#44 秋霜(1)
秋季大会の当日
亜紀と母親の里美が二人で着替えさせたあと優妃子をベッドから下ろして車椅子に座らせ、身体をバンドで固定させると大きな膝掛けを掛けた。
担当医師のはからいで福祉車両を借りる事が出来た。
車椅子をそのまま自動車に乗り込ませ、隣に座った亜紀は優妃子の手を握り、心のなかで話しかけた。
(気分はどお?)
(うん、大丈夫)
(ちょっとでも具合が悪くなったら直ぐに言ってね)
(ありがとう、亜紀さん)
里美が運転する車は一路、黄金色に染まった街路樹の間抜けて市営競技場に向かった。
室内プールの玄関先で小春と良介が時計を気にしながら優妃子達を待っていた。
「お、あれじゃないか」
良介が敷地に入って来たワゴン車に気づいた。
車は玄関に横付けされ里美がバックドアを開けると亜紀が車椅子を後ろ向きでゆっくり下ろしてきた。
「来たわね。私の最大のライバル」
「ライバル?なんだそりゃ」
「あんたには関係ないの」
小春はしゃがんで優妃子に声を掛けた。
「はじめまして、だよね。安住さん」
骨と皮だけになった手。痩せこけた頬。しかし瞳の輝きは引き込まれるかと思うほど美しかった。亜紀から優妃子の事を全て聞いていたから小春自身、何とか力になりたいと思っていた。
「みなさんすみません。今日はよろしくお願いします」
里美が小春と良介に頭を下げた。
「いえいえ、気にしないで下さい。でもお馬鹿な男子が一名いますからかえってご迷惑かけるかも知れませんがその時はゴメンなさい」
「あのな、男って俺しかいないだろ。もうちょっと言い方工夫しろよ」
「あら、傷ついた?」
「うっせぇ」
亜紀は握っている手から優妃子の楽しげな雰囲気が伝わって来た。
プールの観覧席は二階にあった。
階段の所まで来たとき小春が良介の肩を軽く叩いた。
「さて、やっとあなたの出番よ」
「はいはい」
「なによその嫌そうな返事は。滅多に女子に触れる機会が無いんだからもっと嬉しそうな顔しなさいよ」
良介は優妃子をおんぶして階段を登った。
プールでは丁度女子最後の種目である400mメドレーリレーの決勝が始まるところであった。
清明学園水泳部の今大会の目標は部員全員の決勝進出であったが一年生の女子だけは予選で敗退した。部長の奈津美は800m自由形で2位と健闘し、最後の競技に臨む。
選手が入場しスタート台の前に整列した。
奈津美をはじめとする部員達が観客席にいた優妃子に気づくと大きく手を振った。
亜紀は優妃子の隣に座り片時も手を離さないでいた。
(優妃子さん、見える?)
優妃子は人形のように無表情のまま答える。
(うん。ちゃんと見えてるよ)
スタートの電子音が会場に鳴り響いた。
前選手がタイミング良く着水し、飛沫を上げながら水面を滑った。
10メートル過ぎた辺りでそれまで直線だったラインが折れ、後塵を拝していた5コースの清明学園は叙々にラインを押し上げた。
バタフライの選手が折り返したときには頭一つの差で三位につけるとそのままとアンカーの奈津美は猛然と泳ぎ切った。
大歓声の中で観客席の真下に来た部員達は優妃子に深々と頭を下げて大きく手を振った。