雑賀忍者
雑賀衆とは、戦国時代に鉄砲を得意とした地侍集団で、すぐれた傭兵として周辺の戦国大名や寺院勢力にやとわれた。
なお、「雑賀」の読み方は正しくは「さいか」であり、「さいが」は間違いである。
住んでいたのは、紀伊国北西部(現在の和歌山市と海南市の一部)で、「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷」「南郷」「宮郷」という五つの地の地侍でなっていた。
住んでいた地域には紀ノ川河口があり、海運や貿易もおこなっていた。また、水軍もあったという。雑賀荘は肥沃の地であり、紀伊国でもトップレベルの生産力があった。戦国時代末期には、なんと紀伊国の人口の四分の一!
雑賀の農民のおおくは石山本願寺の門徒で、彼らをまとめる頭株である雑賀氏や土橋氏も門徒であった。
彼らをまとめた頭株は、雑賀荘の土橋氏や、十ヶ郷の雑賀鈴木氏である。
中でも有名なのが鈴木孫市だろう。
彼は和歌浦に突き出ている雑賀崎(和歌山県和歌山市)に、雑賀城を築き、七万石を領していた。性格は明るく、酒と女を好んだという。このあたりは司馬遼太郎氏の小説「尻啖え孫市」が有名であろう。
根来忍者の章でものべた津田監物算長は種子島で鉄砲とその製法技術、射撃術をまなび根来に持ちかえった。そして、日本での製造が成功。ついで根来の近くに住む雑賀にも鉄砲技術が伝わる。
根来と雑賀は密接な関係にある。雑賀出身の者が根来の僧となり、また僧をやめて雑賀に戻り、と血縁関係の者が多かった。
やがて、根来衆と同じように、鉄砲のたくみな物やすぐれた傭兵を多くもつ軍事集団として急成長していく。
雑賀孫市は津田監物の鉄砲技術をまなび、それをいかしたゲリラ戦術を作りだした。これが雑賀流忍術といわれている。
孫市を頭目とする鉄砲傭兵集団・雑賀党は戦国大名から金銭による契約で雇われて合戦に参加。傭兵として戦争にくわわるのは伊賀・甲賀の忍者と同じであるが、決定的に違う点がある。
雑賀孫市は勢力のある大名や高い報酬を提示されても、気に入らない相手には雇われなかった。逆に弱い相手のほうに味方をしたという。戦国時代にこんな痛快な人物が実在したとは、まさに「尻啖え孫市」だ。
雑賀党の記録は15世紀頃からあり、応仁の乱で畠山氏にやとわれて戦場を往来した。
鈴木孫市は一向宗(浄土真宗)の門徒であり、石山本願寺の顕如上人のもとめに従い織田信長の軍と戦っている。
そこでの痛快な軍略、ゲリラ戦法、すなわち雑賀忍術の話があるのだが、別の機会に「鈴木孫市」の章で、くわしく語ろうと思う。




