第1話 妹の友達が俺の部屋にやってくる
全三話の短編純愛ストーリー。
本日00:00/8:00/18:00に、投稿予定です。
転勤を機に上京してから、もうすぐ丸三年が経とうとしている。
俺の名前は片桐悠。現在二十五歳。大学を卒業して就職した会社で、社会人としてそれなりに忙しい毎日を送っている。
最初の頃は慣れない仕事に悪戦苦闘し、毎日のように上司から叱られていたものだが、最近ではようやく一人前として扱ってもらえるようになった。入社当時は着せられている感のあったスーツも、今ではそれなりに板に付いてきたと思う。
幸い、就職先はそこそこ名の知れた企業だった。福利厚生も充実しており、現在住んでいるのは都内にある築浅のマンションである。
しかも家賃は月々三万円。
東京の家賃相場を考えれば破格もいいところだが、会社が借り上げている社宅なので、この金額で住むことができている。
そんな俺の平穏な一人暮らしに、ある日突然、実家から一本の電話がかかってきた。
『お兄ぃ! お願いがあるんだけど!』
「嫌だ」
『まだ何も言ってないじゃん!』
電話の向こうで妹の芽依が抗議の声を上げる。
片桐芽依。俺より六歳年下の妹で、現在高校三年生。昔から何かと俺を頼ってくる甘えん坊だったが、最近ではすっかり生意気な口を利くようになった。
そんな妹が、わざわざ電話をかけてきてまで頼み事をする。
嫌な予感しかしなかった。
「で、今度は何が欲しいんだ? 誕生日はまだ先だろ」
『違うってば! あのね、私、東京の大学に受かったの!』
「おお、本当か! おめでとう!」
思わず声が大きくなった。
芽依が東京の大学を志望していたことは知っていた。受験勉強で苦労していたことも、母親から時々聞かされている。
兄として、妹の努力が報われたことは素直に嬉しかった。
「良かったじゃないか。じゃあ、今度何かお祝いでも送ってやるよ」
『ほんと!? やった! それでね、お兄ぃにもう一つお願いがあるんだけど』
「……なんだ?」
『私、お兄ぃのところに住みたい!』
「駄目だ」
『即答!?』
当然だろう。
俺が住んでいるのは会社の社宅である。いくら実の妹とはいえ、勝手に同居人を増やしていいわけがない。
それに、二十五歳の独身男性と十九歳になる妹が一緒に暮らすというのも、何かと不便が多そうだった。
「そもそも社宅だからな。勝手に住まわせて会社にバレたら、俺が怒られるんだぞ」
『えー、でも東京の家賃って高いじゃん! お兄ぃのところなら大学にも通いやすいし!』
「だったら学生寮でも探せよ」
『もう! お兄ぃのケチ!』
結局、その日の電話は妹の不満そうな声を聞きながら終わった。
もっとも、俺はこの時点で一つ大きな勘違いをしていた。
俺の妹は、兄が一度断ったくらいでは何とも思わないらしい。
*
それから二週間ほど経った土曜日のこと。
休日の朝を惰眠で満喫していた俺は、玄関のインターホンが鳴る音で目を覚ました。
時計を見ると午前十時を少し回ったところだ。
何かネットで注文してたっけな?
