鉢屋衆
鉢屋衆とは芸能集団であり、正月や祭礼のときに芸をおこなうが、ときに兵役も務めた。
彼らの出自については「雲陽軍実記」のなかの「本朝鉢屋之由来幷雲州苫之由緒之事」にくわしく記載がある。
平安時代中期、平将門と藤原純友は朝廷から反乱し、承平・天慶の乱(931年~947年)を起こす。
そのとき、彼ら鉢屋衆の祖先は将門の配下となった。その祖先の名は飯母呂一族という。彼らは物聞・物見として都にいく。
しかし、平将門の死後、飯母呂一族は諸国に散り散りとなる。ある説では、山陰地方に逃れた一族が鉢屋衆となり、筑波地方に逃れた一族が風魔衆となったという。
なんといっても朝廷に逆らった一族であるから、まともな職種にもつけず、土地も無く、困窮の果てに「矢背(八瀬)、大原、鞍馬、市原、高雄、愛宕」の山深くに隠れ潜み、夜になると平安京の洛中・洛外から畿内に出て追いはぎ、押しこみ強盗、辻斬りなどの悪事をしてたつきを立てた。
そんなある日、名僧・空也上人に出会う。彼に教え諭され改心する。四条・五条の河原に苫屋という粗末な小屋をたてて住みつく。念仏を唱え、鉦や鉢、瓢をたたいて市中を托鉢してまわる。ほかにも茶筅や竹細工をつくって売り歩き、生計を立てた。それゆえ、飯母呂一族は鉢屋とも、苫屋ともいわれるようになった。ほかにも万歳や鳥追いなどの芸能をおこなっていた。
そして、空也上人の紹介で、朝廷から盗賊捕縛の役目をあたえられた。朝敵だった一族が都を守る役人となるとは、天地がひっくり返るほどの激動の人生である。もともと将門の忍者として平安京で諜報活動をおこない、流浪の果てに盗賊にまで堕ちた鉢屋衆である、素人から玄人の盗賊まで続々と捕まり、平安京から盗賊が消えたという。京での活躍が有名となり、各地の守護職や国司も鉢屋の者をやとい、治安維持にあたらせた。
とまあ、なにせ平安の昔の話であるから第一次史料が少なく、これらは伝説のような話である。
さて時はすぎ、室町時代。鉢屋衆が西国の忍者として有名になった事件を紹介しよう。
尼子経久は本家の京極氏から月山富田城(島根県安来市)の出雲守護代を任命されていたが、本家からの独立をはかり、租税を納めず、寺社の領地を奪っていた。いわゆる戦国大名のはしりである。
そのため本家の京極氏から守護代職を奪われ、富田城から追放された。経久は牢人のすえ、鉢屋弥之三郎と出会う。尼子経久は富田城を奪還するために鉢屋賀麻党をつかうことにした。
芸能集団・鉢屋賀麻党は毎年の元旦に、富田城に参内して、千秋万歳や鳥追いの祝儀をおこなう慣習になっていた。尼子経久はそこに着目して、策を練り、鉢屋賀麻の頭目・鉢屋弥之三郎らと打ち合わせをした。
文明十八(1486)年元旦の朝早く、烏帽子をかぶり、派手な素襖を着た鉢屋賀麻党はいつもの恒例で城内にはいった。笛を吹き、太鼓を叩き、歌い踊りながら進む万歳師たちは今でいうエンターティナーだ。
京極氏より新たに富田城の守護代をまかされた塩谷掃部介はじめ、家臣・城兵たちが、「あ~ら、めでたや、五十六億七千歳、弥勒の出世、三会のあかつき……」と、歌い踊る万歳師たちに注目。
ちなみに万歳とは、平安時代の雅楽で万歳楽という曲があり、そこから、君主の長久を祝う芸能の万歳ができた。
さすがにめでたい正月ともなると隙が出る。その隙をねらって尼子経久ら家臣七○数人が搦め手から忍びこみ、城内のそこここに火をはなち、鯨波の声をあげた。
鉢屋衆もこれに応じて素襖を脱ぎ捨てる。その下には甲冑を着込んでいた。さらにかくしていた長刀・手槍をつかみ、城兵を襲いはじめた。
塩谷掃部介は意表を突かれたかなしさ、防戦がおぼつかず、妻子を刺殺して自刃。富田城脇に彼の墓がある。かくて尼子経久は奇襲で富田城を手にいれる。
尼子経久は富田城を拠点にして、ついで出雲・伯耆を平定。山陰地方の覇者となっていく。
その影には鉢屋賀麻党がいて、諜報活動、合戦で奇襲などをして活躍したらしい。なにせ、「尼子の行くところ、常に鉢屋あり」と、謳われたからだ。
そして戦国時代の天正六(1578)年、破竹の勢いの尼子氏も新興勢力の毛利氏に敗北。鉢屋衆はまたもや流浪の身になる。だが、毛利氏は鉢屋党の都での評判をいかし、支配地域の警備の仕事をまかせる。
江戸時代にも鉢屋の警備はつづき、制度化される。犯罪を取り締まったり、税の取り立てをしたりする下級役人であったようだ。
鉢屋はほかにも借金の取り立てもしていて、「鉢屋取立」は民からおそれられる。
しかし、明治以降は特権をとられて零落していったようだ。




