01.乾いた世界
窓の外でスズメの鳴く声が聞こえる。いつの間にか朝になっていたようだ。
桐谷時雨はスクリーンに映るゲーム画面から一度目を離した。
「……朝か」
時雨のやっていたゲームは家庭用のRPGだ。昨晩からひたすらモンスターを倒していたが、その行為にさして意味はない。
すでにゲームはクリアされていて、ゲーム内において最高の武器や防具も持っている。
つまり、最強であった。
その完璧な状態で倒すべき敵などその世界には存在せず、主人公たちはただ無感情に格下のモンスターを殺す。
これはゲームだ。
悪の親玉を倒したところで彼らの旅は終わっていいはずである。
もうどれだけレベルを上げても、どれだけ冒険を続けても、得られるものは何もなく、村人の誰からも感謝はされない。
これはゲームだが、彼らにとって、これが現実であるかもしれないとふと思うこともある。
くだらない想像であったが、本当ならば終わるはずのところで終われず、いつまでも彷徨い続けるのはどんな気分なのだろう。
終わらせられる権利を持つのは、プレイヤーである自分だけだ。
神とも呼ぶべきか、と考えて苦笑する。
「……くだらねえ」
現実世界に神や仏がいないことはすでに常識であるが、誰かが不意に『この世界の終わりはここです』と決めたとしたら、暴動でもおきるに違いない。
しかし、時雨はそれを願ってやまなかった。
破滅願望ではなく、時雨にとってこの世界での生活は、クリア後も続く退屈なゲームであった。
「さて、支度をしようか」
桐谷時雨は十六歳だが、高校には行っていない。
実家が鏑木流剣術という流派の剣道場をやっていて、その跡を継ぐためだけに育てられていた経緯があり、学校には行かせてもらえなかった。
トレーニングや型の練習、厳しい訓練が生活の一部となっていた時雨は学校の同級生と全く話が合わず、いつの間にか友人と呼べる人間はほとんどいなくなっていた。
数年前のある日、厳しかった父親が死んだ。
その死に方は、彼が歩んできた人生を表しているかのように凄惨たるものであった。
母親はとうの昔に武芸一筋の父へ愛想を尽かして姿を消し、望まずとも天涯孤独の身となった時雨は、唐突に人生の目標と指針を失った。
これから学校に通おうにも学がない。
剣しか知らない時雨に、この東京で出来る仕事はない。
暗闇の荒野で目指す光を失ってしまったようであった。
――――現在の時刻は午前五時。
いつもならランニングの時間であるが、今日はいつもと違う。
大事な剣術大会があるのだ。それは各流派から代表を選出して、最強の流派を決めるという触れ込みで開催される大会である。
鏑木流剣術は一子相伝の小さな流派であったために、大会には呼ばれなかった。
時雨はそれを悔しいと思ったわけではない。
だが、何年も修行をして、何人もの武道家と戦って、本当にそんな大会に出る連中が自分より強いのか、と疑問に思ったのである。
そして、何の考えも持たず、ただ単純に殴り込んでやろうと考えた次第である。
まともではないと思っていたが、こうでもしなければ、もうどうにも解消できないフラストレーションが内に沸き起こっていた。
今から先に行って会場に潜り込んでおこう、と時雨は袋に入った愛刀を携えた。
出かける前に父の遺影に手を合わせる。
死んだ父親は遺影の中でもどこかを鋭く睨んでいた。
最寄駅へはそれほど遠くなく、歩いて十分といったところである。
しかし、遠くないはずのその駅へ向かう道中で、それは起きた。
赤色の歩行者信号を確認して立ち止まった時雨の隣をスーツ姿のサラリーマン風の男がふらふらと通り過ぎっていく。
服装は正されているが、目は虚ろで生気がない。
この世界では普遍的で一般的な疲れ切った大人の姿だ。
しかし、今日はいつもと様子が違った。
過労による意識の霧散。
時雨には彼が何も見えていないことが分かった。
だから、叫んだ。
「おっさん!? あぶねえぞ!!」
時雨が声を上げても男は聞く耳を持たず、歪んだ足取りで交差点の真ん中へと進んでいく。
正気を疑う状況であった。
そして、時雨からは交差点にトラックが突っ込んで来ているのが見えた。
運転手は何かよそ見をしているようで、スピードを緩める様子はない。
この数秒後に何が起ころうとしているか、想像に難くない。
時雨は考えるよりも先に体が動いていた。
「馬鹿野郎が!!」
時雨は荷物を投げ捨て、男を反対車線まで突き飛ばす。
自分もそこへ飛び込むつもりだった。
しかし、間に合わない。
運転手は未だ気がつかず、減速せずに向かってくる。
眼前に鉄の塊が迫る。
一瞬の衝撃と同時に、時雨の意識は光の彼方へと消えた。
あれからどれくらいの時間が経っただろう。
時雨は状況がよくわからないまま、光に包まれた広場でじっと待っていた。
あの時、トラックが突っ込んできて確かに死んでしまったらしいということは分かった。
誰に説明されたわけでもなく、体が失われ、光の塊になってみると、感覚で理解出来た。
同時に今自分の置かれている状況も分かっていた。
体に蘇生の可能性があるうちは天国へは行かず、ここで待機になるようだ。
病院の待合室のようなものだ、と時雨は理解した。
自分の他にもそういった光の塊がふわふわ浮かんでいる。
皆、死んだ時間や世界は違えど、魂になればここに集まるらしい。
ゲームのような異世界というものが確かに存在するということを知れただけでも、死んだ甲斐があったような、そんな気がした。
