馬車に乗ったのはもちろん初めてのことだった。ディルは純粋に驚きを隠せず、目を見張る。
当然、あの辻馬車よりも遥かに上等な馬車に乗った経験があるだろうフィオリトゥーラでさえ、同様に驚きを隠せないようだった。
そのまま二人を乗せた馬車は、あっという間に北部環状路へと近づいていく。
下り坂の終わりに差しかかると、レディシスは手綱で二頭の馬を操りながら、反対の手でブレーキのレバーを引き、馬と馬車、双方の減速を巧みに行った。
信じられないほどスムーズに速度を落とした馬車は、環状路との交差点となる円形の広場に入ると、緩やかな速度を保ったまま、関所がある右の方へと曲がっていく。
そこは今朝二人が東部側で見た関所前の広場とよく似ていたが、行きかう人の数はそれよりもいくらか多かった。
レディシスは御者席にある鐘をカランカランと鳴らしながら、通行人の間を割って馬車を環状路へと進めていく。
広場を出て通りを進むと、城塞の姿は次第に大きくなり、やがてそれが見上げる距離まで来た時にはもう、目の前には北部と東部とを隔てる関所が迫っていた。
城壁にぽっかりと穴を空ける大きな門の中には、十人ほどの衛兵と、剣律騎士団と思われる赤白のローブに銀の鎧を装備した男の姿があった。
非常時を除けば、朝一番の鐘が鳴ってから日没の鐘が鳴るまでの間、第三環状街のそれぞれを区切る関所の門は基本的には開け放たれているのだが、そこには常に人が配置され、通行するとなれば必ず何かしらの手続きが必要とされる。
許可され通行証を持つ者であれば比較的それはスムーズに終えられるが、通行証を持たない一般の市民や剣闘士が関所を通る場合はそうはいかない。目的や素性などの質問に始まり、所持品の検査なども行われ、最後には臨時の通行証が渡され通行可能となるものの、その通行証が指定日時までに返却されない場合は捜索され、処罰の対象となってしまう。
ディルは何度もこの関所を通っているが、その度に同様の手続きが時間をかけて行われ、いつもそれを煩わしいと感じていた。
しかも、今回に関しては許可なく北部へと移動してしまっている。
ディルは馬車で移動と聞いた時、例えば荷物に紛れてやり過ごすことなどを想像したが、その話をすることなく、全てはレディシスに一任してしまっていた。
関所の門を前にして、黒塗りの馬車は人が小走りで走る程度まで速度を落としたものの、そこからは停止する気配を見せない。
ディルはまだいくらか距離があるうちに窓から関所の様子をうかがったが、そこからは無闇に顔を出したりはせず、ただ横目で窓の外をじっと見つめた。
止まらない気かよ……。
レディシスの行動の意図がわからず、ディルは固唾をのむ。
関所のことをよく理解していないフィオリトゥーラは、特に動揺した様子もなく窓の外を眺めていた。
唐突に窓の外が影の中に入る。馬車が関所、つまり城塞の門に入ったのだ。
いくらか緊張したままのディルの視界の中で、端に避けて行儀よく並んだ衛兵数名と、そして剣律騎士団の男が、皆頭を下げた礼の姿勢のまま固まっていた。
はあ……?
