#49 慟哭(1)
里美は優妃子の額を優しく撫でた。温もりが手から伝う。
目を覚まして欲しいと思う気持ちと同時にこのまま安らかに眠って欲しいという気持ちとが交差していた。
六年という短い歳月の中で優妃子が自分に与えてくれたものは途方も無く大きく、そしてこれから生きてゆく中で迎える様々な困難に直面したとき、優妃子笑顔を思い出せば簡単に乗り越えられる。里美はそう思った。
「あなたの母親になれて本当に良かった・・・」
二人だけの安らいだ空気の中、後ろでドアが開く音がした。
振り向くとそこには里美の夫が怪訝な顔をして立っていた。
「どうしたの?」
「いやぁ、それが・・・つい今救急車が着たんだけど、ナオ君と一緒にいた子・・・」
「藤村亜季さん?」
「そう、その子が担架と一緒に救急車から降りてきたんだよ」
里美は不吉な思いに駆られ、慌てて一階に降りて行き近くに居た看護士に声を掛けた。
「ああ、それなら東館の外科病棟に運ばれて行きましたよ。交通事故だそうです」
「事故にあったのは男の子でしたか?」
「さぁ、そこまでは・・・」
そして夢中で外科病棟へ駆け出した。
手術室の前の長椅子には亜季が身体を固くして座っていた。
里美は息を切らしながら亜季の様子を伺った。顔は青く、奥歯をかみ締め、両手で携帯電話を握り締めていた。
「藤村さん、もしかしてナオ君が・・・」
亜季が小さく頷いたとき警官がやって来て事故の状況を聴いたが亜季は言葉を発する事が出来ず終始俯いたままだった。
知らせを受けた小春と良介そして奈津美をはじめとする水泳部の面々が集まって来て手術が終わるのを待っていた。
五時間後、担当医師に呼ばれて説明を受けていた尚也の母親が漸く姿を現した。
小春は美緒の肩を抱いて母親の言葉に聞き入った。
全身の強い打撲。数箇所に及ぶ骨折の処置は済んだが、頭蓋骨の骨折、それに伴う脳へのダメージが大きく意識は依然戻らないままだと言う。
「いつ意識が戻るんですか?」
奈津美がすがり付く様に聞いたが母親は無言で首を振るばかりであった。
「そんな、ナオ君まで・・・」
里美は椅子に腰を落とし両手で顔を覆った。
尚也の母親は集まった人々に改めて深々と頭を下げてお礼を言った。
「皆さん、ご迷惑を掛けて本当にごめんなさい。こんなに心配してくれて・・・。でも尚也は運だけはいい子ですからきっと意識が戻って良くなると思います。そのときはどうか、馬鹿な子ですけどよろしくお願いします」
時計を見ると午後の六時を過ぎていた。
集まった人々は後ろ髪を引かれながら三々五々散って行った。
里美も「くれぐれも容態に何か変化があったら知らせて下さい」と言い残して優妃子のもとへと戻った。
「俺らも帰ろう。ここに居たって何も出来やしないんだし」
良介の言葉に小春は同意したものの、亜紀は椅子から気配がない。
「亜季、帰ろう」
「私のせいなんだ・・・みんな、私の・・・」
今にも消えそうな掠れた言葉を発した亜季に尚也の母はそっと寄り添った。
「藤本さんのせいなんかじゃないわ。信号無視した尚也が馬鹿なのよ」
「そうよ、あんたが落ち込んだってどうにもならないでしょ」
(そうじゃない、そぅうじゃなくて・・・)
尚也の母の言葉にも小春の言葉にも亜季の心は少しも揺れることは無く、説明出来ない現象に寧ろ苛立ちを覚えた。
里美が優妃子の病室に戻って来た。
夫はその虚ろな表情からおおよその見当はついたが言葉で確かめたかった。
「やはりナオ君だったんだね。様態はどうなんだ・・・」
尚也の母親からの報告をそのまま伝えると夫は頭を抱え、悲痛な声を漏らして天井を見上げた。
里美は優妃子の痩せ細った手を両手で握り締めて祈る様に呟いた。
「ナオ君の事、分かってるよね。ずっと一緒に居たかったんだよね・・・優妃子にとって一番大切なお友達。だけど私達にとっても大切な恩人なの。だから優妃子。助けてあげて。ナオ君を連れて行かないで・・・」