寝癖のついた髪を押さえつけると、スウェット姿のまま玄関へ向かう。
「はーい」
ドアを開けた瞬間、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「お兄ぃ! 遊びに来たよ!」
「……は?」
そこに立っていたのは、大きなキャリーケースを引いた妹の芽依だった。
肩まで伸びた茶色い髪に、春らしい淡い色のカーディガン。久しぶりに会う妹は、少し大人びた服装をしていた。
「なんでここにいるんだよ」
「大学の下見! あと、お兄ぃの部屋も見ておこうと思って!」
「いや、だから住むのは駄目だって言っただろ」
「まあまあ、細かいことはいいじゃん。それより、今日は友達も連れてきたんだよね」
「ちょっと、そんな勝手に……」
俺の制止も虚しく、芽依が一歩横へずれると、その後ろからおずおずと一人の女の子が顔を覗かせた。
「……お久しぶりです。片桐さん」
思わず、言葉を失った。
艶やかな黒髪が胸元まで流れ、前髪の下には大きな瞳が覗いている。透き通るような白い肌に、小さく整った鼻と、ほんのり桜色に色づいた唇。
白いブラウスに紺色のスカートという清楚な服装も、彼女の雰囲気によく似合っていた。
少女漫画からそのまま抜け出してきたような、小動物系の美少女だった。
「えっと……君は?」
俺が尋ねると、彼女は少し寂しそうに眉を下げた。
「覚えてませんか? 私、小さい頃によく遊んでもらってた……初瀬優奈です」
「……初瀬さん」
聞き覚えのある名字だった。
記憶を辿っていると、目の前の女の子が小さく首を傾げる。
「優奈です。芽依ちゃんと一緒に、よくお兄さんのお部屋でゲームをしたり……」
「あっ!」
思い出した。
「もしかして、優奈ちゃん!?」
「はいっ!」
彼女の顔がぱっと明るくなった。
初瀬優奈。
芽依の小学校時代の同級生で、昔はよく我が家に遊びに来ていた女の子だ。
小柄で大人しく、いつも芽依の後ろに隠れていた記憶がある。俺がゲームをしていると、二人揃って部屋にやってきて、一緒に遊ぼうとせがんできたものだった。
勉強を見てやったこともあったし、夏休みには近所の公園へ連れて行ったこともある。
確か、小学校三年生の頃だったか。
両親の離婚をきっかけに、母親の実家がある東京へ引っ越してしまったのだ。
「いやあ、懐かしいなあ! 随分大きくなったね!」
「えへへ……ありがとうございます」
優奈ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
本当に大きくなったものだ。
昔は俺の腰くらいまでしか身長がなかったはずなのに、今ではすっかり大人の女性に近づいている。
小柄ながら出るところはしっかりと出ており、清楚な白いブラウスに押さえつけられるようなそれを俺は無意識に目を奪われた。
「ちょっとお兄ぃ、何見てるのよ。へんたーい!」
「なっ!? 別に何も見てないだろ!」
「うっわ、けだものー。あーあ、やっぱりお兄ぃのところに住むのやめよっかなー? ごめんね優奈、せっかくの休みに汚いおっさんに会わせちゃって」
芽依がニヤニヤと笑いながら揶揄う。
昔からこういうところだけは妙に鋭い妹である。
慌てて視線を逸らした俺の耳に、小さな声が届いた。
「……お兄さんだったら、嫌じゃないけど」
「え?」
「い、いえっ! 何でもありません!」
優奈ちゃんが慌てたように両手を振る。
その頬が少し赤くなっているように見えた。
……聞き間違いだよな?
*
それからというもの、芽依は何かにつけて俺の部屋へ遊びに来るようになった。
いや、正確には大学入学を機に、本当に転がり込んできてしまった。
もちろん、俺も無条件で認めたわけではない。会社の規定を確認し、人事に相談したところ、必要な手続きを踏めば親族との同居は認められるという話だった。
そこは断ってくれよ、と思ったが嘘をつくわけにもいかない。
こうして渋々ではあるが、妹の芽依と暫くぶりに一緒に住むことになった。
「お兄ぃ、今日の晩ご飯何?」
「冷蔵庫に昨日のカレーがあるだろ」
「えー、またカレー?」
「しょうがないだろ、会社から帰ってきて作る気力なんかねえよ」