ディルは、思わずそんな風に口にしそうになるのを堪える。
そうして馬車が一度も停止することなく関所の門をくぐり抜けると、三人は何事もなく第三環状街の東部地区へと入っていった。
「……どうなってんだよ、一体?」
関所を抜けて、今度は東部側の円形の広場を通りすぎる頃、小窓を通じて御者席へとディルが訊ねた。
「関所のことかい?」
「ああ」
「この馬車は特別でね。プレシャスがとある剣位から授かったという、剣位を示す紋章が掲げられている」
小窓の向こうで、レディシスが頭上を指差している。
紋章。それは、ディルが馬車に乗りこむ前に見た、この全てが黒色の馬車の中で、唯一金色に輝いていたあの装飾のことだ。
「剣位の紋章? そんなのがあるのかよ」
「剣律や神官の間では常識らしいね。剣位の十二人にはそれぞれ固有の紋章が与えられ、それを掲げれば、本人、関係者問わず大抵の場所は無条件で通行できる。こんな色をした馬車でも怪しまれ止められることもない。もっとも、偽物を防止するために一般にはあまり広められていないようだが。まあ、紋章には必ず黄金が用いられる決まりで、そもそも簡単に偽造できるものでもないがね」
「強ければなんでもあり――、か」
ディルはなんとなく、「千の剣」でザリの話が出た時にライマーが口にした言葉を思いだし呟いてみる。
このアルスタルトで生活する者としては今更わかりきったことなのだが、ふとしたことで、「剣位」という剣闘士の頂点たる者の存在が再認識できてしまう。
この聖地において剣位を与えられた者は、その基本的な地位や権力はもちろん、時に大国の王さえも凌ぐ権限すら持ち得るという。過去に、その一言や振る舞いが法律や戒律に影響を及ぼした例も少なくはない。
また、その名声は当然のごとく聖地の外までもおよび、例えば、一度でも剣位を得たことがある者が望めば、小規模の国家程度であれば簡単に建国できてしまうだろうとさえいわれている。
聖剣教の名のもと、聖地でただひたすら剣を振るい勝ち続けた先には、それほどの強大な権力を持つ個人が誕生するのだ。
「さて。ここからさらに飛ばすよ。フィオリトゥーラさん、お気をつけを」
小窓から告げると、レディシスは手綱を操り、二頭の青毛馬を巡航状態から一気に加速させる。
その急加速に、フィオリトゥーラは姿勢よくしていたその身体を一瞬反らし、向かいのディルは、反対に前のめりに座席から腰を浮かせてしまう。
黒塗りの馬車は、東部環状路を北から南へと疾走していく。人通りが少なく通りの中央は完全に空いているため、一切の減速を必要としなかった。
加速を終えてしまえば、再び客車の中は見事に安定し、二人は落ちついて座席に座りなおす。ただ、窓の外を見れば、今自分たちがどれほど異常な速度で移動しているかがよくわかった。「憂鬱な待ち人」を出た直後の下り坂の時でさえ、今とは比較にならない。
最初にこの馬車が走りだした時そうしたように、二人は窓の外の様子をうかがい、それから互いに顔を見合わせた。
フィオリトゥーラが、くすりと笑みをこぼす。
「今日は、本当に驚くことばかりですね」
「ああ。つーか、今日に関しては、おまえより俺の方が驚いたことが多いぜ、たぶん」
そう言って、ディルは銀色の髪を軽く掻きむしった。
通常より声を大きくしなければならないものの、この速度で移動する馬車の中で普通に会話ができていることが不思議だった。
「……にしても、聞いちまってよかったのか?」
フィオリトゥーラは首をかしげた。
「プレシャスの話だよ。あれ、おまえのことだろ?」
それを聞くと彼女は一度唇を噛み、それから伏し目がちに答える。
「そう、ですね」
「おまえは、あの二人にも聞かせて構わないって言ってたが、正直意外だったんだ。俺も聞いちまったが、実際どうなんだ?」
「問題ないと、思っています。最大限に配慮していただけましたし、それに……」
フィオリトゥーラは、言葉を選ぶようにして話す。ディルは続く言葉を待った。
「プレシャスさんは私の素性など、全てご存じのようでした。それをあの方が話すべきと考えたのならば、私にそれをどうかする権利などありません」
そう言うと、彼女はどこか晴々としたように微笑んでみせた。
思えばフィオリトゥーラは、自分のことについて話すことができない葛藤のようなものを度々見せていた。それゆえに、彼女にとってそれを話してくれる他者の存在は、むしろありがたかったのかもしれない。
「よかったな」
ディルは思わずそう口にしていた。何に対しての「よかった」なのか、自分でもよくわからない言葉だなと思った。
同様に感じたのか、案の定フィオリトゥーラはきょとんとしている。だが、それも一瞬のことで、彼女は再び微笑むと明るく返事を返した。
「ええ」




