19:バックの受難
真っ暗な場所だった。右も左も、あらゆる方向がわからない。
しかしアルカは、この場所はかつて所属した軍の研究所だと思った。真っ暗で、未来も過去も見えない。思い描いていた輝く将来も、薬師を志した時の輝く記憶も、真っ暗なこの場所では何も見えないのだ。ああ、自分の手のひらさえ見えない。いいや、見えないのではなく、もしかすると自分の体はもう、この真っ暗な闇に溶けて無くなってしまったのかもしれない。
自分というものはすでに、無くなってしまっているのだろうか。
そう思った途端、真っ暗だったはずのこの場所に、一筋の光が差した。
その光に照らされて、自分の手のひらが見える。ああ、真っ暗なこの場所で自分の体を無くしてはいなかった。アルカは安心して、そして光の方へ目を向けた。
ほんの少しのはずだった一筋の光はあっという間に広がり、真っ暗だったアルカの視界を真っ白に染める。
「アルカ……?」
自分の名前が呼ばれたのが聞こえた。真っ白だった視界に色が見え始める。
何度か瞬きをして、アルカは自分が眠りから目を覚ましたのだということに気が付いた。
「アルカ! 目を覚ましたのね、よかった……!」
意識がはっきりとして、始めに聞こえたのは聖女の声だった。それからぎゅっと手が握られて、視界に聖女の顔が映る。眉根を寄せて、今にも泣いてしまいそうな表情だ。いや、その瞳からはすでに涙が零れ落ちている。真珠の粒にも似たそれは、聖女の頬を濡らしていた。
その顔を見上げ、アルカは自分の体がベッドに横たわっているのに気が付いた。体を起こそうとするが、うまく力が入らない。
「ごめんなさいアルカ、わたしのせいで、こんな怪我を……」
聖女の言葉に、アルカはベッドに横たわったままで「いいえ」と返す。
「私が、聖女様を守りたかったから。それに、聖女様が、怒ってくれたから、あいつらが逃げていったんです」
アルカが聖女の目を見つめてそう言うが、聖女はそれでも悲しげに顔を歪めたままだった。
「アルカ……」
別の声が名前を呼ぶのが聞こえて、アルカはそちらに視線を向ける。
そこには、スタッグが沈痛な面持ちでじっとこちらを見下ろしているのだった。
聖女が手を離したのがわかったと思うと、スタッグが傍に寄ってくるのが見える。そうしてベッドのわきにひざをついたスタッグは、更にその距離をぐっとつめてくるのだった。
頬に手が触れ、次いで眉間にしわを寄せたスタッグの顔がずいと近づいてくる。
反射的に目を閉じたアルカが次に感じたのは、耳元に聞こえるスタッグの息遣いだ。はあ、と深く息をついたのが聞こえる。目を開けると、スタッグの頭がすぐ横にあるのがわかった。
「お前が、痛みに耐えている姿を、ただ見ていることしか出来ない間は、まるで自分の胸にも短剣が刺さっているかのようだった」
吐息交じりのそれは、心配の言葉だ。そう、心配の言葉だとはわかっている。しかし耳に当たる熱い吐息がアルカの心臓をぎゅうと痛めつけてくるのだ。ああなんて、心臓に悪い。
「致命傷ではないとは、わかっていた。それなのに、アルカを失ってしまうんじゃないかと、そんな考えばかりがよぎって俺を苦しめる。お前を失えば俺は……きっと、生きてはいけないと……」
ああさすがにこれは惚れ薬のせいだ。そう思ったが、その名を呼んで制止することは出来なかった。
「……すみませんでした」
その代わりにアルカが口にしたのは、謝罪の言葉だ。惚れ薬のせいでそんなことを言わせてしまって、という意味もあった。それに、心配させてしまって、という意味もある。どちらの比率が高いか、それは発言した本人であるアルカにもわからない。
「……アルカ、俺の、名前を呼んでくれないか」
耳元でそう切なげに言う声が聞こえ、アルカはスタッグの名を呼んだ。
「……すまないが、もう一度」
「スタッグ隊長」
深く息を吸う音が聞こえる。要求はされなかったが、アルカはもう一度名前を呼んだ。深呼吸をする音。落ち着いたのだろうか。
「……あー、お取込みのところ、大変に心苦しいんっすけど、いいっすか」
声がして、スタッグは弾けるようにアルカから体を離した。アルカもまた体は動かないものの、はっと恥ずかしさに気が付いて焦る。しまった、聖女様の前だった。しかもバックもいるらしい。