平穏だった一人暮らしは、すっかり賑やかなものになってしまった。
とはいえ、妹がいる生活も案外悪くない。
帰宅すれば誰かがいるし、休日には一緒に買い物へ出かけることもある。本当に極々たまにだが、掃除機を掛けてくれたりもする。
そんな生活が始まって少し経った頃、もう一つだけ嬉しい誤算が起こった。
優奈ちゃんである。
「こんにちは、お兄さん!」
「あれ、優奈ちゃん。いらっしゃい」
土曜日の昼下がり。
インターホンを鳴らして現れたのは、白いワンピース姿の妹の友人だった。
両手には小さな紙袋を提げている。
「たまたま近くまで来たので、寄っちゃいました。……お邪魔でしたか?」
「いやいや、全然。芽依なら今日はバイトだけど」
「はい、知ってます」
「え?」
「……あっ、いえ! 芽依ちゃんから聞いてたので!」
優奈ちゃんは少し慌てたように言い直した。
「そうなんだ。まあ、せっかくだから上がってよ」
「はいっ!」
そう言って嬉しそうに靴を脱ぐ。
それにしても、たまたま近くまで来たという割には、随分お洒落をしている。
髪は綺麗に整えられ、目元には控えめながら丁寧な化粧が施されていた。
すれ違った瞬間、ふわりと甘い香りが漂った。
最近の女子大生は、ちょっとした外出でも身だしなみに気を遣うものなのだろうか。
「あの、これ……」
「ん?」
「駅前のお店でドーナツを買ってきたんです。お兄さん、甘いもの好きでしたよね?」
「おお、ありがとう! 覚えてくれてたんだ」
「……はい。覚えてます」
優奈ちゃんは小さく微笑んだ。
その笑顔があまりにも嬉しそうだったので、俺まで何だか幸せな気分になってしまった。
*
優奈ちゃんが遊びに来るのは、決まって土曜日か日曜日だった。
しかも、不思議なことに芽依がアルバイトで留守にしている時間帯が多い。
最初は偶然だと思っていたのだが、三週間も続くとさすがに気になってくる。
「優奈ちゃん、芽依がいなくても退屈じゃない?」
「えっ?」
ソファに座っていた優奈ちゃんが、きょとんとした顔をする。
「いや、せっかく芽依に会いに来てくれてるのに、いつもバイトでいないからさ」
「……私、お兄さんとお話しするの、好きですよ?」
「そ、そう?」
「はい。すごく楽しいです」
にっこりと微笑まれて、思わず胸が高鳴った。
まったく、最近の若い女の子は恐ろしい。
こんな可愛い子に真っ直ぐ見つめられたら、勘違いしてしまう男だっているだろう。
だが俺は社会人として、しっかり節度を守らなければならない。
「ところで、お兄さんって、どんなお仕事をされてるんですか?」
「え? ああ、普通の会社員だよ。営業部で働いてる」
「営業……大変そうですね」
「まあね。でも、最近はようやく仕事にも慣れてきたかな」
「お休みの日は、いつも何をされてるんですか?」
「ゲームしたり、映画観たりかな。あとは車で出かけることもあるよ」
「映画……お好きなんですね」
「うん。映画館にも結構行くよ」
「……そうなんだ」
優奈ちゃんは何かを考えるように、小さく頷いた。
それからも彼女は、俺の仕事や趣味、休日の過ごし方について色々と質問してきた。
どんな食べ物が好きなのか。
どんな音楽を聴くのか。
休日は誰と出かけることが多いのか。
果ては、仕事で疲れた時にどんなことをして気分転換するのかまで。
大学一年生だというのに、随分と社会人の生態に興味があるらしい。
「優奈ちゃん、もしかしてもう就職活動のこと考えてるの?」
「……え?」
「いや、仕事のこととか色々聞いてくるからさ。偉いなあと思って」
「え、えっと……そういうわけじゃ……」
優奈ちゃんは困ったように笑った。
いやあ、最近の大学生はしっかりしているなあ。
俺が一年生の頃なんて、サークルとゲームのことくらいしか考えていなかったぞ。やっぱり都会の子は意識も高くて、みんなちゃんとしてるんだな。
芽依は付いていけるのだろうか?
そんなことを思いながら、コーヒーをテーブルに置き、椅子に座ってから優奈ちゃんが買ってきてくれたドーナツを頬張った。
向かい側では、優奈ちゃんが頬杖をついて、なぜか楽しそうに俺を見つめていた。
俺は急に恥ずかしくなって、頬張ったドーナツを慌てて飲み込んだ。




