#48 秋霜(5)
病院の待合室で小春は天井を見詰めて半ば呆然とつい先ほどの出来事を思い出していた。
優妃子の声が聞こえたような気がする。あれは確かに彼女の声だ。
そして優妃子の言う通り元に戻ることのない身体はもう限界に来ておりそこに魂を宿したとしても果たして本人にとって幸せなのだろうか。
自由にならない手足。笑いたくても声も出せず、顔の表情さえ作ることも出来ない。
ただ澄んだ瞳から涙を流すことしか感情を伝える事が出来ないもどかしさ。
けれどあの時、命が消えそうな人間が目の前にいて、それも自分と同じ歳の女性に対して黙って見ていることは出来なかった。生きて欲しい。ただ純粋にそう思った。
「小春さん、だよね。寺嶋先生の娘さんの」
小春が声の主を見るとそこには見覚えのある白衣姿の男性が立っていた。
「君のお蔭で私の患者の命が助かった。ありがとう」
その男性は小春の父の後輩でこの病院の副医院長を勤めており、斉藤と名乗った。
「私は、ただ父から教わった事をしただけで、それが、正しかったのかどうか、分かりません」
斉藤はその言葉の意味を直ぐに察した。
「正しいのかどうかは医者ではなく、患者本人とその家族が決める事だ。生きて欲しい、助けたい、そう思ったならその気持ちが真実だと思うよ」
「でも私、医者じゃないし」
「その卵だって、寺嶋先生からは聞いていたけど違うのかな」
小春が父親に自分の将来について話したとき少し不機嫌になって
「そうか・・・」
としか言わなかったからきっと反対しているのだと思っていた。
それから父親には医者になりたいと言った事は無かった。
「もっとも寺嶋先生は小春さんには女性として普通の幸せを掴んで欲しいと願っていたみたいだけれど、でも、嬉しそうだったよ、君の事を話していたときは」
小春は椅子に座ったまま身を縮こませながらまだ心が揺らぎ、暗い顔をしている父の事、優妃子の事が交差していた。
「君の友達が大変なときにこんな事をお願するのは気が引けるのだけれど・・・」
斉藤は小春の顔色を伺いながら少し間を置いて更に続けた。
「うちの小児科は今大変でね。二人の医師がまだ若くて経験が少ないうえに仕事が多すぎて、もう半年以上もろくに休んでいないんだ。寺嶋先生がうちに来てくれたら物凄く心強いんだが・・・なかなか本人からいい返事が聞けなくて。君からも説得してくれないかな」
小春は顔を上げてて斉藤を見た。
「駄目かな」
小春は大きく、ゆっくり首を振った。
「そうか、ありがとう」
斉藤が踵を返して帰ろうとしたとき小春は慌てて呼び止めた。
「安住さん、大丈夫なんでしょうか」
斉藤は少し考え、曇った表情で答えた。
「もう自分では呼吸もできないし、心臓も弱ってる。意識が戻かどうか・・・なんとも・・・」
小春は一人きりになった待合室で優妃子が自分に語りかけた言葉を思い出した。
優妃子はまた病室に戻って来た。
酸素マスクが顔を覆っている。生命を維持させるための機械が身体に繋がっている。
尚也が近づいても瞼は開くことは無く生きているということはモニターでしか確認できない。
亜季はずっと優妃子の手を握って心の中で呼びかけていた。
尚也がそっと亜季の肩に手を置くと薄っすらと涙を浮かべた瞳を閉じ、俯いて首を振った。
尚也は後ろを向き直して里美に頭を下げた。
「すみません。俺が無茶言わなければこんな事にはならなかったのに」
「謝ることなんて何もないのよ。遅かれ早かれこうなることは分かってた事だし、それに優妃子の願いを叶えてくれたんだもの心残りは無いと思うわ。私からもお礼を言わせてちょうだい。ありがとう、ナオ君」
尚也はもう一度振り返って優妃子を見た。
本当に心残りは無いのだろうか。
自分のあんなみっともない泳ぎで優妃子は満足したのだろうか。
せめてもう一度、話がしたかった・・・。
それから暫くして尚也達は無言のまま病院を後にした。
翌日は振り替え休日だったので尚也と亜季は朝早く連れ立って再び病院を訪れた。
亜季が優妃子の手を握りながら優妃子に問いかける。
「どこにいるの?ユキちゃん」
どんなに意識を集中させても心の中で叫んで見ても優妃子からの返事は無い。
「亜季、もういいよ。帰ろう」
病室の中には機械が作る空気の音しかしない。手は暖かく、心臓は動いている。
身体は確かに生きているのに彼女の意識が見つからない。
二人は里美に挨拶を済まして病室をでた。
病院の中は人々で混雑しており駐車場も満杯であった。
敷地に立っている銀杏の木は真青な空に黄金色の威勢を放ち、落ちた葉は通り過ぎる車が起こす風で乾いた音を立てながら地面を這った。
亜季は歩きながら尚也の横顔を見た。
二人きりで歩くのは何週間振りだろう。そう思っても何故か心は晴れなかった。
以前であれば胸がときめいて身体の中から幸せに満ちたものが湧いてきたのに今は何も感じる事はなく寧ろ苦痛さえ覚えた。
(やっと思い通りになったじゃない)
亜紀の心の中でまた誰かが囁く。
(小春だっていつ学校にもどって来るのか分からないし、あなたの思うがまま)
(そんな、私・・・)
(もう、かまととぶるのよしなよ。神様にお願いしたのは嘘だったの?)
