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忍者・忍術の研究ノート  作者: 辻風一
忍者の流派
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早道之者

 津軽藩につかえた忍者組織は「早道之者はやみちのもの」といった。

 この「早道之者」は、津軽(弘前)四代藩主・信政が江戸で甲賀忍者の中川小隼人らを召しかかえて隠密集団を形成したもの。他藩の隠密組織は平和な世で衰退、自然消滅していったが、この「早道之者」はめずらしく明治初期まで諜報活動をおこなっていた。

 中川小隼人の流派は甲賀系の中川流といい、または小隼人流、中川隼人流とも称する。


 近年、こんなニュースがあった。

 青森大学の薬学部教授・清川繁人氏は同大学の「忍者部」の顧問である。

 彼らが弘前市立図書館の学芸員に調査してもらったところ、2016年9月、保管されていた弘前藩古文書から、「早道之者」を構成していたメンバーの名前を見つけ出した。

 貞享2(1685)年に書かれた「妙心院様御代 御家中分限張」が見つかった。これは津軽藩四代目藩主・津軽信政の身分帳であり、「初代早道之者」である頭目・中川小隼人たち十九名の名前が判明した。

 教授と忍者部代表は名簿を巻物にしたため、13日、弘前市役所の市長・葛西憲之氏にわたし、謎につつまれた隠密集団「早道之者」の子孫さがしの助けをもとめた。

 教授は「子孫が残っていれば資料も伝わっているはず」とのべ、市長は「弘前城にまつわるイベントにぜひ参加を」と、彼らに意欲的な返事。


 ほかにも忍者部は弘前市のなかで忍者屋敷とおもわれる古民家を見つけた。江戸時代に実際に住んでいた藩士を調べたところ、豊臣秀吉につかえた五奉行の筆頭・石田三成の子孫が住んでいたかもしれないという。

 さらに、古文書によれば、三成の孫である杉山八兵衛良成すぎやまはちべえよしなりが蝦夷地の調査と監視のため、早道之者を創設し、かつ支配していたのではないかという。


 杉山吉成とは、石田三成の次男・石田重成の長男である。父・重成は豊臣秀頼の小姓をつとめていたが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍が敗北。三成のいた佐和山城も落ち、悲嘆にくれる重成であったが、津軽信建から救いの手があった。若狭国から陸奥国津軽藩の蝦夷地貿易ルートで重成は乳母の父・津山甚内ら郎党と津軽に落ち延びた。


 津軽信建が彼らを助けたのは、父・津軽為信が所領問題でもめていたとき、石田三成が便宜をはかってくれて、石田家と良好な関係を築いていたからだ。ちなみに、信建の烏帽子親は三成である。

 津軽で良成は杉山源吾と名を改め、信建の弟・信枚(弘前藩主)の娘と結婚。

 1600年、長男・杉山八兵衛吉成誕生。彼はのちに寛永21(1644)年に御証人役加判となり、加増されて1300石の知行地を与えられる。のちに家老職となる。杉山家は弘前藩重臣として存続。

「津軽一統志」によれば、寛文9(1669)年、蝦夷地でシャクシャインの戦いが勃発。江戸幕府からの命で津軽藩の軍隊が渡海。杉山良成は侍大将として700人の藩士を率いていた。のちに幕府から褒賞された。これには「早道之者」の諜報活動が役だったと思われる。


 また、宝暦5(1755)年の屋敷居住者をしめす地図には、杉山家の末裔にあたる白川孫十郎が居住していたとわかった。この屋敷は早道之者の拠点で、忍者屋敷であった可能性があるという。早道之者は諜報のほかに、蝦夷地と弘前藩内のアイヌと応対していたと思われる。


 清川教授は、古民家は滋賀県甲賀市につづき、日本で現存する二つ目の忍者屋敷に違いないと見ている。江戸末期の「早道之者」の頭目であったという棟方貞敬むなかたさだたか(晴吉)の子孫をさがしている。この藩士は津軽信順の隠居後の相続問題でもめて、30年の間自宅蟄居をしていたが、意外にも裏では忍者の頭目であったかもしれないという……


 青森ではこの三成と津軽藩の意外なつながりを知り、ANAと協力して、「石田三成と忍者ゆかりの地を巡る津軽の旅」の観光ツアーを大阪空港発着で開催。

 内容は忍者屋敷、津軽家菩提寺である長勝寺の訪問、三成の肖像画の見学、三成の子孫である杉山丕すぎやまはじめ氏の講演などが予定。杉山氏は青森市の企画集団「ぷりずむ」の取締役だという。

 このツアーは歴史好き、三成人気のたかい関西圏での誘致をねらったものだそうだ。これからの新史料の発掘に期待したい。


 ほかにも、津軽藩家老・服部長門守康成はっとりながとのかみやすなりの甲賀流がある。

 服部といえば、伊賀忍者を連想するが、伊賀と甲賀が戦っていたのはフィクション。現実の伊賀と甲賀は隣接の地で、相互仲が良く、婚姻も盛んであったため、同じ苗字の者が存在する。


 この服部康成は関ヶ原の戦いの中の、大垣城の戦いで、攻め手の津軽為信に300石で召しかかえられた。忍術で大垣城内に潜入し、将兵の士気や城内の守備を調べ、偽情報をながして撹乱かくらんを起こして、大垣の落城に貢献した。この手柄で徳川家康にも謁見し、お褒めの言葉をたまわったという。

 のちに加増されて奉行職になった。為信死後、二代目信枚の後見人となり、弘前藩から2000石と江戸幕府から1000石、合計3000石の筆頭家老となった。


 また、青森の観光名物である「津軽の大灯籠」である「ねぶた」の原形のアイディアを出した説がある。文禄2(1593)年、津軽為信が京都在留のおり、盂蘭盆会で服部康成に大灯籠をつくらせ、洛中を練り歩かせたという。しかし、「ねぶた」を初お披露目した文禄2(1593)年はまだ津軽家藩士ではなかった。


 服部康成の大垣以前の履歴は、かなり不明なことから、さまざまな憶測がある。本当の出身は伊賀で、服部正成の庶子、同じ服部一族とも考えられている。「康」の字は家康からたまわったものという説もある。

 大垣城の戦いで手柄をたてたといえ、藩政で家老にまでなった、幕府から千石さずかったなどの事から、津軽家が石田三成の子孫を優遇していることから、家康が津軽家の監視の付け家老として服部康成を置いたのでは? という説がある。


 その他、津軽には堀口源位斎貞満の堀口小隼人流が伝えられる。


 ちなみに南部藩に仕えた忍者は「間盗役かんとうやく」という。

 天正年間、南部の家臣・九戸政実くのへまさざねの乱のとき、九戸の仲間に、鉄砲の名手工藤業綱、間盗役の唐式部という名前がみられる。


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