最終話 妹の友達が俺の手を離してくれない
スクリーンに入場してからも、優奈ちゃんは俺の手を離そうとしなかった。
いや、正確に言えば、俺も離したくなかったのだと思う。
暗い館内を歩きながら、隣にいる優奈ちゃんの手をそっと握る。
彼女は何も言わず、ただ俺の手を握り返してくれた。
それだけのことなのに、何だか妙に胸が落ち着かない。
「席、ここだね」
「……はい」
指定された座席に腰を下ろす。
隣に座った優奈ちゃんは、俺の左手を両手で包み込むように握り、そのまま自分の膝の上へ置いてしまった。
「……優奈ちゃん?」
「……ダメ、ですか?」
暗がりの中で、彼女が上目遣いにこちらを見る。
その表情があまりにも可愛らしくて、俺は首を横に振ることしかできなかった。
「いや……大丈夫だよ」
「……えへへ」
優奈ちゃんは小さく笑った。
それから、まるで大切な宝物でも抱えるように、俺の手を自分の膝の上で包み込んだ。
……参ったな。
こんな状態で映画の内容が頭に入るのだろうか。
*
やがて照明が落ち、映画が始まった。
作品は、若い男女が出会い、惹かれ合い、様々な困難を乗り越えて結ばれるという、王道の恋愛映画だった。
美しい映像と音楽。
繊細な心理描写。
俳優たちの演技も素晴らしく、普通に観ればかなり良い映画だったと思う。
ただし、俺には一つ大きな問題があった。
左手である。
上映が始まってからというもの、俺の左手はずっと優奈ちゃんの両手に捕まったままだった。
最初はただ握っているだけだったのだが、映画が進むにつれて、彼女の指先が少しずつ動くようになった。
俺の指を一本ずつ触ってみたり。
手のひらを指先でなぞってみたり。
時には指と指を絡めて、ぎゅっと握り直してみたり。
そのたびに、俺の心臓が妙な跳ね方をする。
特に困ったのは、映画の中で主人公とヒロインがキスをする場面だった。
スクリーンいっぱいに映し出された二人の顔が近づき、唇が重なる。
その瞬間。
ぎゅっ。
優奈ちゃんが俺の手を強く握った。
……おお。
続いて、二人がベッドの上で抱き合う場面になると、今度は彼女がもぞもぞと俺の指を弄び始めた。
恥ずかしいのだろうか。
俺も何だか気恥ずかしくなって、隣を見ることができない。
ただ、彼女の小さな手が俺の手を包み込んでいる感触だけは、嫌というほど伝わってきた。
……可愛いなあ。
ふと、そんなことを思った。
そういえば、小学校の頃にも似たようなことがあったっけ。
優奈ちゃんは昔から大人しい子で、怖いことや嫌なことがあると、決まって俺のところへやってきた。
ホラーゲームをしている時なんて、いつの間にか俺の膝の上に乗っていて、画面に怖いものが映るたびに胸元へ顔を押しつけてきたものだった。
芽依にからかわれても、頑として離れようとしなかった。
あの頃は小さな女の子だったから、俺も特に気にせず頭を撫でてやっていたのだが。
……子供の頃の習慣って、なかなか治らないものなんだな。
そんなことを考えながら、俺は優奈ちゃんの手をそっと握り返した。
すると、彼女の指が一瞬だけぴくりと動いた。
それから、今まで以上に強く握り返してくる。
何だか嬉しくなって、俺は小さく笑った。
結局、上映が終わるまでの約二時間、俺の左手はずっと優奈ちゃんの膝の上に置かれたままだった。
*
エンドロールが流れ始めた。
館内の照明が少しずつ明るくなっていく。
隣を見ると、優奈ちゃんはまだ俺の手を握っていた。
「……終わっちゃいましたね」
「そうだね。面白かった?」
「……はい」
優奈ちゃんが頷く。
「すごく……良かったです」
その顔には、何とも言えない優しい笑顔が浮かんでいた。
幸せそうで、少し恥ずかしそうで。
何故だろう。
その表情を見ているだけで、俺まで嬉しくなってしまった。
「そっか。じゃあ、来て良かったね」
「……はいっ」
彼女は満面の笑みを浮かべた。
映画の内容は正直、ところどころ曖昧になってしまっていた。
それでも、今日ここへ来て良かったと心から思った。
俺たちは立ち上がり、他の観客に混じって出口へ向かった。
もちろん、手は繋いだままである。