(確かに私、尚也君のこと・・・でも、分かったの。誰かを蹴落としてまで幸せになりたくない。それは本当の幸せじゃないって・・・)
(ふん!何よ今更。でももう一つの願いが叶ったら?)
(え?もう一つの願い・・・?)
尚也と亜季はたおやかな晩秋の日差しの中を歩き、やがて4車線ある大きな通りに出た。
夏休みのあの日。神社で神様にお願いしたこと。
神楽の鐘の音と笛の音。人々のざわめき。発電機の唸りと裸電球の熱い光。
鈴が鳴る。手を合わす亜季。
(尚也君が、私だけのものになりますように・・・そして・・・)
「ありがとう、亜季」
横断歩道の信号待ちをしているとき、尚也が隣にいた亜季に言う。
「俺の願いを叶えてくれて・・・」
(そして・・・)
車道の信号が赤になった。車が停止線で停まり、その後に列が出来てゆく。
(永遠に・・・私だけの・・・)
横断歩道の信号が変わった。
人々が歩き出す。
亜季は身体が硬直してその場に立ち尽くし、目の前に小さな光の粒が落ちてきて尚也の背中が見えなくなった。
(あの願いは、どうか・・・取り消して下さい!)
張り詰めた空気の中、耳鳴りが亜紀を襲う。
尚也が反対側の歩道に差し掛かったとき、隣に亜季が居ないことに気づいた。
振り返るとまだそこにいた。
道路を渡りきると停まっていた車が一斉に走り出した。
走る車の間から向こう岸に地面にうずくまっている亜季の姿が見えた。
「亜紀!」
尚也は信号を無視し、衝動的に走り出した。
どうしてこんなに苦しいのだろう・・・・
亜季は胸を押さえて目を閉じた。
自分の名前を呼ぶ声がする。
頭を上げてその方向を見た。
走って来る尚也。
視界の端に何か黒い物体が見えた。
地面とタイヤが擦れる音。
車が目の前を遮ると尚也の姿が消えた。
ゴムが焼ける匂いが鼻をつく。
亜季はアスファルトに引かれた黒い線の先に目をやった。
彼方に漸くと止まった車の後部から二本の脚が出ている。
亜紀は立ち上がりよろめきながら方向に歩いて行った。
今目の前で起きた一連の出来事が頭の中を廻っていたがその情報を上手く処理する事が出来ない。
道路に落ちていた尚也の携帯電話を拾い、暫く見詰めた後また車の方に目を向けた。
「柴田君・・・」
少しずつ理解し始めた亜季に胸は破裂するほどに苦しくなり、駆け寄って尚也の脚にしがみ付いた。
「柴田君、柴田君・・」
まるで木偶が揺れるように生きた反応が無い。
ふと車の中腹部を見ると灰色の地面に赤い血筋が流れていた。
それを見たとき亜季の中で何かが弾けた。
腹の底から突き出るような悲鳴を上げた。
そして何度も何度も尚也の名前を叫んだ。