宇宙の始まり、三次元の空間であるという前提は同じであれど、成長していく過程のどこかで分岐を起こし、それぞれの世界に対応した法則が生まれ、時雨の過ごした地球とは全く異なる世界が無数に存在する。
時雨にそれを言語で理解し、説明できるだけの学はない。
しかし、感覚でそうした宇宙の概念を理解できた。
辺りに他の魂が浮かんでいるが、この広場はひどく静かで、物音すらしない。
そうした状況もあって、死者の集まる場所であることをひしひしと実感できていた。
時雨は死んだことを少しばかり後悔していたものの、誤った判断ではないと思っていた。
あの男を恨む気持ちは微塵もない。
目の前で死なれては目覚めが悪いから助けたのだ。
それとも、これで終れると思って、体が車を避けることを選ばなかったのではないだろうか。
どちらにしても、自分の判断で死を選んだのだ。
結果、目覚めが悪いどころか、二度と目覚められなくなってしまいそうであるが、それはまた別の問題である。
徹夜とよそ見運転、二つの要因が重なってしまった不運な事故だった。
そう思うことにしたのだ。
どれくらい時間が経ったのか知る手段はないが、充分に退屈を感じていたころ、突然、広場の中心に光る男が現れた。
光る男は右手にパン、左手にゴブレットを持っているところを見るに、食事中であるらしかった。
彼は周囲を見回したあと、手にしたパンをかじりながら、つかつかと時雨に歩み寄った。
「よう」
音のないこの場所で、彼の声は嫌にはっきりと聞こえた。
「誰だお前は」
「まあ、待て。俺は、そうだな、英雄さ。英雄だから、ちょっと人気があってな」
男は困ったように頭を掻きながら言った。
「今、俺の体を蘇らせようとしてるやつがいる。だが見ての通り、俺はここでぐうたらしていたいんだ。生身の体に戻りたいとは全く思わん。そこでだ。お前が代わりに戻ってくれないか」
「何を言っているのかわからないが、見ず知らずのお前になんでそんなことを頼まれないといけないんだ?」
「ここにいる中でお前が一番適任だからだ」
「適任?」
「お前、かなり若いだろ。それに、生きてやりたいことだってあっただろ」
「……そんなものはない。やりたいことも、やるべきことも。とっくの昔に全部なくしてしまった」
「だったら、これから探せばいい。俺の体をくれてやるってんだ。喜べよ」
時雨の話など聞く気はないらしい。
男は笑って続けた。
「俺はもう死んじまってから何百年も経ってる。お前が成り代わっても誰も気がつきゃしない。それに、英雄って身分は融通が利く。やりたい放題やりたければ、かなり好条件だぜ」
「それにつられるような人間に見えているなら、買いかぶりすぎだ」
男の言っていることに嘘はない。魂がそう言っている。
時雨は、返事とは裏腹に少し気持ちの揺らぎを感じた。
英雄という身分に対してではなく、あのつまらない世界ではない、英雄というものが存在する別の世界で、生きていけることに対してである。
「お前が望むなら、何だって出来る。何にだってなれる。虚無の世界から来たお前には想像もつかない世界がある」
そういう世界であったなら。
英雄というものが存在し、活躍するような世界であったなら。
あの平和な日本で、振るえない剣の腕を磨き続けるよりはいいかもしれない。
「一つ聞きたい」
「なんだ?」
「その世界に強いやつはいるか?」
その質問に男は押し黙った。
思い当たる人物を思い出そうとしているのだと時雨は思ったが、違った。
男は吹き出して、抱腹絶倒する様子を見せた。笑いをこらえていたのだ。
「ブハハハ! 面白いことを言うやつだ! 安心しろよ、俺の世界じゃ人間は下から数えた方が早い。お前の想像を超える生き物がたくさんいるからな」
胸の高鳴りを感じた。
こんなにも惹かれることがかつてあっただろうか。
「英雄なんぞに興味はないが、俺は強いやつと戦いたい。人間じゃなくても、魔物でも竜でも、神でも仏でも。そういうやつらがいる世界なら、喜んで行かせてもらおう」
男の思い通りになっているような気がしていたが、それでも余りある提案である。
人間を斬るためだけに、人生の全てをかけてひたすら研鑽を積んだ。
それは異世界でどこまで通用するのだろう。
彼は時雨の答えを聞いて、大喜びで声をあげた。
「よく言ったぜ、兄弟! 出口は向こうだ。もう待ってやがるぜ。お前が帰って来るのをよ」
彼の指さす先に天まで届く光の柱が現れた。
その光の柱はどこかの世界へと繋がっている、魂の道しるべである。
蘇生するにあたり、時雨に一つの疑問が浮かんだ。
「ちょっと待て。他人の体って、勝手に入っても大丈夫なのか?」
「問題ない。体なんてものは所詮魂を入れる器にすぎないからな。違和感はあるだろうが、大丈夫だ」
男はあっけらかんと言った。
「そうは言うが、まだまだ気になることがたくさん――――」
「まあ、そう心配するな。お前ならやれる。細かいことは気にするな。強いんだろ?」
そう言って彼は笑ったように見えた。
死人とはこうも気楽なものか、などとどうでもいいことを時雨は考えながら、広場に生まれた光の柱へ向かう。
その柱が自分のものではないことを強く感じる。
他人の食べかけの食べ物に手をつけるような、嫌悪感に似た感覚である。
間違って転生してしまうことを防ぐための本能へ刻まれた仕組みなのだろう。
死後の世界があることを知ったからか、まだ見ぬ世界へ飛び込むことに恐怖はない。
知らない世界であればあるほどいい。
そして、格上の敵がいる世界だ。
時雨は深く息を吸うと、光の柱へと踏み込んだ。