さすがに館内が明るくなると少し恥ずかしかったが、優奈ちゃんが離そうとしないので、俺もそのままにしておいた。
いや。
離そうとしなかったのは、本当に優奈ちゃんだけだったのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎったが、深く考えるのはやめておいた。
*
映画館を出ると、ショッピングモールはすっかり夜の装いになっていた。
時計を見ると、午後八時を少し回っている。
「もうこんな時間か」
「……そうですね」
「お腹空いてない? 何か食べていく?」
「いえ、私は大丈夫です」
「そっか。じゃあ、そろそろ帰ろうか」
優奈ちゃんは小さく頷いた。
けれど、その表情がほんの少しだけ寂しそうに見えた。
……気のせいかな。
エスカレーターを降り、駐車場へ向かう。
夜風が少し冷たくなっていた。
「寒くない?」
「大丈夫です」
「そう? なら良かった」
並んで歩きながら、今日観た映画の話をした。
好きだった場面。
印象に残った台詞。
主人公とヒロインが最後に結ばれたこと。
優奈ちゃんは普段よりもずっと楽しそうに話していた。
特に、主人公がヒロインへ想いを告げる場面が好きだったらしい。
「……ずっと好きだった人に、ちゃんと気持ちを伝えられるって、素敵ですよね」
「そうだね。勇気がいることだと思うよ」
「……はい」
優奈ちゃんは少しだけ俯いた。
何かを考えているようだったが、すぐに顔を上げて微笑んだ。
そうして駐車場に着いたところで、俺はポケットから車のキーを取り出した。
「じゃあ、家まで送るよ」
「……あの」
「ん?」
隣に立っていた優奈ちゃんが、小さく口を開いた。
「芽依ちゃんのバイト……今日は二十二時までなんですよ」
「ああ、そうなんだ」
「……はい」
優奈ちゃんは俺を見上げた。
何かを期待しているような、それでいて少し不安そうな瞳だった。
……そうか。
芽依が帰ってくるまで、まだ二時間近くあるのか。
俺は少し考えた。
いや、考えたというより、言葉が勝手に口から出ていた。
「じゃあ、ウチに来る?」
優奈ちゃんが目を丸くした。
「……え?」
「いや、芽依が帰ってくるまで時間あるしさ。良かったら、うちでお茶でも飲んでいかない?」
そう言った瞬間、彼女の頬がみるみる赤くなっていった。
優奈ちゃんは胸の前で両手を握りしめ、少し俯いた。
そして。
「……はい」
消え入りそうな声で、そう答えた。
その姿を見た瞬間。
何故だろう。
俺は目の前の女の子のことが、どうしようもなく愛おしくなってしまった。
*
車の前まで来たところで、俺たちはようやく手を離すことになった。
当然である。
いくら何でも、運転中まで手を繋いでいるわけにはいかない。
それに、車のキーを取り出すにも片手では不便だった。
……なのだが。
「あの……」
「うん?」
「……いえ、何でもありません」
優奈ちゃんは俺の手を見つめていた。
俺も、何となく彼女の手を見てしまう。
どちらから離すべきなのか。
そんな馬鹿馬鹿しいことで、一瞬お互いに迷ってしまった。
やがて、示し合わせたわけでもないのに、二人同時にそっと手を離した。
「あはは……」
「……ふふっ」
思わず顔を見合わせて笑ってしまう。
優奈ちゃんの頬は、まだ少し赤かった。
多分、俺も同じような顔をしているのだろう。
「じゃあ、乗って」
「……はいっ」
助手席のドアを開けると、優奈ちゃんは嬉しそうに乗り込んだ。
俺も運転席へ回り、シートベルトを締める。
車内には、彼女がつけているのだろう甘い香りがほんのりと漂っていた。
ふと、左手に視線を落とす。
ついさっきまで、優奈ちゃんが両手で包み込んでいた手だ。
柔らかくて、温かくて。
少しだけ汗ばんでいた、あの小さな手。
思い返すだけで、自然と口元が緩んでしまう。
隣を見ると、優奈ちゃんは窓の外を眺めながら、何故か嬉しそうに微笑んでいた。
俺たちは、もう手を繋いでいない。
けれどこの後、家に帰ったら多分またすぐに繋ぐことになる。
エンジンをかけながら、俺はそんな事を考えていた。
きっと彼女も同じ気持ちなのだろう。
俺はいつもより少しだけ早い心臓の音を悟られないように、静かにアクセルを踏んだ。
〈完〉




