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忍者・忍術の研究ノート  作者: 辻風一
忍者の流派
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上杉謙信の忍者 〈軒猿〉

 上杉謙信は武田信玄より9歳年下であったが、その軍略は天才と呼ばれ、軍神とも呼ばれていた。

前項で信玄の忍者集団について紹介したが、武田信玄の諜報機関に対抗して上杉謙信も独自の忍者組織をつくりあげていた。


 越後の忍者の名は『軒猿のきざる』といい、“けんえん”とも呼ばれていたようだ。この軒猿という変わった名は「萬川集海」によると、「義帝ヨリ始マリ軒轅ケンエン黄帝コウテイ、推シ弘メタマウ」とある。

 つまり紀元前1900年ごろの中国の古代神話に登場する軒猿皇帝〈黄帝〉のことだ。中国では用間(密偵、スパイ)を最初につかったのは黄帝軒猿といわれている、そこから謙信が名づけたという。


 密偵の重要性と研究が本格的になったのは春秋戦国時代(紀元前500~300)ごろとされており、孫武の『孫子』でも密偵の使い方が書かれている。

 「かんに五間あり、郷間、内間、反間、死間、生間。反間ほど利のあるものはない」と書かれている。“間”とはこの場合、忍者の先祖のことである。 


 歴史に残る戦国武将はいずれも中国の兵書(軍事マニュアル)を学んで精通している。謙信もまた、虎千代の少年時代に林泉寺の天室光育から教え受けたが、特に兵書を熱心に勉強した。

 虎千代は2メートル四方の城のジオラマを作って、城攻めの模擬実験を行うのが好きだった。兵の駒や大砲の駒を動かす遊びから、のちの軍神とも呼ばれた用兵術の下地ができたのではないか?

 兵書マニアの上杉謙信が己の諜報機関に学のある名前をつけたという説もなるほどと頷ける。

 軒猿の構成は伊賀、甲賀などの混成部隊で、忍術名人を雇ったらしい。


 では、上杉謙信関連の歴史書から垣間見られる『軒猿』の活躍を紹介しよう。


 天文17(1548)年、守護代を相続して、春日山城主となった謙信は19歳。その若さですでに忍者を北陸地方と甲斐国に送った。信玄も忍者組織を二十代で組織したが、謙信も早い……


「越後軍機」によれば、「近習の者、七人に聞者もんじゃ役をいいつけ、三人は甲州へ使わし、四人は越中、能登、加賀に住まわせる。聞者役は忍びの者、あるいは目附、横目ともいえる類なり。これにより、国主の政道、群臣の行跡、庶民の風俗にいたるまで、日々注進せしかば、国々の善意をつぶさに知りたまえり」

 すでに信玄を竜虎の争いのライバルと予想して、各地の情報収集を始めていたとは恐れ入るばかりだ。


 天文22(1553)年、北信濃の村上義清が武田信玄に攻められ、謙信を頼って落ちのびてきた。村上義清についていた武将四名が武田信玄の家臣となり、謙信軍への先鋒となった。

 謙信は軒猿のなかでも腕利きの中西という忍者をつかって四将を離反させる策をたてた。軒猿・中西を農民に変装させて偽の密書を持たせ、ワザと武田軍に「こんなものを拾った」と武田軍に届けるという作戦だ。


 偽密書には四将の楽巌寺雅方がくがんじまさかたらが信玄を裏切って上杉軍に寝返るというものだ。これを読んだ信玄はにわかに信じにくかった。が、謙信が北信濃の川中島に大軍を集めているという情報を得、四将の裏切りをかんがみて軍を動かすことにした。

 農民に化けた軒猿・中西は「実は拙者は楽巌寺雅方の命令で上杉に使いに出た。が、運悪く敵方に捕らわれてしまった。疑われるのを避けるために密書を拾ったと差し出したが、これでは主君・雅方さまに戻ることはできない。どこか他国へ逃げる」といって逐電した。


 これで信玄は楽巌寺雅方ら武将四名の裏切りを確信し、甘利晴吉と高坂昌信に命じて四将を内通嫌疑により斬らせた。上杉謙信の離間策が成功したのである。


 忍術でいう「蛍火術けいかじゅつ」の策である。これはほたるが己の腹中から火を出すことから、腹心の家来が謀反を企てていると偽の情報を与えて、疑惑を生じさせ計略にかける術のことである。

 謀将の信玄でさえ判断を見誤ったのは、中西の変装術と演技力の力、いつ裏切るか分からない戦国の世が疑心暗鬼に陥れたのであろう。


 永禄3(1560)年9月、謙信が関東に出兵したさい、謙信暗殺をもくろんだ北条氏康の忍者・風魔衆の波多野治右衛門、当麻平四朗を捕えている。

 翌年の川中島の戦いでは信玄の透波十七名が生け捕りされた。生きたまま忍者狩りをするとは、軒猿の腕の高さがうかがえる。


 また、出羽三山〈月山・羽黒山・湯殿山〉(山形県)、弥彦山(新潟県)、黒姫山(長野県)、能登半島石動山(石川県北部)の修験者もまた、上杉謙信の忍びに雇われたのではという説もある。

 山田風太郎氏の「忍法忠臣蔵」で江戸元禄時代の上杉藩の忍び組が『能登組』と称したのは、その説をとりあげたからであろうか……


 そういえば忍者をあつかった小説やドラマなどでは、謙信の忍者が富山の売薬商人に化けることが多い。富山の薬売りの一部も謙信の忍者であったのだろうか?


 富山の薬売りは謙信が始めたという説があるが、確かではない。富山で売薬がはじまったのは16世紀に越中の薬種商の唐人の座ができたのが始まりで、17世紀初めに富山藩二代目藩主・前田正甫が産業して奨励したのが盛んになった。


 また、武田信玄が富士御師を諜者につかったように、謙信も立山連峰の立山御師を密偵につかったという説もあるが、これまた正確なことはわからない。

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