それを見ていた聖女が声の方を向き、不満げに唇を尖らせた。
「もうバックったら、もう少し待てなかったの?」
「いや、すみません、でも医務部長に、麻酔が切れる前に痛み止め飲んでもらわないと」
視線を向けた先に見えたのは、手に薬を乗せた盆を持ってそう言うバック。その姿に、アルカはようやくこの場所がどこであるかに気が付いた。恐らく、教会の一室だろう。しかし自分が刺されたのは馬車だったはず。いや、そういえば、刺された後の記憶がおぼろげだ。あの後、どうなったんだっけ。
「隊長、医務部長の体起こしてあげてください」
「あ、ああ……」
アルカがそんなことを考えていると、再びスタッグの手が体に触れるのがわかった。肩に、それから背中に触れたその手は力強くアルカの体を起こす。
「医務部長が刺された後、あの場で応急処置をして、急いでこの町に運んだんすよ。傷はあんまり深くはなくて、毒消しもすぐに効いたみたいで、良かったっす……。いやでもまさか、俺が医務部長を処置する側になる日が来るなんて思ってなかったっすよ」
そうしてアルカが差し出された痛み止めを飲み干すと、バックが軽口を交えて端的に状況を説明した。その言葉にアルカはああと納得し、ひとまずほっと息をつく。
「しかしまあ、大変な事になったっすねえ」
次いでバックが珍しく本当に事を案じたように顔をしかめた。それに「ああ」と返したのは、アルカの体を支えているスタッグだ。
「つけられて待ち伏せされたか、或いは、別ルートを行く情報が洩れて、待ち伏せされたかだ」
スタッグが言ったまったく穏やかではない仮説に、アルカと聖女が小さく息をのんだ。
「残念ながら、現状としては後者の可能性の方が高いんすよね」
更にはバックがそう続けると、更に穏やかな話ではなくなってくる。
「知らせに来た駐在によると、襲われた奴が持ってたスタッグ隊長の書いた手紙は、まったく綺麗なままだったらしいっすから」
バックの言葉にスタッグはうんと頷く。しかしアルカと聖女はその言葉の意味するところがわからず、うん?といった表情をした。
「つまり、そいつを襲った人間はその手紙を奪って読むまでも無く、そいつが首都に応援を呼びに戻る人間だとわかってたんすよね、それは、限られた人間しか知るはずの無いことなのに」
バックが続けた言葉にようやく言葉の意味を理解したアルカの体には、緊張が走った。限られた人間、とは誰の事か。それは、バックが言わずともわかった。
スタッグ率いる騎士団第三部隊に所属する人間だ。そして、それはつまり、そのうちの誰かが情報を流していた可能性があるという事である。
「まあ、どいつかが情報を流したか、盗み聞きされたかはわかんないっすけど、どっちの可能性も考えなきゃいけないっすよね……」
そう言ったバックの表情は険しく、心苦しいといったようだ。仲間を疑わなければいけないのである。それはスタッグも同様で、アルカがその表情をうかがう様にちらりと視線をやれば、スタッグはいつも以上にその眉間にしわを寄せた険しい顔をしていた。そして聖女もまた、心痛に目を伏せている。
それでも疑わなければならないのだ。第三部隊がなによりも優先すべきは、聖女の安全なのだから。
「俺が隊長に別派の動きを報告したのが二日目の明朝で、その足で応援を呼ぶように言いに行ったんすよね」
それは、バックとスタッグのみが知っていることである。バックにそれを知らせたのは、司祭から聞いたという団員だ。司祭の元には別派の襲撃を受けた教会から知らせがきたらしい。
「あいつを選んだのはあいつが一番馬に速く乗れるからっす。だから聖女様の部屋前で警護してたとこに行って、交代して……その時点で応援を呼びに行くって知ってたのは俺と隊長の他にはそいつと、後は……」
顎に手を当てながら話していたバックが「あ」と言う。
それから何か誤魔化すようにえへへと笑うと、おそるおそるスタッグを見た。
「あの、俺今から怒られるようなこと言いますけど、その、大目に見てくださいね……?」
スタッグの眉間にしわが増えたのが見えて、バックは己の受難を覚悟した。